哲学的アプローチ(Wbasic)

今回は哲学的アプローチよるWbasicの解説になります

そこで今回の題材としては自由というテーマをもとに理解を深めたいと思います。自由という言葉の中には何が含まれているのでしょうか?

自由は主に人身の自由・経済的自由・精神的自由で表されています。

人身の自由とは
人が不当にその身体を拘束されない自由をさす。身体の自由ともいう。伝統的な自由権の一つである。身体の自由が保障されない限り、人はいっさいの対外的活動が抑制される。その意味で、人身の自由は人間にとって基本的な自由である(日本大百科全書より)

経済的自由とは
基本的人権を内容の観点から分類した場合の一つで,職業選択の自由 (憲法 22) や財産権 (29条) など人の経済活動にかかわる自由権を「経済的自由」ないし「経済活動の自由」という。(ブリタニカ国際大百科事典より)

精神的自由とは各個人の内面的生活およびそこから直接流出してくる活動に関する自由権をいう。思想および良心の自由 (憲法 19) ,信教の自由 (20条) ,言論,出版,集会,結社その他一切の表現の自由 (21条) ,学問の自由 (23条) などがその代表例。(ブリタニカ国際大百科事典より)

この自由の様々な解釈や制限を受けることにより、私たちが怒りや悲しみを覚えるわけですが、今回の哲学のアプローチでは精神的な自由に含まれる自由の言葉の定義を掘り下げてみたいと考えます。

そこで参考にしたいのはイマヌエル・カントの「道徳形而上学原論」です。カントの定義する自由は厳格なもので、市場で物を売買する際の選択の自由よりも厳しく

「大多数のひとが市場の自由や消費者の選択だと考えているものは真の自由ではない。なぜならそこで満たされる欲望はそもそも、自分自身が選んだものではないからだ。」

と言っています。私たちが普段感じている自由とちょっと違う感じがします。私たちが自動販売機でコーラを選択するときや、ショップで服を選ぶときなど、それは選択の自由として、自由を感じていると思います。しかしカントはそれを自由だと認めていません。もっと根源的な自由という定義のようです。その自由でない理由を、

「動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的要求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。欲望を満たそうとしているときの行動はすべて、外部から与えられたものを目的としている。この道を行くのは空腹を満たすため、あの道を行くのは渇きを癒すためだ。」と説明しています。

昔、「Obey your thirst」(渇きに従え)というキャッチフレーズでスプライトのCMがやっていたことがあります。意図したかは別として、私たちが自動販売機でスプライトを選ぶときに、はたして自分で選んだのでしょうか?夏の暑い日にホットコーヒーを飲まないように、外部からの働きかけにより欲望によって選択していたりしないでしょうか?はたしてその時に自分は自由な選択をしていると言えるでしょうか。自分が選んだのではなく欲望に反応しているだけといえないでしょうか。

しかし、そのような行動が、DNAによる先天性によるものなのか、広告によって誘発された行動なのかという議論はそもそも的外れだとカントは言っています。生物学的に決定されていようと、社会的に条件づけされていようとそのような行動は完全に自由とはいえない。

「自由な行動とは自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。」

と言っています。そしてこの自律的な行動を説明するためにカントは新たな言葉を作りました。それは「他律」で、他律的な行動とは、自分以外のものが下した決定に従って行動することとしています。たとえば、

「今度、司法試験を受けようと思うんだ。」

「どうして司法試験にを受けるの?」

「司法試験に合格して弁護士になりたいんだ。」

「どうして弁護士になりたいの?」

「お金持ちになって優雅な暮らしをしたいんだ。」

これがカントのいう他律的な決定です。あることをするのは別の目的のためであり、その目的を実行するのはまた違う目的のためというように延々と続いていく。他律的に行動するということは、誰かが定めた目的のために行動することです。そのとき、私たちは目的を定める者ではなく、目的を達成するための道具にすぎない。こんなことを自由とは言わない。この他律の対極にあるのがカントの言う自律の概念です。

「自分が定めた法則に従って自律的に行動するとき、われわれはその行動のために、その行動自体を究極の目的として行動している。われわれはもはや、誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものだ。この能力が人格と物を隔てているものである。」カントにとって人間の尊厳を尊重するのは、人格そのものを究極目的として扱うことです。

ちょっと難しい考え方です。カントのいう人間の尊厳とはいいかえれば道徳のことです。自身や他者の利己的な行動に左右されず人間的道徳によって判断される意志決定が自律的となります。では、この道徳(自由)とはどういうことでしょう。

「善意志は、それが及ぼす影響や達成するもののために善いのではない」

と言っています。これは、その行為がうまく行こうと行くまいと、善意志はそれ自体が素晴らしい。「たとえ、この意志が・・・その意図を実現するための力をまったく欠いていたとしても、あるいは最善の努力を払ってもなお、何も達成できなかったとしても・・・その意志はあたかも宝石のように、すべての価値を内包するものとして、それ自身のために輝く」このように述べ、どんな行動も、道徳的に正しいものとなるには

「道徳法則に従っているだけでなく、道徳法則のためになされなければならない」が必要と説きます。

行動に道徳的な価値を与えるのは、義務の動機が重要になります。カントの定義によれば、正しいことを正しい理由のためにおこなうことです。つまり、動機の中に道徳が含まれていると解釈できます。どのようなものが道徳的動機でどのようなものが道徳的でない動機なのでしょう。実はここに動機というWbasicが存在します。一つはカントのいう「道徳的動機(義務の動機)」もうひとつは、「私利的動機(傾向性の動機)」です。ではこの二つの動機の違いをみていきましょう。


                            次回へつづく


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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