日本人の3割の羊(1)
2020年 某月某日
まずはじめにすべての可能性を排除しないことを前提とする。
世間は流行的疾患の影響で小中高の学校が一斉に休校となり、日本の経済活動も下降をたどっている。この瞬間にも多くの人は満員電車に揺られ自分や自分の家族のために足繁く働いているのだろう。
先日「もっと言ってはいけない」(橘玲著者)の中で、
①日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。
②日本人の3分の1以上が小学校3年生程度の数的思考力しかない。という事実が赤裸々と語られていた。
この事実を貴方はどう感じただろうか。
多くの人は「間違いだそんなはずはない。」や「私は残りの7割だから関係ない。」など多くの意見があると思う。この統計的事実を突きつけられたときに私はふと疑問に思った「この知識社会において小学3年生程度の学力でどう生きてきたのだろう?」人が社会生活を始めて多くの時間が流れている。
初めは狩猟を主とする狩猟時代そして稲などを栽培する農耕時代にと、人は環境に適応するようにあり方をアップデートしてきた。その中で多くの生き物は環境に適応できずに種を途絶えさせた。ダーウィンが言うように「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢いものが生き残びるのでもない。唯一生き残ることができるのが変化できる者である。」が正しいのであれば知識社会において知識が低いことは生き延びることのできない特徴であるはず。にもかかわらず現在、2020年になっても世界のなかで高い知識レベルを保つ日本において国民のおよそ30%が小学3年生程度の学力しかないという事実がある。ということは仮説として昔から総人口の30%は一定水準の学力を有しない人たちが存在しこれから100年たってもその比率はおそらく変わらないのではないかと。もしその仮説が正しいのであれば総人口の約30%の人たちは不要ではなく必要なのである。自然淘汰されることなく社会生活を営んできた血が受け継がれ学力を必要としない生き抜き方がそこには内包されているはずだ。
この前提を考えたときにあなた自身の周りにこの3割の羊は存在していはいないだろうか。最も学力レベルの高い人間はその仲間たちでコミニティーを作り、現在の自分たちの周りには存在していないかもしれないので、学生時代を考えてみてほしい。無作為に地域別にまとめられた現代の学校教育において多くの人は学区による学校生活をしてきたはずだ。しかしここにも例外が存在し幼いころから有名名門一流幼稚園からエリートコースを渡りあるいた人もいる。そういう人たちは全くかかわったことのない人種かもしれない。そこはあしからず・・・。
私自身過去の学校生活を振り返ってみてそういう人が存在していたかと言えば存在していたと記憶している。彼らは基本考えることが嫌いで本能のまま行動する。様々な家庭環境も考慮するが安直な理由で喧嘩をしたり犯罪を犯したりしていた。それとは別に考えることが苦手で努力しても結果になりにくい人たちも存在していた。彼らは一所懸命に授業を受け、きちんとルールを守ってはいるが成績に反映されない。つまり結果が出にくいのだ。普通の人が10分かかることを1時間かかる。
これはどういうことか。
結論から言えば「システムが違う。」ということだ。WIN95とWIN10ではCPUが違うので処理速度が違うように生まれ持って搭載しているCPUが違うのだ。これは学習という分野だけではなく体を上手に動かすためには脳が正確に指先まで自己操作できなくてはならない。その繊細な操作を可能にするために反復運動を繰り返すわけだがこれも載せているCPUが違う場合、別の結果、処理時間、ずれが出る。当然のことだが僕らは遺伝により得意・不得意が存在する。この遺伝的事実をマイナスにとらえるのではなく、客観視し強みにかえる必要がある。「何が得意で何が苦手か。」これを知り初期値を再設定し人生をデザインする必要がある。簡単に言えばWIN95でWIN10に処理速度で競っても何の意味もなく非効率ということだ。できないことは出来る人にやってもらえばいい。それこそが人が集団でいることの意味がありバラエティーに富んだ豊かな社会というものであろう。次からは具体的に身の回りにいる3割の羊の方を紹介しよう。
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