サプライズに含まれるある種の暴力性

世の中では、大切な人へ気持ちを伝えるために「サプライズ」という手段がよく使われている。例えばそれは、誕生日プレゼントだったりプロポーズだったりという形で自分たちの周りで多く行われており、一般的には良いものであると見なされているように思う。

しかし、このサプライズという手段にはある種の暴力性のようなものが含まれているように思う。はじめに断っておくが、これはサプライズを冷笑し、否定する記事ではない。サプライズが含む負の側面を考えることで、今後行ってしまうかもしれない独りよがりな行動を戒めるための記事である。

誕生日プレゼントを例に挙げて考えてみる。相手を驚かせるため、相手が以前から欲しがっていたものをサプライズでプレゼントしたとする。
ここで注意したいのは、相手が以前欲しがっていたからといって今も欲しがっているとは限らないということだ。今は飽きてしまっているかもしれないし、むしろ嫌いになっている可能性もある。その場合、渡されたプレゼントは相手にとって無駄なものとなってしまう。必要なわけではないが、プレゼントで貰ったが故に処分しづらい。そんな扱いに困る品物を渡してしまう可能性がある。事前に何が欲しいか本人に訊いたうえで、プレゼントすればこういった事態は避けられるが、それではサプライズは成り立たなくなってしまう。

サプライズの利点は「驚きによる喜びの増幅」だと考える。あらかじめ何があるか知っていれば安心はできるものの、そこに付随する感情というのは大人しくなってしまいがちだ。事前に心の準備をする余裕があるからだ。しかし、サプライズでは予想外な出来事で感情を刺激することにより、一気にそれを瞬間最大風速へと持っていくことが可能であり、その風速を見たいがために我々はサプライズをするのだと思う。
しかしながら、その相手の予想外のところから喜びを持ってくるという特徴故に上記のようなすれ違いが起こる可能性もある。

サプライズというのは相手の喜ぶポイントを決め打ちし、相手の驚喜する顔を見たいがためにやるようなもので、乱暴な言い方をすれば「これが嬉しいんだろ?喜べよ」と相手に強いているようなもので、これは一種の暴力になりうることだと思う。

冒頭にも書いたが、この記事にはサプライズという手法を否定する意図はない。自分だって親しい人間からサプライズでプレゼントを貰うと嬉しいし、仮にそれが要らないものだったとしても自分のことを思って選んでくれたということで大切にするつもりだ。
ただ、サプライズには相手の求めていないものを押し付けてしまう可能性があり、相手とそのリスクを負えるような間柄であるか考えることが必要なのではないかということを書きたかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?