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シュガー・タイム

作 人間六度(2017年ごろ)
絵 あじたま

 
 
 バレンタインが誰にとっても甘い思い出であるとは限らないが、少なくとも社会はそうあるべきだと言わんばかりの態度を常々取る。これは誰の言葉だったか忘れてしまったが、過去というものは否応なしに美化され、甘く味付けされてしまうものである。
 もっともこの歳になると、自分自身がチョコレートを貰えるか否かという問題よりも、娘が作っているあれが一体誰の手に渡るのか、ということの方が重大性を帯びてくる。だが僕は聞けない。彼女に、その手製のお菓子を一体どうする気なのか、どこのどいつに渡す気なのか、この世の誰がそれを受け取る権利を有しているというのか。などと尋ねてはならないのだ。
「ジェーン、それ、どうするんだ?」
「パパには関係ないでしょ。ママから貰ってよ。私は作らないわ」
 やはり尋ねるべきではなかった。
 しかし僕の、語り聞かせるにはいまいち盛り上がりに欠ける人生の中でも、伝えておきたい経験が一つある。これは、国際養子縁組を通して知り合い、娘となったのがアメリカ人であったからであるというわけではない。娘の目の色がどんなであっても、僕はいつかこのことを話したはずだ。
「ジェーン、君に言いたいことがある。今、学校に好きな人がいるのなら、」
「え、いないわよ」
 僕はそれ以上何も言えなくなってしまったが、そんな父親の、歴(れっき)として落胆した顔が横目に入ったのか、僕に幾分かのチャンスを与えるように、「じゃあこれを溶かす間、聞いていてあげるわ」と言った。腰に手を当てて、滑らかになったチョコレートのついたへらで、宙をかき回しながら。
「そうか。それじゃあママが帰ってくるまで、ママに内緒で話をしよう」
 僕の提案を、娘はやや呆れ気味に受け入れた。もうおかしな話はしないで欲しいという視線で釘を打つ反面、僅かばかりの期待もあるのか、体をそわそわさせている。
 予告するほどの尺でもないが、言うなれば、いや、むしろ文字通りなのか、これは終わらない青春の日の話。甘く味付けされた、しかし僕が捨てることを決意した、終わらない幸福のお話。
 そしてその意味を知る物語だ。
 
 
 日本無農薬労働者協会の調べによると、我が国の一人あたりのチョコレートの年間消費量は2・2キロで、世界では17位だそうだ。これに対して、生産量は年間25万トンで、世界第6位につけている。ちなみに、考えてみれば当たり前のことだが、どっちも1位はアメリカだ。しかし食文化の違いも考えに入れるとすると、絶対量を比べることより、作った量と使った量の比率に目を向けることの方が重要だ。つまりこの統計から伺える新事実は、輸出入と国外消費の量を差し引いても、日本人は、チョコレートを、作った割に食べていないということではなかろうか。
 確かに、バレンタインデー以外はチョコレートなど食べないという人間も、ざらにいる。
 というか、バレンタインデーにすらチョコレートを食べられないという人間もまた、ざらにいる。
 そして学校には、その日が訪れることに、幾分かの恐怖と幾分かの期待の双方を抱く者と、全く何の感情も持たぬかそうであると自分に言い聞かせることに長けた者、という二種が存在した。そして古川悟(さとる)はこの分類に準えれば、後者に当てはまる人間だった。
 少なくとも彼は、自分ではそう思っていた。2月14日に何が起ころうと、自分には特に関係ないことだとそう思えば、カレンダーをめくるごとに増える焦りもなく、靴を履き替えるあの湿った場所で、あるいは夕方の教室の自分の机の前で、思い悩むこともないだろう。そう割り切っていた。
 そしてそのやり方はある程度実を結んでいた。彼は無為な期待をして空虚な明るさを振りまくより、もっと自分に正直に生きているのだと思い込むことに、ほぼ成功していたと言っていい。
 ところが、その考えに大きな打撃を与える事件が発生する。
 そして彼の最終的な選択いかんでは、もしかしたら、彼ともう一人を除くその他の人類は、今日も1997年の2月14日を繰り返し続けていたかもしれないのだ。
 
 
 2月14日が訪れてしまったと分かると、男子生徒たちは概ね先ほどの二種の異なる人種へと分化し、それぞれ異なるパターンに基づいて行動を開始する。「それ」を見つけるまで、日が変わるまで気を揉むか、「それ」のことなど考えずぐっすりと眠れるか、という全く異次元の時間を過ごすのだ。
 古川は後者の生き方を選択し、授業終了の鐘(チャイム)が鳴るのと同時に何不自由なく席を立つと、何不自由なく廊下に出て、何不自由なく靴を履き替えるためにあの湿ったロッカーの連なる、埃っぽい場所へと向かった。
 その時、一つの視線が彼の背中に刺さっていることに、彼は全く気付こうとしなかった。だがこの時点では、その反応は、視線の主にとっても本意であったと言える。問題はその後だ。 
 古川悟は、余計なことを考えず、昨日と同じ心持ちで、スニーカーのおさまったロッカーを開く。
 すると、なんだろう、中に何かが入っている。
「なんだよ。いたずらかな。嫌な奴もいるんだなあ」
 と思ったが、それは大いなる間違えであった。
 小綺麗な包みとピンクのリボンが中に見えた。そこに悪意の気配は感じられなかった。そしてそのことを自覚するのと同時に、古川少年は、だんだんと、一体自分に何が起こったかを把握していく。その心の振れ幅といったら、重病の告知と比して差し支えない衝撃だ。
 古川悟は、この時、最も幸運な人間となった。そして次に、包み紙の背に書かれている送り主の名前を知った時、
「新房すずな・・・」
 おなじくして、最もややこしい運命の軸足にもなってしまった。
 
 
 古川悟が新房鈴菜(しんぼうすずな)と出会ったのは、彼が高校二年の時の夏休みだった。つまり学期が始まって半年と待たずして訪れたどっちつかずの時期に、すずなは、何を考えたのか、中学から続けてきたという水泳をきっぱりやめて、吹奏楽部に編入してきた。その名声を上級生にも轟かせるほど恐ろしくよくできた女子で、なおかつ、真を真と言い虚を虚という性格であったため、古川の周りの人間は皆彼女を敬遠したが、逆にそのことが二人の距離を縮める役にたったのかもしれない。だが、そうは言っても、昨今は友達の一人が古川とすずなの関係を妙に気にしていたが、まさにその友達は去年のクリスマスの日を、古川とともにスーパーファミコンを5時間くらいぶっ通してやって夜を明かした生き証人なので、古川の魂の潔白は、そして性の清純は、彼がて保証していると言ってもいい。
 その危険物とさえ言える小包を鞄の中に厳重に仕舞い込むと、古川は友達との約束を放棄して、さっさと帰宅してしまおうとしたが、家ではどこか落ち着かないと思い、やはり音楽室などに早めに行ってこっそり開けるべきだと今度は階段を登るのだが、4階に達した時点でフルートの重奏が鼓膜を叩いたため、これは無理だなと引き返した。そして彼はあえて教室に向かうことにした。
 友達は校門で待たせているのだ。自分の席に戻ってしまえば、誰からも詮索される心配はない。この時間はまだ人が居るだろう。だが逆に、そういう干渉してこない他人がいてこそ、冷静になれるものだ、という絶大な自信を持って教室のドアを開けた古川は、愕然とする。
 新房鈴菜が、そこに居るではないか。悟の机の前に立ち、少なくともドアが開いた時にはすでに、こちらを向いていた。しかもその表情は、驚くどころか、身構えていたような、古川がここへ戻ってくることが分かっていたかのような、そんな顔なのである。
 出会わぬために誰かが仕組んだ運命の中で、出会うためにまた別の誰かが策を講じたかのようだった。
 廊下よりも暖かく比重の重たい空気の圧力と、沈みかけた太陽の放つどよめきに絡めとられ、古川は退くことを許されない。
 気持ちの整理もつかぬまま、彼は、その流転の中心へと転がり落ちた。
「あの、これはつまり、すずな、君は、その僕のことを、」
 自分が年上であるという真実と、彼女が美しいという事実が、奇妙に混ざり合って、アルコールの入ったお菓子を食べたように、気分を酩酊させた。現実的な疑問こそが彼の思考の唯一の逃げ道だった。
「というか、どうして、ここに?」
「来ると思ったんです。私にはわかっていました」
 この時、彼女はひどく運命的なことを言った、かのように思えたが、後から聞くと、これは、あなたの思考を読みました、という本当にそのままの意味だったらしい。なんてやつだ。
「あ、そうだチョコ。チョコレートありがとう! まさかこんな僕が貰えるとは思っていなかったから」
「スイートポテトですよ。中身は。見てないのに、見たみたいに言わないでくださいよ」
 なんてやつだ。
「いや、普通はチョコレートだと思うだろ。僕が悪いみたいに言うなよ、勘違いさせる君が悪い」
「そんな言いがかりです! 私はただ、先輩が、甘いものは嫌いだから、」
「なんで僕が甘いものが苦手ってことを知っているんだ?」
 いくら自分には関係ないと割り切っていたとはいえ、そんな、バレンタインで不利になるようなことを、あえて女性に伝えた記憶などはない。ずっと昔、同性の友達の家で何気なく話題にしたくらいである。
 それを彼女が知っているということが意味するところを、古川悟は、段階的に理解する。そういえば、そもそもなぜ友人の一人が、突如として古川と新房の関係を疑うようになったのか。
 そのキッカケをもたらしたのが、古川でないとすれば・・・。
 すずなはそれ以上何も言わない。無言ほど効率的に相手に発言を強いる手段はない。賢いすずなは、それを分かってやっている。そんな顔だ。あれは分かっている。古川を困らせていると知った上で、やっている。
 高揚した心が、加熱された思いが、古川の中でその容姿をぐにゃりと変えた。
 時間が溶けるようだった。その感覚を今でも覚えている。
 そしてこの時は、ほんとうに時間は溶けていた。
「僕も君のことが好きだったんだ。付き合ってくれよ。すずな」
 そしてそのことにまだ気づかない幸福な彼女の、ドーナツのような笑顔だけが宙に浮く。
 古川悟は、自分が正しいことをしたのだとばかり思っていた。すずなのことが好きだったのだと、心中で何度もうなずいた。
 シュガー・タイムが始まった。
 
 
 チョコレートの授受はなかったが、ほぼそれと同等の甘くて想いの詰まった物質を介した、感情の疎通は行われた。二人は、この世の誰にも邪魔されない二人だけの時間を手に入れたのだ。
 特別な二人として歩いた、最初の帰り道。この時はまだ手を繋ぐことすらせず、その距離感も、恋人を初めて間もないということがすれ違う人らに知れるくらいの、とても半端なものだった。
「でも、なんでスイートポテト? 確かにおしゃれでいいと思うけど」
 まだコンビニエンスストアに、ロールケーキやモンブランなどが陳列されていなかった時代だ。とは言え、昨年は皆が気が狂ったように食べたティラミスなどよりは、地に足のついた選択と思える。
 その反応を見て、すずなは面を膨らせて熱くなる・・・ということはなく、どちらかと言えば冷ややかに寂しさを隠すように言った。
「先輩、覚えてないんですね。私がチェロにした理由」
「えっと、確か僕が、勧めたんだよね。なんでだっけ。ああ、水泳部だったから肺活量が、」
 肺活量が人よりもあると鼻を高くするその態度がしゃくに触ったため、その鼻をへし折ろうと、管楽器には肺活量は関係ない、とか、問題なのはむしろ限られた空気量をどうコントロールするかだ、などと御託(ごたく)並べたはいいが、私は水泳部なのでコントロールの方がむしろ。という一言で論破された覚えがある。
 そのあとはどうしたんだっけ。それがどう今に繋がった?
「でも結局弦楽器を初めてよかったって思えるんです、今は」
 理由がどうあれ、彼女が良かったというのなら、良かったのだろう。古川はその程度に考えた。
 そして心地よいと思った。このなんとも言えぬ淡い距離感が。なんとも言えぬ甘い時間が。
 それから二人は公園の周りを少し歩いて、陽が傾くのを待った。
 思慮深い二人は相手に迷惑をかけまいと、必死に沈黙を埋めあって、そしてロロンという喫茶店の前で別れた。彼女の去りゆく背中を目の当たりにした時、粗熱が取れた思考の中には、やがて強烈な満足感と達成感が洪水のように溢れ出す。この世の全てを知ったような気で家へと帰り、食卓の場で家族が話題に触れないように平静を演じ、自室のベッドに倒れこんだ。その時何を考えていたかだって? 言うまでもない。言うまでもないだろう。
 そしてもう一度太陽が昇ったならば、古川少年は、昨日とは違う人生を歩むこととなる。今日ばかりはかしこぶって新聞を読み、達観したふうに襟をととえる必要はない。だが格好はつけるさ。
 学校へ行くのが楽しいだろう。教室へ入ることが楽しくて仕方がないだろう。そうであるはずだ。
 だが不思議なことに、学校へ向かう間に乗り継ぐ二本の都営バスの中で、バレンタインという言葉を六度は耳にした。バス停から学校まで続く、裸の街路樹が立ち並ぶ道では、まだバレンタインのポスターが貼りっぱなしだ。そして校門を超えてから、またも三度その言葉を聞いた。
 それは昨日終わったことではないか。昨日、清算されたはずの想いではないか。
「おい悟! なに突っ立ってるんだ。そんなに見つめても入っていないものは入っていないんだぞ」
 違和感を感じ、ロッカーの前で硬直していた古川の背中をどついて、田崎が割り込むように古川のロッカーを開けた。
 そこには、昨日見たものと全く同じ外見の包みが入っている。
「え?」
「え、じゃねえよ。なんだよこれ。なんで入っているんだ。何故! チョコレートが!」
 それはまさに古川自身の疑問の代弁でもある。何故また、新房鈴菜から、チョコレートが、いや、中身はスイートポテトなのか。とにかく、二度も全く同じ包装のものが、何故入っている?
 田崎は何故、昨日と全く同じ寝癖をしている。何故昨日と同じ、柄の靴下を履いている。
「今日は15日だよな?」
「何言ってんだよ。バカヤロー。この裏切り者。14だよバカヤロー」
 終わらない青春の日々、シュガー・タイム、前哨戦一巡目。
 よく晴れた朝のことである。
 
 
 当時はケータイ・デンワというものがちょうど出回り始めた頃であったので、学生たちはまだ、そんな便利で、そして実は恐ろしい道具がこの世に存在することを知らない。知っていたとしても、それがこれからどれほど世界を変えてしまうか予測はできなかっただろう。
 そして今でこそ人類は、レコードラックいっぱいの音楽と何年ぶんものカレンダーをポケットに入れて持ち歩くようになったが、当時は日付の確認などは、その朝すべきことであって、しかし古川はそのもっとも確実な確認手段である新聞を読まずに家を出てしまった。時期を逃すと、もはや人に聞くか、自分でカレンダーを見て計算するか、そのどちららかだ。それでも信頼が持てなければ、最後に頼る当ては、公共の放送くらいになる。
 朝礼前は常にラジオがつけっぱなしになっている教務室前へ走ると「おはようパーソナリティ」で道上鋭一が、今朝貰ったチョコの数が庭に植えてある木の数より多い云々、という話をしている。教務部の日めくりカレンダーは2月14日が顔を出したまま。焦りが息を早くさせる。先生に尋ねた。今日は何日かと。すると、その教師はたまたま若い女性だったため、チョコレートはないわよ。などと実にくだらない配慮が悟の胸に突き刺さる。
「なんで!」
 悟が教務室を出たその瞬間に、同じくらいに切迫した形相で部屋に入ろうとする者と激突した。
 やはりこの時、新房すずなも全く同じことを考えていたらしい。
 日付を確認するためにまず向かうべき場所。そして思考が同調する原因はただ一つ。彼女もまた同じ状況にあるということだ。
 二人は互いに置かれた状況を説明し合うよりも先に、世界が明日を迎えなくなってしまった、ということなのだと、ざっくりと理解した。
 
 
 それでも夢を見ているのではないか。しかも二人が同時に全く同じ夢の中に入り込んでいるのでなかろうか。そのような苦しい解釈すら、その日の晩には死に絶えた。
 古川はその日、すずなと奇妙な一日を共に過ごしてから、家に帰って居間にあるオニキスフレームの置き時計の前に椅子を起き、そこで、夕食のスープの残りを温めて飲みながら静かに待った。
 そして11時34分に、時計は止まった。
 ということに気づいたのは、実際に11時34分が訪れたよりも、後だった。
 今、目の前にある時計が、11時34分で止まっているのを見ているので、いつから時計が止まったのか、それは明らかなのだが、それならば時計の電池が切れただけだとまず思う。
 しかし時計を見ていたはずの自分が何故34分の時点で時計の異変に気付けなかったのか、という疑問が浮かぶと、そもそも時計は最初から止まっていたということに気付く。
 この時計は、最初から11時34分のまま動いていない。動いていたのは、秒針だけだった。
「おい、そんなバカな。今何時だよ!」
 恐ろしくなってテレビをつけた。深夜の料理番組で、ブラウニーのレシピをおさらいしていた。幅の広い女の司会者が、誰に渡せばいいのかこれを、と毒づいていた。鍋の中で板チョコとミルクが混ざり合っていく。そして次の瞬間には「こちらが冷やしたものですね」と、銀のバッドの中で冷却されて、型抜きされたチョコレートの姿が映る。
 熱せられ、溶けた時間は液体となって動くが、冷えれば固まり、そして固まったらもう動かない。
 それから何度も太陽が昇っては沈んだけれど、一度として、日付が変わることはなかった。
「もう悪い冗談はやめてくれよ」
 まずは家族にそう訴え、次に友達たちにも吐露したが、古川と新房以外の全ての人間が示し合わせて二人を陥れているというのなら、それも十分に異常なことであるが、彼らが接する彼ら以外の誰一人として、本当に2月14日以降の時間の経過を態度に表す者はいなかった。
 試しに日付が変わるまで友達の家に居座ったことがある。日付が変わった時点で、そのことを相手に伝えても、相手はおかしな目でこちらを見るだけなのだ。今日の日付を確認し、目の前でカレンダーをめくって見せても、何をバカな、みたいな顔をして、日付が変わらないことに何ら疑問を抱かない。
 しかしあれから数えて、およそ六十回の日の出を見た。もし正しく時計が進んでいたとしたら、そろそろ新学期を迎える頃だ。つまり、もう春なのだ。だがあの冷え切った2月中旬の晴れ空は、未だにずっとそのままだ。だからここ二ヶ月もの間、一滴の雨も降ってはいない。
 
 
 古川は、すずなと話をした。何度も何度も繰り返し。次の会話は、比較的初期の会話である。
「私たち二人だけなんてはずないわ。どこかに同じことを考えている人が居るはずよ」
 それが見つからぬまま一週間が過ぎ、
「僕らが何か悪い夢を見ているのかも。二人ともが同時に悪夢の中に迷い込んでいるとか」
 しかし夢であるならば覚める方法がわからない今ほど恐ろしい状況はないと気づき、
「でも大丈夫だ、だって僕ら死んだわけじゃない。ただ明日が来ないだけだ」
 と言ってから一ヶ月が過ぎた。
 その頃には二人はもう、明日は来ないかもしれないと思い始めていた。そして、それを言葉に出すと、途端に繰り返す日々が当たり前に思えてきて、そのせいか、あるいはそのお陰か、このままではまずいという危機感を再び覚えるまで、一年ぐらいの時間が過ぎた。
 日付が変わらないだけで、歳月を経ないというだけで、二人の世界はそれなりに充足していたように思える。だって、毎朝食事の代金を受け取り、学校に行けばいつも同じような授業が繰り返され、たくさんある食堂のメニューの中から好きなものを一つ選び、午後の授業は眠くなり、そして陽が落ちる頃には屋上からフルートがなるのを聞く。
 今の時期は、衝突しがちだった上級生も受験シーズンということでほとんど学校に居ない。そして陽が落ちるまで、時にはもっと深い夜まで、二人は一緒に居ることができる。
 それは、カレンダーの上ではごく最近なのだが、二人にとってはすでに遠い過去である年末や一月に、今までの二人がやっていたことと大差はなかった。いや、それどころか体は社会と繋がっているのに、心は二人きりの時間を生きているのだ。これほどまでに完璧な日常が、他にあるのだろうか。
 恋という行為から、制限時間が消滅したのだ。これが幸福だと言わずして何なのか。ただ一つの危惧は、相手に対する想いが枯れ果ててしまうことであったかもしれない。しかし幸いなことに、そんな心配ができるほど二人は大人でなかった。
 その日・・・と言っても、その日もあいも変わらない2月14日であるが、何度目かと言われると、だいたい三百回目くらいだ。すずなと悟は、はじめて一緒に眠らない夜を過ごした。
 
 
 すると翌日は、普通に、眠かった。
 なんて正直な体の反応なのだろう。何という幸福な気だるさであることか。そして同じくして思うことは、今日もまた、懲りずに霜が降りる窓、同じ回数だけ鳴く黒鶫(クロツグミ)。温度計もきっかりと六度。平均とかではなく、毎日必ずこの数値だ。これは、どうなんだろう、言うなればアメリカの山岳地方並みの平均気温なのか。
「どうしたの。そんな難しい顔して。今日がバレンタインだからってね、あんた気を張りすぎていると、貰えるものも貰えなくなるわよ」
 母親は昨日悟が家に帰っていないことを知らない。そして知っていたとしても、その記憶を今日に持ち越しはしない。母親の、今日という日に対する忠告は、これで五十回は聞いたことになるが、それを聞くたびにすずなと親密になっていく悟にとって、母親の言葉はどんどんリアリティを欠いていき、もはや遠回しなジヨークにしか聞こえなくなっていた。
「そんな悩まなくても、誰にだっていつか春は来るわよ。あんたのお父さんだって私という春が来たのだから」
 息子として男として、とても答えにくいことだが、しかしこれだけは言える。春はもう来ない。
 母親はすると、ある意味でかなり核心的なことを言った。今思えば、その問いが、どれほど的を射ていたことか。まったく、いつの時代も、母親の持つ触覚には超然的な力がある。
「あんた。誰か学校に、好きな子が居る?」
「いないよ」
 だが、なにを聞かれても、男子高校生とは皆こう答える生物であるはずだ。意外だったのは、母は、そうね、本当にいないみたいね。と頷いて、どこか納得したように家を出る悟に向けて手を振ったことである。
 
 
 このまま一生を過ごしてしまえばいいと一瞬でもそう考えた古川悟を愚かだと、誰が言えようか。しかし新房すずなは、彼よりも先に、身体のいっぱいに感じる理不尽なまでの幸福に対して、多かれ少なかれ疑問を感じたのだろう。
 その日すずなは、やはり明日を迎える方法を探すべきだと言う考えを述べた。日が落ちるまで誰もいない教室で心を通わせることより、しばらくはそちらの方を優先すべきだと。
「でもどうすればいい」
 これが問題だ。悟は知恵を絞ろうとしたが、日々に対する満足感がその妨げになっていることに、だんだんと気づいていく。
 そのような日々の最中に不可思議なことが起こった。とは言っても、世界から時間が消滅することに比べたら実に瑣末なことだ。
 二人はその日、久しく音楽室を訪れた。春季コンクールのために、今日も課題曲のコーラルブルーを練習する仲間たちを横切って、隣接する待機室へと向かう。ちなみにこの頃になると二人は、この曲に関してのみ言えば、プロ同然の演奏ができるようになっていたため、もはや練習に参加する気には到底なれなかった。
 すずなはドアを閉めると、待機室には静寂が訪れた。ガラス窓の向こうで必死になって弦をひく者の真剣そうな顔が、二人には笑いとそして焦りの象徴のようであった。
「先輩、最近はへんなアレンジを加えすぎですよ。でも毎日調弦しなくていいのは、面倒がなくていいですね」
 すずなの声は少し疲れていたので、彼女を励まそうと、花束を送ることのような能動的でドラマチックな提案を、悟は模索した。そんな時である。
 それ単体で考えたならば、十分に奇跡的で、そしてその奇跡をもたらした者にとっても、おそらくはできうる限りの奇跡を演出したつもり、なのであろうことが、起こった。
「ピー。ピーピー・・・」
 アラームが鳴っている音、ではない。アラームが鳴っている、ように聞こえる音を、誰かが口から出しているのだ。しかしどこからその声が聞こえて来るのか最初は察知できなかった。
「ピー! おい、ピーピー! どうなってる? 僕はなにをしたらいい」
 しかしその後も、幾度もピーピーと繰り返すものだから、二人は容易にその声の出所を特定することができた。しかしそれは、確かに音が出る場所であるが、今音が出るという道理がない。
「え! もう繋がってるの!?」
 音の発生源は、壁に立てかけられたケースの中に納まったすずなのチェロだった。f字のヒゲを生やしたヒョウタンみたいな顔面から、ひとりでに音を放っている。
 しばらくして、くぐもった声は霞を払ったようにシャープになり、そして、彼の、名前を呼んだ。
「おい、古川悟。そこに居るんだろ。自分で自分の名前を呼ぶのは気持ちが悪いから、少年、と呼ぶことにする。おい、少年」
 自分の声というものは、録音して聞くと他人の声のように聞こえるものだ。しかし他人には案外聞き分けがつくのである。
「俺が誰だかわかるな」
 そんな低くておっさん臭い声に聞き覚えはなかった。
 だがすずなは直感したものがあるようで、悟とチェロを見比べて、一旦は眉をひそめるが、次にくすりと笑った。悟にしてみれば、その文脈から、そうであると察する他なかったが、だが、これが奇跡的なことであるならば、そうであると信じるならば、自分が自分に語りかけているのだと理解するまでそう距離はない。
 そしてもっと言うなら、未来の自分が過去の自分にヒントを与えようとしている。そんな成り行きが思い浮かぶ。その予想は正しかったようだ。また、古川が何か問うよりも先に、「言っておくが、ヘルムホルツ共振器が一つしかないから、一方的に喋るしかない」と、重ねるようにしてチェロが喋ったため、やりとりの早い段階で、これが『会話ではない』ということがわかった。
「今、お前は『砂糖時計』の中にいる」
 のだと思う。と未来の僕と思しき人物は付け加える。この、自らの発言に百パーセントの自信を持てないところなどは、自分像として非常にリアリティがある。
 すずなも、あなたそっくりよ、と言いたげにわざとらしく何度も頷いてみせた。
「その閉ざされた日から抜け出す方法は一つしかない。ホットスポットを見つけるんだ」
 曰く、鍋の中にあるチョコレートのように、時間とは、熱を帯びているうちは流動的であるが、冷めると固まってしまう。その冷めて固まった状態が今なのだと言う。そして固まった時間を再び液状に戻すには膨大な熱量が必要で、それが蓄えられた場所が必ずどこかにあると言うのだ。
「それは宇宙のどこかにある、としか言えない。そうなんだよなピーピー。おい、これ、助言として機能するのか・・・」
 男の背後から聞こえる、この誰も音頭をとれないざわついた様子から察するに、どうやら代表する彼以外にもあと3人ほどそこに居るようであった。小さすぎて判然としないが、残りは女性と、小さな女の子、そして、あとの一人はマスクでもしているのか、性別も謎でやけにくぐもった声だ。
 やっと全体の意思決定を済ませたのか、それとも彼自身の中で何か踏ん切りがついたのか、未来の自分は次にこう言った。
「しかしどこかにあるんだ。もし地上になければ船を作るしかない。もし地球になければロケットを作るしかない。でも、そこに行けば、必ず見つかるってことだ。いいか、これはお前に起こった唯一のことだ。お前に何かが起こるのは、これが最初で最後だ。他は一切関係ない。だから乗り越えろ。ただの一度、乗り越えてみせろ」
 それは、絶対に越えられない高さの跳び箱に、何度でも挑戦できると言っているようなものだ。
 けれどすずなが無意識的に悟の袖口を握りしめる。その感触が悟の弱音に抗議する。
 そして未来の悟は、「繰り返す時間なんて、この世にはない」と言った。こればかりは、確固たる自信を持って。
「『パラグラッセ』が起これば、話したこと自体がなくなってしまうそうだ。だからこれ以上のことは言えない。でも、このメッセージは届くと信じている。繋がっていると、僕は信じている」
 そしてチェロがまた、昨日までのチェロに戻った。
 これが終わらない青春の日々の、終わりから数えて三日前の出来事だ。
 
 
 ホットスポットが何かの例えであると思った二人は、非常に現実的な解釈として、炎や溶岩を思い浮かべた。だからまず富士山へ向かおうと言った時のすずなの顔は、割と真剣なものだったが、チケットを手配する間に悟はホットスポットの場所を突き止めてしまった。
 今日もロッカーの中に入っているチョコレートと、今日もそのことを、誰かが殺されたみたいに大げさに騒ぎ立てる友達がそこに居る。
「え、じゃねえよ。なんだよこれ。なんで入っているんだ。何故! チョコレートが!」
「そうだ。なんでだ?」
 その日。その疑問に到達するまで、実に何百日、何万時間を要したことだろうか。
 だってそうだ。2月14日、古川悟が受け取ったのは、スイートポテトだ。そしてそのスイートポテトと言われた代物は、結局まだ家の冷蔵庫の中に、自分で買ってきたものと偽って、仕舞ってあるではないか。ずっとずっと、食べることができないまま、仕舞ってあるではないか。
「そうか、そういうことか」
 未来の自分が伝えたかったことが分かった時、その時こそが本質的に、シュガー・タイムが終わりを告げた瞬間だったのかもしれない。
 だが、この繰り返しの日々を、いや、本当は繰り返していない日々をまた明日へ進めると分かった時、それは大きな痛みを伴う瞬間でもあった。
 
 
 明日を迎えるために古川悟が最後にしたことは、何万回と見た夕日に別れを告げるためにしたことは、彼女をその夕日がよくよく見える教室へ、始まりの場所へと呼び出すことだった。2年という歳月を共にした、かけがえのない人間を。
 ただし今日、赤い太陽は分厚い雲の帽子をかぶって審判員のように二人をみる。
「チケットとれたのかしら。私、八王子で寄りたいところがあるのよ」
 三ヶ月ほど前に、沖縄に行ったことを思い出した。こんなところまで行けるんだなと笑いあったことを思い出した。もう暖かい気候の国にでも亡命しようかと話をした。しかし日付変更を超えたことがないので何が起こるか未知数だと、そんなふうに脅かし合った。
 もうこんなことは、終わらせなくてはならない。
 誰かが決着をつけなければならない。 
 ありえないくらい愛されたのだ。奇跡みたいな時間を貰った。だから乗り越えるため犠牲はせめて自分が払う。
 悟はわめきだしそうな心の首根を締め上げて、次のように述べる。
「君が好きではなかった」
 かもしれない、と付け加えそうになった。ここだけはダメだと、弱い自分を言い聞かせた。今踏みとどまらなくては何も変えられないのだとこわばる全身に鞭を打った。
「だから君も嘘はやめよう。君も本当は僕のことを、そんなに好きじゃなかったんだろう」
「何を言っているの」
 本当に何を言っているのだろうか。自分でも何を言っているのか。わからないよ。
「君のバレンタインの贈り物。ごめん、まだ開けてないんだ。その理由に気づいた」
 仕組みがどうということではないのだ。気づくことができたのは、その虚構のありかだ。その座標だ。そしてそれがシュガー・タイムの出口。
「僕は君から好かれることがプレッシャーだったんだ。君から愛されることが、本当は恐ろしかった。そして君も、」
 自分の心を2年も費やした人間からの、裏切りにしか思えない発言に、すずなは顔を引きつらせた。これほどまでにはっきりと人が絶望するところを悟は見たことがない。
 しかしそれと同じか、それ以上の苦痛が伴っていたとしても、あらゆる方法でそれらを屈服させ、悟は言葉を紡ぐ他なかった。
 この一度だけでいい。兵士のようになってみせろ。自分という容器をくり抜き、不動の表情をつくってみせろ。
 戦うんだ。
「私は先輩のことが好き! あなたが好きよ。あなただってそうでしょ。楽しかったじゃない。そうじゃなきゃ、二年なんて時間一緒にいられなかったわ。そうでしょう!」
「だからだめなんだよ」
 すずなの本音がどうであるか、ということはここでは問題ではなかった。それはとても自分勝手な理屈ではあるけれど、相手本位であることよりも間違いなくこの世のことわりに近い。
「何度でも、やり直しがきくと甘えていた。世界の甘さに甘えていた。でも繰り返す日々なんて一日もなかった。だってそうだろう。僕らはあの日から、2年を一緒に過ごした。そうさ、過ごしてしまったんだ!」
 世界は繰り返せど、日々はやり直せど、それは逆に言えば、二人の時間が着実に過ぎて行ったということでもある。
 ホットスポットは、古川悟そのものだ。少なくともこの宇宙でただ一人、彼は自分の中で、時間が経過していることを自覚していたのだから。
 そうであればこそ、日々は繰り返さない。見ている人間が、感じている人間が居る限り、時計が壊れてとまることがあっても、似たような光景が目にとまることがあっても、時間というやつが「とまる」ことはありえない。
 やり直しは決してできない。
「最初の気持ちに嘘をついた。君から好かれるよう自分ではない何かを目指した。君の想いを受け止めようとするあまり自分を騙した。それが砂糖時計を詰まらせた。時間を止めてしまったんだ」
 悟がそう言い切ったことにより、そしてすずなが反論の余地を見失ったことにより、おそらくその時、再び時間は動き出したのだ。
 二年ぶりに雨が降った。
 ホットスポットから漏れ出した熱量が、宇宙全体へと広がるためには、さほど時間を要さなかった。ほとんどが元どおりになる。だが他方では、この甘すぎる時間を過ごした二人には、あまりに分かりやすい形の制裁が下された、と言えるのかもしれない。指数関数的に広がる熱波は、時間的なずれを引き起こした。これは、古川悟に対して、ではなく、古川悟が、と言う方が適切である。
 
 
 2月15日が訪れた。
 古川悟は、二年間行方不明ということになっていた。
 その二年の空白を埋めるかのように、新房すずなは、彼の一年上の上級生になっていた。その時差だけでも頭が混乱して狂いそうになる悟に追い打ちをかけたのは、他人を見るようなすずなの目だった。だがその結末は、ある意味悟の本意でもあったはずだ。なぜなら、新房すずなは、あの甘すぎる二年間を思い出に残すことなく、普通に成長して、今や成績も優秀、文武両道の素晴らしい女性になった。
 新房すずなは看護師を目指すらしい。今日という日、バレンタインのことなど意にも介さず、大学の前期試験へと挑むのだそうだ。
 
 
 彼女にとって、というか古川悟以外の全ての人にとって、古川悟とは、バレンタインの日に失踪した頭のおかしな人でしかない。そしてその日から年齢的なずれを隠すために極力社会との接触を断つ努力をした結果、悟はほぼ完全にすずなの記憶から消え去ることができたと信じていた。
 しかしもうすでに君は知っているだろうが、ジェーン。
 僕はこののち、ママと運命的な再会を果たす。運命は常に僕らの肩を持つらしい・・・また君は信じないという顔をするが、僕が言いたいのはここだ。
 青春は終わる。二年もの間高校二年生をやり続けた僕が言うのだから、間違いない。
 ジェーンも、だから今日という日を大切にしないとな。
 そういえば、今思い出した。ママがなぜチョコレートの代わりに、スイートポテトを持ってきたのかを。
 管楽器を始めようとした彼女に弦楽器を押し付ける過程で、二つに共通した音響の仕組みを持つあるとても身近な楽器を演奏して、説得材料にしたのだ。
 僕はオカリナを得意げに吹いたのだった。
 オカリナの別名がスイートポテトというのは、実は最近調べて知ったことだ。

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