ゴジラの神格性とその破壊【ゴジラ-1.0感想〜ギャレゴジ、エメゴジ、シンゴジとの比較を添えて〜】

※ゴジラ-1.0の完全なネタバレがあります。ローランド・エメリッヒ版のゴジラ、ギャレス・エドワーズ版のゴジラ、シン・ゴジラ、アニメシリーズのゴジラに関しても一部ネタバレを含む言及があります。

ゴジラ-1.0のゴジラがあそこまで恐ろしいのは何故だろうか。
主人公が初めに大戸島で邂逅したゴジラは、銃の音に反応し、兵士にがぶりと襲いつく。首を大きく振って暴れるその姿は、「ジュラシックパーク」の肉食獣を思わせる。
次に主人公が海で再会を果たしたゴジラは、ビキニ環礁の核実験の影響を受けて巨大化し、再生能力も脅威的なものがある。ボロ船に乗った主人公たちの目と鼻の先にまで接近し、彼らの生命を脅かす様はさながら「ジョーズ」のクライマックスだ。

いずれも手に汗握る緊迫感のあるシーンだが、一方で、近年のギャレス・エドワーズ監督の「GODZILLA ゴジラ(2014)」から端を発するいわゆるモンスター・ヴァースのレジェンダリー版ゴジラシリーズや、庵野秀明の「シン・ゴジラ」が丁寧に紡ぎ上げてきた「人間の攻撃などものともしない。圧倒的な上位存在としてのゴジラ」よりはいくらか獣臭い一面も感じる。

大戸島でのゴジラは、発砲してきた整備兵に対して明確に反撃の意図を持って突進している。シン・ゴジラの「生まれたての生物がたまたま歩いていたら文明を踏み潰してしまった」のとはわけが違う。

海上での再会のシーンでは、すぐに再生されてしまうものの、主人公たちは機雷をゴジラに丸呑みさせ、機銃で内側から爆破するという作戦で一矢報いることに成功している。

この二点の描写だけみると、この映画はゴジラを「殺害可能なモンスター」として描こうとしているようにも感じられた。

ここで連想されるのが、(興行収入はけして悪くないのだが)、ハリウッド版ゴジラの失敗作として揶揄されることも多い、ローランド・エメリッヒ監督の「GODZILLA(1998)」、通称エメゴジだ。
このエメゴジのゴジラは首回りが細く、ティラノサウルスにも似た外見をしていて、動き方もすばしこく、まるでトカゲのようだ。卵で生殖するあたりも、「怪獣」というよりは「恐竜」の要素が強く、神話生物のような神々しさはない。何より、繁殖という手段で永らえるものの、一個体としてのゴジラは米軍の武器で撃破されてしまう。
これは、ゴジラが水爆実験で生まれたモンスターであるという設定を持ち、1954年の初代ゴジラが単なる娯楽映画ではなく、反戦・反核映画としての面を有していたことを考えると、致命的な描写だ。

ギャレス・エドワーズのゴジラ(通称ギャレゴジ)は、その辺りの理解が深かった。シン・ゴジラを賞賛する人々の中には、比較してハリウッドのゴジラを貶す人も散見したが、「ゴジラの神格性の復興」に先に取り組んでいたのはギャレゴジだと声を大にして言いたい。劇場であのゴジラの咆哮を聞いたときの感動は忘れない。あれこそがゴジラ完全復活の声だった。
……というギャレゴジへの個人的な贔屓はさておき、ギャレゴジもシンゴジも、徹底してゴジラは人間の攻撃をものともしない、他の生物とは一線を画した存在としてゴジラを描いていた。

ギャレゴジのゴジラは「調和をもたらす存在」として描かれる。発達しすぎた人類の文明(核弾頭)も、人間を滅ぼさんばかりの勢いで暴れる別の怪獣も、ゴジラにより等しく薙ぎ倒される。ゆえに、人間側は基本的にゴジラの討伐を放棄して、ひとりでに海に帰っていくのを待っている。
この辺り、別に人間を助ける意図はないが、T-LEXがラプトルを食い殺して人間たちが漁夫の利的に難を逃れるジェラシックパークの描写にも通じるものを感じる。主人公たちは助かって物語としては大団円を迎えるものの、T-LEXは最強王者としての威厳を失わない、絶妙なラストである。

ギャレゴジ以降のゴジラはよく、震災や噴火などの自然災害に喩えられる。倒すとか倒さないとか、そういった次元を超えて人類に襲いくる脅威。そして文明崩壊の結果自然が再生したりと、良い面があったりもする。核を行き過ぎた文明、人間の驕りの象徴として描き、その先へ進もうとすると、ゴジラという自然が警鐘を鳴らす。ゴジラの反核的な本質を捉えた描写といえるだろう。

シンゴジでは何より、ゴジラそのものの造形に拘りがみられる。ゴジラを「この世にあらずもの」として描くため、野村萬斎に足踏みさせ、科学者たちに早口でその生物としての異常性を語らせた。日本の知恵と技術を結集させた作戦は功を奏すものの、ゴジラはあくまで「凍結」され、恐怖のシンボルとして人々の眼前に残り続ける。撃破不可能な超常存在、それがゴジラだ。

このような前提を踏まえてみると、-1.0のゴジラの描き方には些か疑問を覚える。

ゴジラ-1.0のゴジラは怖い。しかし、果たして強いのか?
たとえば、シン・ゴジラのゴジラは米軍の最新兵器を食らってもビクともしなかった(対地爆弾でやっとかすり傷程度)実績があるが、-1.0ではそもそも米軍の助けが得られていない。終戦後、武装解除した旧日本軍の乏しい武器だけが頼りだ。ゴジラが強いというより、人間側が弱すぎる。まさに竹槍特攻だ。

余談だが、この辺りの「闘おうにも武器がない。が、持てるもの持って闘うしかない」の精神は、描きたいものに対して圧倒的予算不足の中で作られたのであろう本作の戦闘描写にも通じるものがある。戦闘機が離陸する瞬間の絵がなかったり、パラシュートで飛び出したと思ったら次の瞬間には艦上にいたり、武器をこれでもかと放つシーンがなかったり……意図的な部分もあるだろうが、かつてテレビシリーズのスタートレックが宇宙船の搭乗シーンを取る予算がなかったために、転送装置を「開発」したという逸話を思い出すような涙ぐましい節約への努力が感じ取られる。
一方で、最後の決戦こそも街を破壊する予算のかからない海上ではあるものの、夜の場面にして画面の暗さで誤魔化さず、太陽の下で描き切っているのは賞賛に値すると思う。
閑話休題。

主人公・敷島も描かれ方からして強い人間とは言い難い。特攻から逃げ、大戸島では引き金を引けなかった臆病者。しかし赤児を捨てて帰れない優しさを持ち、典子と子供を守るためには危険な航海にも乗り出す。何とも親しみやすく、共感しやすいキャラクターだ。

シンゴジが巨災対を奇人変人の集まりとして面白おかしく描いていたのに対して、-0.1の人間ドラマは王道真っ直線の「ベタ」であり、リアルな日本人の感情表現としては封印されたはずの「虚空に向けて絶叫」のシーンもしっかりある。
ただ、ベタではあるものの、令和仕様のアップデートは娯楽映画としてきちんとされている。ヒロインの典子は居候の身に甘えず自立しようとするし、拾ってきた血の繋がらない子供と三人で身を寄せ合って擬似家族を形成する様も微笑ましい。血縁や人種などのバックボーンによらず乗員を家族と迎え入れるスタートレックビヨンドの描写を思い出した。当時の家族観を保ちながら、現代の視聴者が不快にならないよう、細心の注意が払われているのだろう。
この映画において、人間ドラマは本筋ではないが、求められた役割を見事に果たしている。観客は敷島の境遇に同情し、希望であった典子を奪われたときには共にゴジラへの怒りに震える。

このベタではあるが丁寧な心情描写により、主人公・敷島らのゴジラに対する恐怖が観客にとって他人事ではなくなる。ゴジラは私たちにとって、地震や噴火のように当たり前に襲ってきて全てを奪っていく、身近な脅威だ。
ギャレゴジやシンゴジが徹底してゴジラを遠い存在として描くことで「絶対に人の力では敵わない」ということを強調したのに対して、-1.0は「誰もが身に覚えのある最大の恐怖」を描いている。

終戦後の焼け野原に、敷島は家を建て、典子は復興した銀座で働く。初登場のシーンではボロ着を着ていたのに、これが浴衣、着物、そして洋風な銀行員の制服と、だんだん豊かになっていく様子がみられる。食べるものも同様だ。終戦直後はほんの少しの米が貴重だったのに、みんなで鍋を囲めるようになり、荒屋に提灯をかけた大衆居酒屋まで出てくる。民衆の逞しさが涙ぐましい。
そうやって一つ一つ丁寧に積み上げられたものが、ゴジラの一撃で一気に破壊される。銀座での熱線放射のシーンは、明らかに広島の原爆の再来として描かれている。

ここでハッとする。
ギャレゴジはゴジラを自然の調和をもたらす存在として描き、続編のシリーズでは「偽りの神」キングギドラから人類を守る英雄としてのゴジラさえみられた。

虚淵玄の原案によるアニメシリーズのゴジラも、ゴジラを「稲妻や嵐と同じ天災の一つ」として描き、倒すのではなく共存の道を探すべきと結んだ。

しかし、-0.1は徹底的にゴジラを「憎み、倒すべき敵」として描いている。
前述の通りゴジラは水爆実験の弊害として生み出されたモンスターだ。
それゆえに、ギャレゴジはゴジラを人間の武器で倒すことを是としなかった。
シンゴジのヤシオリ作戦と-1.0のワダツミ作戦は、日本の非軍事的な技術力の結集により、自然の力を借りてゴジラを制すという点で共通している。これは1954年の初代ゴジラにおけるオキシジェンデストロイヤーへのリスペクトも含まれていると思う。
ただ、ワダツミ作戦において人類はゴジラの撃破に成功する。
その後、細胞が自己再生を始めるような描写はあるものの、頭が吹き飛んで自壊したシーンは一旦のところ、真っ正面からゴジラの死を描いていると捉えて異論はないだろう。

あのシーンから感じとったメッセージは「ゴジラは地震や噴火とは違う。ましてや、調和をもたらす神などではない」というものだ。

ギャレゴジのゴジラが、人類が核という禁忌の領域に手を出したことで目覚めた怒れる神だとしたら、-0.1のゴジラは核爆弾そのものだ。だからでこそ、完全に撃破して海に沈めなければならない。しかし、処理は容易くなく、負の遺恨は海中に取り残される。

-0.1の主人公は、ギャレゴジの人間たちと違ってゴジラが海に帰るのを、津波の潮が引いていくのを見るように見守るわけにはいかない。「二度とこんな悲劇が地上に起こらないように」「子供たちの世代を守るために」、「人類が生み出した」ゴジラという悲劇の象徴に打ち勝たなければ家には帰れなかったのだ。

無事帰還し、典子との奇跡の再会を果たす主人公。ところで典子の生存については少々ご都合主義が過ぎる気もするが、生きているに越したことはない。この映画の娯楽映画としての態度の表明にも思えるシーンである。典子は敷島に「あなたの戦争は終わりましたか?」と尋ね、敷島は泣き崩れる。
自分のせいで部下を全員失った整備士を、唯一自分を殺すための仕掛けをしてくれる相手として頼った経緯などを踏まえると、目頭が熱くなる。

それと同時に、何となく、あのゴジラは大戸島で整備兵たちを殺戮した後、ビキニ環礁で生物としては死亡していたのではないか、ということを思った。意識を持って人々を襲っていたのは大戸島にいた頃だけで、水爆実験の被害を受けた後は、生き物としては死んでいて、原子炉と化した体に無理矢理動かされる亡霊のような存在だったのではないか、と。
主人公は心残りであった特攻を平和的な形で達成し、帰還した。ゴジラは主人公の手により一度死に、再生する。彼らの戦争は終わった。主人公は自分の悔恨と同じ、戦争の悲しき副産物であるゴジラの息の根を、優しく止めてやったのかもしれない。

いずれにせよ、反核を軸としたゴジラ-1.0の物語は、ゴジラの破壊による調和を是としない。そこで起きる犠牲に目を瞑らない。この一人一人が一日でも長く生き延びよう、そのためにお互い助け合おうとする意志が眩しく、その前に立ちはだかるゴジラが憎く、恐ろしい。これがゴジラ-1.0のゴジラが放つ恐怖の正体ではないかと推察した。

ところで、ゴジラを神格化する傾向にあったギャレゴジでは、渡辺謙の演じる芹沢博士がゴジラの神秘性を語るときに恍惚とした様子に一種の狂気を感じる。猿の惑星シリーズの中に、核兵器を神と崇める宗教が出てきたような……。もちろん、だからギャレゴジは核に心酔した映画だ、と宣うつもりはない。むしろ核の持つ圧倒的なパワーの誘惑というところまで含めて、核の恐ろしさとして描いているのだろう。この辺りは核保有国ならではの描写なのかもしれない。

図らずも日米のゴジラ描写を比較する形になったのでついでに触れておくと、後半の海上戦は「バトルシップ」の錨ドラフトを思い出さずにいられなかった。小僧の号令で漁船が集まって協力してくれるところ何かは完全に戦艦アリゾナのノリだと思う(監督が参考にしたかはさておき)。
日本のゴジラはこうでハリウッドのゴジラはこうで、どちらが本物で……なんて煙くさい話はしたくない。相互に刺激し合って理想のゴジラ像を探る映画制作を、今後も期待したいところだ。

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