自分は差別すると思う

ある人がこんなことを言っていた。
「私は性的マイノリティについて知識があるから、差別しない」
それを聞いた時、「その考えは少し危険じゃないか」と思った。

人は差別をしたくてしているのではない。
それが差別だと気づいていないで差別しているというケースが大半なのではないかと思う。

だからこそ、自分の中にある差別行為の種みたいなものに気をつけた方が良いのではないかと思う。
自分は差別をしてしまうかもしれない。というか、もう差別してしまっているかもしれない。それくらいの心持ちでいた方がいいのではないかということだ。

ニュースなどを見ていても、ヘイトスピーチをしている人々はまるで自分たちのやっていることが正しいことであるかのように振舞っている。あの人々の中ではヘイトスピーチはヘイトスピーチではないのだと思う。

自分たちに必要なのは「差別をせず、偏見を持たない意思」というよりも、むしろ「常に己の言動を振り返ろうとする意思」なんじゃないかと思う。

その観点で言うと、「自分は差別しない」という断定的な口調には少し危険性を感じる。もし、本当に偏見を持ったり、差別しないのであれば、それはとても素晴らしいことではあるが、人間はそこまで完全ではないと自分は思う。上記の発言は「自分は間違ったことをしない」と断言しているようなもので、そんなことは不可能に近いだろう。

むしろ、そう思い込むことで他者に対して横暴になってしまうことがあると思われる。「自分は間違っていない」という確信も持つと、強い言葉を使ってしまう傾向が人間にはあると思うからだ。
「自分は正しい」という確信を得た人間は、他者に対して強気な態度で接する。「そんなことも分からないのか」という言葉の裏には「自分はそんなこと完璧に知っている」という自信があり、「お前は馬鹿だ」という言葉の裏には「自分の指摘は明らかに正しい」という自信があるように思う。

逆に言えば、自信がない状態というのは「強い言葉が使えない状態」であると言える。「自分の指摘が的外れなのではないか」と思っていれば、頭ごなしに相手を否定するような物言いは慎むだろう。
自信がないのは悪いことだとよく言われるが、個人的にはそうとも言い切れないのではないかと思う。

物事に絶対はない。だからこそ物事をあらゆる角度から再確認し続ける態度が必要ではないだろうか。その態度が自信がないこととイコールで繋がるわけではないが、少なくとも物事の不確実性を意識している人間でないとそういった態度にはたどり着かないのではないかと思う。

よく企業のHPなんかに「私たちは差別をしません」という宣言を見かけるが、ああいうのは少し胡散臭く感じる。自分だったらこうする。
「私たちは差別をしてしまうかもしれません。なので、周りから差別行為を咎められたときはその主張をよく考慮した上で、態度の是正に努めていくつもりです」
だいぶ弱気だが、こっちの方が好感が持てる。自分たちが間違った方向に進む可能性を心配しているからだ。心配や不安が改善行動を生むと思う。

自分は優しい人間になりたいと思っている。誰も傷つけないような人間になりたい。
でも、自分のせいで人が傷ついてしまうこともある。自分で意識している以上に自分は周りから見たら”嫌な奴”だと思われてるだろう。
だからこそ、適度に自分の行動を省みて、周囲の声を聞きすぎない程度に聞いて、自分の考えや行動を調整していきたいと思っている。
この姿勢が正しいのかどうかは分からないし、いつかは変わるかもしれないけれども、今はそんなつもりでいる。

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