第二夜【鬼の子】scene7

★☆☆☆☆☆☆

 昨夜は寝付けなかった。喉は潰れていて水を飲む時でさえ痛むし、背中一面に張り付いた痣が寝返りするたび激痛を伴った。石原に殴られ続けた時の方が、まだ怪我の具合はマシだった。
 ナノマシン。ソラが絞り出したあの言葉を、彼女は否定しなかった。それにパイロットって? 遮光性カーテンの隙間から淡く青い光が漏れ出す頃、ソラは充電器の上に乗ったスマホを取ってメールを開いた。検索欄に『御門司郎』と打ち込むと、七件がヒットする。
 全て未開封だ。
 一番上のものに人差し指を触れさせようとして、ソラはスマホを裏返しにする。その後すぐにまた裏返し、メールのアプリを終了し、サファリを開く。
 『犬養毅 没年』と検索欄に打ち込む。五・一五事件。1932年没。
 社会の選択科目は世界史をとったソラは、ホコリを被っていた近代日本史の記憶を引っ張り出した。
 時計を見ると、偶然にも五時十五分だった。もう夜には帰れない。
 早めに学校に行こうと思った。わざと回り道をして街を歩くのも良い。この時間なら、商店街の朝市にまだ間に合う。そこで出来立ての野菜コロッケを買い食いでもしよう。
 支度していると、湯気の立つマグカップを両手で持った祖母が、寝巻き姿で開いているドアをノックした。置き手紙をして出ようと思っていたが、そうか、祖母はこの時間帯にはもう起きているんだった。
「あら、早起きねえ」
 マグカップからミントティーの香りが漂ってくる。
「なんか、早く起きちゃって」
「もうちょっと寝たらいいじゃない、若いんだから」
 ソラはズボンにベルトを通していると、祖母はマグカップを勉強机の上に置いて、ソラにそっと寄った。「まあ」そう言って祖母の焦したチーズのような肌が、ソラの首筋に沿って触れる。
「これ、どうしたの。ひっかかれたような痕。それと火傷も」
 今でも、火継の掌が首筋に食い込む感触が残っている。ソラは傷に手を当てて、鑑識眼を働かせる祖母から少し離れる。
「ちょっと、喧嘩したんだ」
 そんな言葉で片付けていいのか。だけど他に、祖母にどう説明しろっていうんだ。ソラは葛藤を気取られないように、屈託なく笑った。
「詩星【しほ】に怒られるわ」
「母さんには言わないでよ」
 ソラは軽く言って、少し笑った。それとなく襟を立てて、カバンを持つ。良い流れだと思った。このまま大事にならなければ良い。
「そういえばね。わたし、茶道始めたのよ」
 部屋を出ようとした時、祖母が言った。
 祖母が趣味を明かすのは十四歳の時引っ越して来てから、初めてだった。どうりで近頃、お茶が美味しいわけだ。
 とくに理由を聞かないでいると、祖母はそわそわしながら言った。
「あなたのお友達。一度だけ連れてきたことがあるでしょ。あの、なんでしたっけ」
「木下?」
「外人さんのようだったから、多分違うわ。もっと背の高くて、きれいなスキンヘッドをされていたじゃない」
 ソラは内心ギョッとした。それは今学校を騒がせている不良少女の父親であり、不老不死でありながらすでに故人となった男のことだ。
「あの人にまた、会いたいわねえ」
 祖母は照れ臭そうに言った。
 ソラは胸がぎゅっとなるこの気持ちを、名状することのないまま家を出た。


 陸上部の友達によると、朝五時から校門は空いているらしい。今は六時半。始業まであと一時間半もある。実際に校門は開いていて、朝練の声が遠くから響いてくる。
 うっすらと霧が立つ校庭を抜けて、部室棟に足を向ける。生徒会の予算審議用の、活動報告書をまとめなければならない。修学旅行に期末テストと、学校は間違いなく時期をつめすぎている。
 天体観測部の部室、六号室の前まで行くと、扉に取り付けられた縦長なガラスに、内側から目張りがされていることに気付く。一昨日はこんなものはなかった。
 ゆっくりとドアを開けると、何かが鉄にぶつかる音が聞こえた。
 目が会ったのは警戒した表情を浮かべる木下だった。来訪者がソラだとわかると、その警戒は瞬時に解かれ、睡眠を欲する細長い目へと変化する。
「なんだ、ソラか」
 そう言って、床に敷かれたタオルケットの上で体を起こす。枕がわりにされていたリュックのそばには電池式のランタンと、ウノのカードが散らかっている。
 木下の他には一年の若崎と井出、そして渡辺がいた。若崎は机の上に横たわっており、井出は椅子を三つ繋げて眠っていた。唯一渡辺だけが、ソファにごろんと横になって贅沢ないびきをかいている。
「なんだ、じゃないだろ。なにやってるんだい」
「見ての通り、学校に泊まってみた」
 ため息をついて、ソラは頭を抱えた。これがバレたら、部室を失いかねない。
「もうこれっきりにしてくれよ」
 ソラが言うと、だんだんと目覚めてきた木下は、こりゃすまねえ、と言って調子良く笑った。
「大丈夫だったの? 色々と」
「案外なんとかなったな。次はお前も誘うよ」
「人の話聞いてた?」
 すると木下はもっさりした髪をかき上げて、しばらく考えた後、
「そういえばお前のクラスの、あの赤髪の女を見たぞ」
 と言って、再びタオルケットに寝そべろうとした。
 眠りに戻ろうとする木下を引き留め、ソラがどういうこと、と訊く。
「だからあの転校生が、いたんだって。四時ぐらいかな。西校舎に、ションベンに行ったとき」
「どこにいたって?」
「宿直室。あそこで寝てた」
 木下は電源が切れたみたいに喋らなくなって、代わりに肉付きの良い胸がゆっくりと上下に動き始める。
 床無火継が宿直室に泊まっているとしたら、彼女は本当に縁【よすが】がないのかもしれない。自分の影を自分で打ち消してしまうほどの浮遊感の中で、彼女は昨夜どんな夢を見たのだろう。

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