第二夜【鬼の子】scene6

★★★☆☆☆

 野ざらしの廊下を移動して西校舎の門を潜ると、ひんやりした静けさが二人を包んだ。吹き抜けになっている一階をしばらく進んで、階段を登る。一階の作業場は、学校行事や部活動が自由に使うことができたが、今はその時期ではない。二階にはコンピューター室があって、明かりが見えた。さらに階段を登っていくと、旧家庭科室、旧美術室という半ば物置のような教室があって、静寂は増していく。
「ここならニンゲンの反応もほとんどねえし、一人死んでもそう騒がれねえなあ」
 西校舎は食堂からも教室からも歩くと結構遠いので、昼休み中はガラ空きになった。火継の勘に狂いはなかった。
「アンタを探し出すのにどれほど苦労したことか」
 歩きながら、火継は吐き捨てるように言った。
 四階まで行くと、日当たりの悪い廊下が見えた。深緑色に光るエグジットマークが色彩を放っている。薄暗くて洞窟のような廊下で、足音がわずかに反響する。
 どういう摂理だろうか、火継の周りだけがぼんやりと明るい。彼女のなだらかな輪郭が、蛍光塗料によって縁取られているみたいだ。
「君のその体は」
「光エネルギーが漏れ出してんだ」
 火継は忌々しげに言った。
「アンタ、アタシに影がないことに気付いてたな」
 ソラは無言で頷いて、足を進めた。
 通路の一番奥まで行くと短い階段の上にガラス張りの非常口の扉と、赤いランプを力なく灯す壁から突き出た消火栓の赤い箱が見えた。消火栓という文字の火の字から点が欠落し、消人栓になっている。
 ソラは階段の二段目に腰を下ろし、火継は消人栓にもたれかかった。
「月面資金はどこだ」
 火継が言った。
 ソラはキョトンとして押し黙った。
「アタシは待つのが嫌いなんだ。さっさと言え〈月面資金〉はどこにある」
 げつめんしきん? と間抜けにも、火継の言葉を復唱することしかできない。
「そうさ。クソ親父が隠した大金のありかだよ」
 火継は、ソラの顔面を抉るように見下ろした。
「君のお父さんっていうのは、一体」
「しらばっくれるなよ」
 火継の赫灼とした眼光が、力を増していく。
「コネクター三号は、漁師の床無のことは知ってるはずだ」
 待って、とソラは反射的に声を上げた。
 床無という言葉には馴染みはなかったが、そこではない、漁師という部分。
 三竹ヶ原の地下シェルター、〈ビックボックス〉で出会った、一切の体毛を持たない大男――。忘れかけていた姿が、脳内に思い起こされる。
 奈良時代末期、駿河国に墜落した最初のゲストが残した不死の薬【ナノマシン】を舐め、以後一三〇〇年に渡って生き続けた化け物。
 漁師のヨツギ。
 不死者のヨツギ。
 あの日、戦場になったあの丘で、人類最後の希望だった。誇り高く戦い、虫けらのように殺された男の最後の表情を、ソラは確かに知っている。
 ソラは目をまぶたからはみ出すほど見開いて、その、燃えたぎるような赤い髪をした女の子の顔を見上げた。
 驚愕が口をついて出た。
 似ている。顔つきもそうだが、何より目元が。純日本人的な形態美を濃縮していったような、切れ長の一重。上下どちらものまぶたも強引に押しのける眼力。
「君は、あのヨツギの」
 娘。
 子孫。
 だったらその力は? ナノマシンが遺伝するとでも言うのか? いや、今一番考えなやいけないことは――。
「でも、なんでここが」
 そう言った時にはすでに、ソラは気付いていた。
「C33のファイルを読んだよ。あいにく、実名は削除されていたが」
 ソラは驚きと恐怖を火継に悟られないように、俯いてただ頭だけをわずかに上下に揺すった。タワーの襲撃者はこの少女だった。つまりこの少女はたった一人で、浅間機関の分散型指令本部に押し入るだけの力を持っている――。
 二人になるべきではなかった、と悟った。それは遅すぎる気付きだった。
「半年前だった。この街では有名だよ、空が赤くなった日。君のお父さんは……」
 力任せだったさっきまでの様子と代わって、火継は餌を待つ子犬のような目でソラを見た。そこで言葉に詰まった。火継は肉親を失ったんだぞ?
 どうして平気で話せると思っていた。こんな寂しい女の子を、さらに孤独のどん底へ突き落とすようなことがなぜできる。
 口の中がネバついてきて、呼吸が重くなった。閉塞感が肺を押しつぶしていて、肩で無理やり息を吸った。
 火継が一旦背中を消人栓から離して、軸足を変えた。
「ヨツギさんは死んだ」
 ソラは額に鉛をつけたように、顔を上げずに答えた。
「僕はその場にいた。見ていたんだ。人智の及ばないような敵が現れて、それで、彼は戦った。本当に勇敢だったよ。でもわずかな力の差で敗れて」
 ソラは自分の熱弁に違和感を感じて、頭を上げた。
 そこには年相応に悲しむ女の子の姿があった。ソラたちより二個か、三個したの年齢。まだ悲しみとどう向き合えばいいかを知らない少女の表情。
 しかしすぐに、怒りにコーティングされる。火継の目はサメのようになって、かつてない迫力でソラを睨んだ。
「嘘をつくな」
 その表情は、怒りと悲しみを行き来していた。揺れ動いていた。
「本当なんだ」
「嘘を、つくな」
 火継はゆっくりと歩き、そうっとソラの頭に手を伸ばした。小さく暖かい掌が、ソラの頬に優しく触れる。
「月面資金も、僕は知らない。ヨツギさんとそんな話をしたこともないんだ。仲が良かったとは……とても言えない」
 御門司郎ならば何か知っているかもしれない、と言いかけた口を閉じたソラ。彼は今や浅間の人間でさえない。巻き込むのも筋が違う。
 火継の表情はついに固まったままで、ソラの前に蹲った。後光が消え、彼女の周囲を漂っているほの温かさも消えていた。それどころか肌寒くなっていた。
 非常口の窓が曇っている。何かと思って触れても、こちら側はただのツルツルしたガラスだ。霜が張っているのは、外側だった。
 錯覚ではない。室内の温度が下がっている。ソラは慌てて火継に視線を戻した。
 瞬間、目を見開いた火継の腕が槍のように伸び、ソラの首を掴んでそのまま引きずり上げた。階段の角に削られた背中が、次は非常口の扉に叩きつけられる。飛び散った破片が体の前方へと飛んでいく。ガラスを突き抜けた体は、非常階段のくすんだ鉄の手すりにぶつかって動きを停止させる。
 首が焼けるように熱い。マグマを目の前にしているように、全身が溶けだしそうだ。火継を包む輪郭は、さっきよりずっと光量を増している。
「アタシはねえ」
 火継の爪が首の側面に食い込む。
「犬養毅が死んだ日に生まれたそうさ。取り上げた直後に母は死んだ。その時でさえ親父は戦争へ。アタシは半世紀以上、たったひとつの夢を頼りに生きてきた。親父を殺すことさ。私の血液一滴に至るまで全部、そのために存在してるんだ」
「どうして……」
「雪山に置き去りにされた。忘れもしねえ一九五〇年の冬。やっと戦争が終わって、アタシも新しい時代に連れて行ってもらえると信じてた。でも戦争ジャンキーのアイツはアタシを捨てて朝鮮に行った。 アタシが金閣寺を燃やしたことがそんなに嫌だったか? アイツは何も言わなかった。昔は手を繋いでくれたんだ。だが二度と戻らなかった」
 咳が出る感覚があったが、咳がでない。喉にそんな隙間がなかった。
「化け物の腐った子種で、アタシをこんな体にしておいて!」
 ソラは火継の細い腕を掴む。焼けた鉄を触れるように熱い。渾身の力で喉から引き離そうとするが、動かない。万力で固定されているように微動だにしない。
「ナノ、マ、シン」
 火継が空いている方の腕で手すりを掴むと金属は次第に赤らみ、内側から漏れ出す光を帯び始める。腕を引き抜くと手すりは抉れ、彼女の手にはどろどろになって赤く光る巨大なグミのような溶鉱が握られる。
「アタシには時間がねえ。アサマのパイロットたちが追ってくる。いいか、これで最後だ。月面資金はどこにある」
 溶鉱が錆を飛ばしながら、灰色に固まっていく様を間近で見た。
 熱は空間を超えて肌を焦がす。
 精製したての鉄塊が、ソラの左目の寸前で止まる。
「どこだッ!」
 火継の声が、取り返しのつかないほど青空に轟いた。
 トラックか何かが走り去っていく音がずっと後方で聞こえる。
「僕は知らない」
 捻り出した声が、わずかに広がった気道を駆け上る。
「おーい、どうした!」
 下方から声が聞こえた。見ると、音楽教員の男が、巨大な名前のわからない管楽器を抱えながら、野ざらしの廊下に立って心配そうにこちらを見上げている。
「えっと、ごほ、問題ありません」
 そこで満足に声が出ることに気付いた。火継はおらず、足元には冷えて固まった歪な鉄の塊が転がっていて、手すりは不整合に結合している。
 ソラは非常用階段で一階まで降りた。しばらく咳は止まらなかった。

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