Eyes wide shut
オリンピックが近づいてきた。集まらず、声援を送らず、と制限されると、始まってもいないのに遠い日の花火のようになってしまう。歓声は高周波だ。高い、明るい、寄せては返す人の喜びが吸音されて、遠雷のような批判の声だけが低周波で響いてくる。重い振動で皮膚から潤いを吸い取られて干からびてしまいそうだ。
オリンピックに限らずどんな情報でも、情報には出し手と受け手がある。無いのは真実だ。出し手は、いつ、誰に出すか考える。受け手はその情報を受け取るかどうか選択し、評価する。良い空気感を出したい。それが真実である必要はない。安心安全を頒布したいと、細い高い声が流れてくると、私たちは、安全安心なのかも、と考える。そんな筈はない、と考える。どちらも、情報の受け手の評価結果だ。医療におけるインフォームドコンセントにも、何人かは情報を受けたくないひとがいる。自分の中の理由のない希望を、客観的意見で打ち消されたくないから、情報の入力に目を瞑る。安心したまえ、情報に客観はない。真実もない。
「猫がいます」という情報がながれてきても、見えない暗室の中のシュレディンガーの猫か、隣り合った椅子で香箱を作っている猫か、わからない。情報の受け手には、うたた寝から目覚めて猫がいなくなっていても、柔らかい猫の記憶が隣に漂っているかもしれない。猫は、見えない暗室で香箱を作っているのかもしれない。そもそも猫は実在したのかしら? 緩く漂う猫の気配に曖昧な幸福感を感じることも、情報の受け手による解釈の一種だ。どんなにデータを詳細にしていっても、猫、の解釈と判断は、受け手に一任される。
それでも、得られるだけの情報を受け取らねばならない。情報の受け手にとって、情報が不足することは、感覚の麻痺・鈍磨、足が痺れた時のような不安感と不満を引き起こすから。オリンピックは成功したという情報が流れるだろう。受け手には、曖昧な高揚感や、喪失感や、人によっては強い異物感が残るだろう。それでも情報を獲得し続ける必要がある。答えはない。真実もない。でも「猫がいる」と聞いてしまった以上、猫を探し続ける。
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