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ポッケ育成シナリオ感想、映画との違い 「助けないこと」と「自立」について

同じひとつの音楽作品は、違った形で演奏されうるし、それゆえ演奏にかかる時間も同一ではない。 時間はこの場合ある与えられた秩序のなかで展開される原因と結果の条件にすぎないことになる。 つまり、音楽の時間は抽象的で哲学的な性格を帯びている。 映画は、時間を、外的な、感覚的に捉えられる姿で記録するのに成功している。 だから、映画においても時間はもっとも基本的な要素になっているのだ。 音楽において、その要素は響きであり、絵画では色彩、ドラマだと性格(キャラクター)だと私は思っている。

『映像のポエジア』P198

ドラマの登場人物は、性格が少し異なるだけで、作品の物語そのものや抱えていたテーマが大きく変わってしまうくらい重要なものだ。
そう思ってしまうくらい、映画とアプリでポッケやその周辺人物の性格が大きく異なる。 それによって物語がどう変わったのか、個人的に考えを整理するためにもまとめたい。

⚠️映画『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』、 アプリ『ウマ娘 プリティーダービー』ジャングルポケット育成シナリオの完全ネタバレを含みます。 未視聴、未プレイの方はご注意ください。


※この記事は自身の「映画よりもアプリのストーリーの方が好きだ」という発言の理由を伝えるために書き出したものです。
話の構成上、途中で映画の内容の批判点について書きます。苦手な方はご注意ください。


ポッケの育成シナリオ、まず、『何もかも映画と違いすぎる』と思った。
それは前述の通り、主にキャラクターのことだ。

映画からウマ娘に入って日が浅い方もいるかもしれないので一応説明すると、アプリやアニメ等、媒体によって登場人物の設定や性格が微妙に異なるのは珍しいことではない。ゴルシちゃんなんかはかなり違いがある。

ジャンポケは、そのゴルシちゃんと同じくらい、アプリとアニメでキャラクターが大きく異なっていると思った。

キャラクターが変わるということは、話が変わるということだ。

何を考え、何を大切にして、何をどう決めるのか、キャラクターは作者や脚本家の手を離れて、有機的に話が進んでいく。

フレーレース集団『L/Roars(ロアーズ)』の総長、ジャングルポケット

まずアプリと映画のポッケの違いについて言及する時、避けて通れない要素として、フリーレース集団『L/Roars(ロアーズ)』の存在がある。

映画ではこの『L/Roars』の設定、おそらく完全にオミットされている。


何故そんなことでポッケの性格が大きく変わるのかというと、このL/Roarsの存在が、ポッケの人格や、価値観を形成する、大きな要素だからだ。

北海道から上京したポッケは、この『L/Roars』のリーダーをレースで打ち負かし、新たな「ヘッド」として君臨した。そして数年後には、東京制覇にまで導いた。

この『L/Roars』の中では強さがものをいう、実力が足りないものは容赦なく切り捨てていく、そんなドライな組織だ。

かねてからの友人であり、宿敵でもある「ツヅキレイニング」が、不慮の怪我で引退した後、心が揺れるポッケ

ポッケはそんな環境にずっと身を置いていたからか、誰かを失うことに慣れている、他人に深入りしない、アプリでは終始割とドライなキャラクターとして描かれている。

(とは言え、上記の画像の通り、トゥインクルシリーズで心が通じていた仲間が消えていったことで、傷つき、悲しみ、次第に以前よりもドライになりきれない部分も出てくる。)

打倒アグネスタキオンを共に誓った同郷の友人「ツヅキレイニング」が怪我で引退した後も、タキオンやカフェがトゥインクルシリーズを無期限休止した後も、悲しみはするが、引きずりはしない、自分が動揺したり、悲しんでいる姿をそもそも他人に見せたくない、そんなさっぱりした性格だ。

皐月賞の後、無期限休止を発表したタキオンを問い詰めるポッケ

一方、映画のポッケはタキオンがトゥインクルシリーズの無期限休止を発表した後、かなり取り乱している。 彼女の事情も弁えないで自分の要望を言う、パーソナルスペースが狭い、全体的に無遠慮なキャラクターとして描かれている。

監督山本健氏のインタビューによると、

ジャングルポケットはゲームとしゃべり方を変えています。江戸弁を意識しています。劇場版で表現したいジャングルポケットは荒削りで、その荒々しさを口調から突き詰める必要があるように感じていました。そこで、音響監督の鶴岡さんと相談したところ「劇場版ではゲームのしゃべり方よりも下町で親しまれた、無遠慮さを残した江戸弁が合う可能性がある」と。
結果、その方向性になって、あえて舌っ足らずな言い回しをしてもらったりもしています。タキオンは上品な表現を目指し、対比としてポッケはヤンキーの下町の無遠慮さに向かう。

『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』パンフレット スタッフインタビューより抜粋

と話していることからも、「荒々しさ」や、「無遠慮さ」は、映画版のポッケの明確な特徴だと思う。


このシーン、かなり都会っ子じゃない?

個人的な考察だが、アプリのポッケは人とべたべたしたり、誰かと親密な関係になるのが苦手な、典型的な都会っ子として描かれているように感じた。
『L/Roars』の活動時に東京全域を制覇していて、「東京では絶対に迷わない」と言っていることからも、かなり東京に馴染んでいることが分かる。

同じ東京育ちでも、一般的に義理人情に厚いとされる下町と、それ以外の地域で、もしかしたら正反対と言っていいくらい、人間性が変わってくるのかもしれない。


『生存競争』だと、自分がレースから消えることを既に受け入れているタキオン


話を戻して、皐月賞のあと、無期限休止を発表したタキオンを問い詰めるシーン。アプリではどうかと言うと、上記の画像の通り、そこまで取り乱していない。
それは前述の通り、「L/Roars」の活動で、誰かを失うことに慣れているから、これよりも前に、レースを通して唯一気持ちの通じる友人だったツヅキを失ってしまって、寂しさに慣れてしまったのもあるかもしれない。タキオンも言うように、レースは『生存競争』だと、ポッケも最初から理解している。


それと、アグネスタキオンの性格も、今までとかなり変わっている。

一切、ふざけない。

普段の道化を演じているような側面は鳴りをひそめ、終始落ち着いた、シリアスなキャラクターとして描かれている。

……あと、みなさん気付いただろうか、タキオン、ポッケに『自分の脚』のことについて、話している。

それがどうしたと思う人もいるかもしれないが、これ、タキオンの育成シナリオで、プランAが安定した後にトレーナーに話した以外では、実は初めてじゃないだろうか?

タキオン、何故か自分の脚のことについて誰にも話さない。自尊心からか、同情を誘いたくないからか、(映画ではみんなを焚き付けるためなのか、) とにかく、トレーナーにすら話さず、一人問題を抱えて、一人で解決しようとしている。

そう、アプリでは、タキオンとポッケの間で、コミュニケーションが成立している。
(映画でもちゃんと話してあげれば、あんなにポッケを追い詰めずに済んだろうに。)


映画のタキオンとポッケ

私も『RTTT』でシナリオのお話をいただいて、もちろん作品自体は知っていて曲も耳にしていたんですが、そこで初めてTVアニメシリーズを見てボロ泣きしたんです。元々俗に言うクソデカ感情(=重い愛の総称)がめちゃくちゃ好きで、それで構成されている作品が自分で書いていてもしっくりくるんです。
〜中略〜
『ウマ娘』って自己実現の話で、ジュブナイルもの(=少年少女の成長と冒険の物語)だと思うんです。

『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』パンフレット 脚本家吉村清子氏のインタビューより抜粋


ポッケ、タキオン、カフェ、ダンツ、4人のレースに対する目的、モチベーションは、みんなバラバラだ。

ポッケは『最強になる』

タキオンは『自分の運命を変える(プランA)』、もしくは『一瞬でも残光を残す(プランB)』

カフェは『お友だちに追いつく』

ダンツは『みんな程の大きな目的も、華もないけれど、それでも、私だって、勝ちたい』。(こんなところだろうか)


詳しくは後述するが、アプリ版でのポッケの育成シナリオは、4人のそれぞれのモチベーション、ポッケの『最強になりたい』という目的をフィーチャーしていて、それを叶えてあげるお話だった。

一方、映画版はポッケのそのモチベーションよりも、上記の脚本家の方のインタビューの通り、同期4人の関係性、所謂『クソデカ感情』をフィーチャーしているお話だったように思う。

アプリ版が叙事的なお話だとすると、対して映画版は叙情的と言うか、かなり、パトス優位のお話だった。

初めての敗北、ポッケはタキオンの影を忘れられない


映画でポッケは、タキオンに執着して、彼女に踏み込む。
様々な成長を経て、タキオンにも事情があると知る。

そして、最終的に、彼女の運命を変えて、レースに引き戻す。

これは、『RTTT』でトプロがアヤベさんのことを気にかけて、最終的に救済したことと同じ原理だ。

…問題は、果たしてこの描き方が、今までのタキオンやポッケのキャラクター、その世代に、合っているかどうかだ。

好みでしかない話だが、正直、自分は、この描き方が、あまりハマらなかった。

前述のインタビューの通り、この映画は「ジュブナイルもの」だ。
精神的にも、人間的にも未熟なキャラクターが、自己実現のために冒険に出る話だ。
これ、少し横暴な言い換えかもしれないけれど、要するに、タキオンも、ポッケも、精神的な援助や、支えが必要な人物として、描かれている。

映画序盤〜中盤にかけてはポッケにとってはフジさんと、トレーナーのナベさんや、タキオンが、終盤は、タキオンにとってはポッケが、それぞれ彼女たちの精神的な支えとなっている。

二人とも、自立ができていないのだ。

アプリ版、終始、タキオンの目はあまりポッケを見ていない


ただ、これは自分が、アプリ版のタキオンやカフェのキャラクターにずっと愛着を抱いていたからこその感想であって、映画化にあたって映像的にドラマチックにするための改変でもあると思うし、当然、映画から入った人は映画版の4人の方が愛着が湧くに違いない。
だから、本当に好みの問題でしかない。


上記の画像や、アプリ版での今までの描写を見ると分かるが、タキオンもカフェも、自分の目的が一番重要で、他人にはそこまで興味のないキャラとして描かれていた。

前述の通り、アプリ版のタキオンは自分の抱えた問題についてあれこれ他人に話さない、顔にも出さない、自分だけの力で「プランA」を遂行した。

「プランB」を遂行したカフェの育成シナリオでも、終盤一度は取り乱したが、再び自力で「プランA」を遂行している。

タキオンはある意味、自制心のある、精神的に自立した存在として、今まで描かれてきた。

それは、今回のポッケの育成シナリオでも同様だったし、
ポッケ自身もそうだった。


タキオンを失ったあと、割ときっぱり気持ちを切り替えているポッケ。それでもフジさんと、ツヅキと、タキオンの想いを受け継いだ。

映画版のポッケは荒々しく、あまり落ち着きのないキャラクターだった。

一方、アプリのポッケは、前述の同シナリオ内でのタキオンと同様、
普通に、結構、落ち着いている。

それは、「L/Rores」の総長だったという経歴が大きく関係しているし、自分が苦しんでいる様子をあまり他人に見せたくないという性格も関係しているかもしれない。

そう、アプリのポッケ、本編でも公言されているが、
全体的に、カリスマ性のあるキャラクターとして描かれている。

無闇に慌てないし、悲しんだり苦しむ様子を他人に見せない。他人とべたべたせず、助けはするけど、必要以上のことはしない。ヘッドとして、自分が率先して、統率を取る。そう言うキャラクターだった。

「L/Rores」の存在の有無で、全く、全くと言っていいほどキャラクターが変わってくるということが、分かってくれただろうか…。



閑話① これ、酷くない…?(笑)


(このまま全てのレースについて詳しく書いていたらすごい文章量になるので、少し省略。)

ツヅキも、タキオンも失い、それでも想いを受け継いだ、孤軍奮闘のジャパンCを乗り越えたポッケ。

ジャパンCにて、消えていったみんなの想いを受け継ぎ、オペラオーと対峙するポッケ


あまり話さなかったけれど、確かにずっと一緒にいたカフェまで、凱旋門賞で故障し、無期限休止になってしまった。

凱旋門賞のあと、カフェから休養に入ると連絡を受け、動揺を隠せないポッケ


トレーナーは言う、私たちの世代は、もしかしたら、


『激しすぎるのかも…』

タキオンは、たった4戦、誰よりも速く走り、駆け抜けて、消えた。

カフェは、お友だちに追いつくために、無謀な挑戦をして、散った。

みんな、ひとつ上の世代のオペラオーやトプロのように、いつまでも長く走ろうだなんて、はなから考えていなかった。

みんなその瞬間に誰よりも輝けたなら、それでよかった。あとは、潔く消えるだけだ。

『生存競争』、このシナリオ内でタキオンは何度もそれを口にしていた。

タキオンを助けたいフジさん、しかし彼女は丁重にお断りする

同シナリオ内でのタキオンの描き方で特徴的なのが、
「自分の運命を最初から受け入れている」ように見える。

再三言うが、このシナリオのタキオン、一切ふざけないし、終始落ち着いている。なんと言うか、かなり上品なキャラクターだ。

フジさんは、タキオンの走り方では長く持たないことを見抜いていて、走り方を変えるように説得する。それでもタキオンは「これが自分だ」と丁重に断る。

途中で取り乱していたカフェのシナリオや、今までの、少し決断の揺れていたような描き方と違って、自分の決断に、揺るぎのない強い意志を持っている。
それで自分が消えたとしても、しっかりと責任を取ろうとしている。

それが、『生存競争』だから、自分の決めたことで、自分が消えるなら、それは仕方のないことだ。

…なんと言うか、かなり、人格が完成されたキャラクターになっている。

それはカフェもそうだ。

カフェは、お友だちに追いつくためなら、それ以外はどうでもいいとすら言っている。

ダンツは、ポッケと一緒に、ライバルとして走っていきたかったけれど、途中から長距離では絶対に勝てないと確信して、マイル中距離路線に転身して、ポッケと袂を分かっている。

ポッケも、タキオンも、カフェも、ダンツも、
みんな、それぞれの決断に、揺るぎのない意志を持っていて、目的も全て異なり、その点では決して相容れない、みんなが、自立したキャラクターとして描かれていた。


自分とは異なる選択をした他人が、それで散ったとしても、それはその人の責任だから、その人に対して必要以上のことはしない。追わない。執着もしない。誰にも自分の道を譲らない。たとえそれで一人になっても、自分の道を突き進むだけ。

『生存競争』、最も生命力のあるのが、ポッケだった。だからひとり生き残った。ただそれだけ。


だけど、それじゃあ『最強』じゃないのだ。


閑話② カフェとポッケの距離感、公式でこんななの笑う



育成シナリオも終盤、ポッケはある問題を抱える。
それは、自分の走る激しさに、体が追いついてこないことだ。

シニア級ジャパンCの前、つま先がボロボロになるポッケ

実馬のジャングルポケットも、シニア級ジャパンCの前に脚部不安を発症し、以降戦績が振るわず、その後の有馬記念で引退してしまった。

ウマ娘世界のポッケも同様に、ジャパンC前に脚部不安を発症、国内にある設備や医療機関ではどうすることもできず、もうこれまでかと思われた。

「人に助けてもらうことを恥ずるな。なぜなら君は兵士が城砦を闘い取るときのように、課せられた仕事を果たす義務があるのだ。もし君が足が不自由であって、胸壁を一人では登ることができず、ほかの人の助けを借りればそれができるとしたらどうするか。」
「君が善意をなし、他人が君のおかげで善い思いをしたときに、なぜ君は馬鹿者どものごとく、そのほかに第三のものを求め、善いことをしたという評判や、その報酬を受けたいなどと考えるのか。」

『自省録』第7巻7章、73章


ん?

ん!!?

ツ…っ! ツヅキ……!!!!!?

(初見時、「研究所」というワードとしゃべり方で、マジでタキオンだと思った。本当に、ごめん)

ポッケはこうして、旧友に助けられた

かつて、共に打倒タキオンを誓った同郷の友、ツヅキは、トゥインクルシリーズの序盤に、不慮の骨折でレースから引退し、その後父親の事業を手伝っていた。

ポッケたちがトゥインクルシリーズを頑張っている間、ツヅキは自分と同じ境遇のウマ娘を助けるために、北海道に最先端の機器を備えたリハビリセンターを作っていたのだ。

最初にポッケの隣から居なくなった友人が、落ちていくはずだったポッケの魂を、掬い上げてくれた。

『ウマ娘』はかつて救うことのできなかった命を、運命を変える話だと言うことを、改めて、再認識した。

意外とひとりが好きなポッケ

ポッケはこれまでも再三書いた通り、「L/Rores」の元総長で、人とべたべたするのが好きじゃない。バレンタインでも、舎弟になりたいという人が来た時も、他人の、自分への一方的な好意を悉く拒否している。

だから、人を助けることはあるけれど、それ以上は何も求めない。
ツヅキや、タキオンが消えた時も、悲しみはするが、引きずらない。踏み込まない。

人情はあるけれど、ずっと、どこかで他人と自分を割り切っているキャラクターだった。

そんなポッケが、「自分の命を繋いでくれた」と言っても過言じゃないほど、他人が、自分のことを助けてくれた。

ポッケはツヅキに言う、『この礼は絶対する』と。

そして、ポッケの目的はそもそも『最強』になることだ。

この『礼をする』『最強になる』という目的を、同時に解決し得る手段が存在する。


そう、それは…..































ツヅキへのクリスマスプレゼント

タキオンとカフェを、治すことだ。

(ちょっと……..すごすぎる決断じゃないか???)

ツヅキに顧客を与える。そして、タキオンとカフェを治し、あわよくば、叶わなかった同世代『最強』決定戦を行う。

ポッケも、タキオンも、カフェも、結局最後までライバルとして相容れなかった。
それは見ているもの、目指すものが違いすぎるからだ。

それでも、ポッケはずっと『最強』になりたかった。

ツヅキも、タキオンも、カフェもいなくなった後に、ひとりで、違う世代と走っている時にいつも抱いていたのは、「気の晴れなさ」だった。

不運や、事故、すれ違い、様々な要因で、この3人が同じ目的に向かって、一緒に同じレースを走ることは、ほとんど無かった。

この、気を晴らすために、ポッケはタキオンと、カフェを助けた。
自分と同じように、同じ方法で、運命を乗り越えて欲しかったからだ。

これ、映画も同じように、ポッケがタキオンのことを助けるわけだけど、映画と何が大きく違うかと言うと、ポッケはタキオン、カフェに対して、特に何もしていない。

適切な治療法を勧めただけで、本人たちに必要以上には踏み込まない。

ツヅキの目的が「自身と同じ境遇のウマ娘を治す」ことなのだから、ポッケたちが各々の決めた道を突き進むのと同じように、タキオンとカフェのことは、ツヅキに任せればいい。

ポッケはポッケで、自分のやるべきことをする。

自己犠牲でも、誰かが何か大変な目に会っているわけでもない、スマートで大人な助け方だ。
(あくまで映画は映画で、映像として映える方法だと思う)

それぞれのお別れの瞬間 (ポッケにしっかり向き合ってくれたのはダンツだけ……)

タキオンも、カフェも、ポッケに対して終始割と無関心と言うか、みんなやっぱり、周りの他人よりも、それぞれ自分の目的を見ている。

ポッケも、二人が自分に対して恩義なんてものを感じて欲しかったわけじゃない。そんなことは最初から望んでいない。

ただ、また二人と走りたかっただけだ。完全なエゴだ。


それでも、あわよくばだった。あともう一度、走れるかどうかも分からない。二人はそんな状況だった。
それでも、二人は、ポッケに応えてくれた。


最後の有馬記念、ドリームマッチ

ずっとポッケに対してどこか無関心で、各々の自分のことばかり考えていたタキオンとカフェが、ようやく、ようやくポッケに振り向いてくれた。

本当の、『最強』を決める機会を、プレゼントしてくれた。


汚れなき咆哮

ポッケは最初から最後までずっと、何かを失ってばかりだった。
誰かの想いを、ずっと背負い続けてきた。
何も気にせず、気持ちよく走ることなんて、長らくなかった。

世代がどうとか、他人の想いも、すべて、何もかも関係ない、自分こそが、一つも文句のない、『最強』だと証明する。そんなレースを、タキオンとカフェはプレゼントしてくれた。

ポッケの、本当の夢は、最後に、叶った。


繋いだ命、「トゥインクルシリーズ」のヘッド、『ジャングルポケット』

ポッケの夢は叶った。

タキオンも、カフェも助かった。

タキオンにとって「プランA」でも「プランB」でもない、交互に交わり、これからも続く、新たな世界線が誕生した。

ポッケは、文句なしのトゥインクルシリーズの「ヘッド」として、新たに君臨した。



気持ちいいほどに、支離滅裂

ポッケも、タキオンも、カフェも、また同じレースで走ることができるようになった。

それでも、3人が見ている景色がバラバラだということは変わらない。

ポッケは再び、『最強』を目指す。
タキオンもまた、『最速』を目指す。
カフェは『最盛』(?)を目指す。

そしてふと、ポッケは自分たちの世代が、一体世間にどう形容されているのか、見ている人からは、何色に見えているのか、気になった。


烈光

ポッケも、タキオンも、カフェも、みんなで同じ景色を見ようだなんてことは、結局最後まで思わない。

それでも、みんな、それぞれの自分の道に懸ける覚悟は、同じくらい強い。
それが叶うなら、明日消えたって、構わないくらい。

たとえそれで生まれる光が一瞬だけだったとしても、長く輝き続けようだなんて、はなから思わない。

烈光。

角度によって、光の色が変わるプリズムのように、ただ、その瞬間にしか出せない色を、これからも放ち続けるだけなのだ。




『ウマ娘 プリティーダービー』(ジャングルポケット編) 完









あとがき


冒頭でも触れた通り、この記事は、元々自身の「映画よりも、アプリのストーリーの方が好きだ」という発言の、理由を伝えるために書き出したものなのだが、
なんか、思ったよりも長くなってしまった。
駄文長文、失礼しました。前のめりな文章になって、読みづらかったり、くどい書き方になってしまった部分、多々あると思います。
….目次も無いし。

まずしっかり言っておきたいこととして、決して映画そのものと、映画から生まれた解釈や創造物を否定するような意思はありません。(そんな権利は馬主でもない、ただの消費者の自分には最初から無い)

映画そのもののクオリティは、日本アニメ史に名前を刻めるくらい、凄まじいものだったんだけど、

それでも、やっぱり個人的に、映画よりも、アプリの育成シナリオを読み終わった時の方が、確かに、満足感があって、それは何故だろうと色々考えていたら、こんなに長くなってしまいました。

アプリはアプリ版、映画は映画版で、きっと制作も、何年も前から別々に準備していたものだと思うし、もしかしたら意識して完全に別の作品に作ろうとしたのかもしれない。

ただ、だからこそ、映画を見た人、映画から入った人に、このポッケの育成シナリオを、絶対にプレイしてほしいと思ったのに、なんで…..なんで……(引換券無効)
(井戸端会議で聞いた話だけど、BDの円盤でポッケの引換券つくんじゃない?と言ってるひとがいて、「それいいね」と思った)

改めて全体を俯瞰して考えると、映画は『映像のドラマチックさ』を、アプリは『文章のドラマチックさ』を追求した作品のような気がして、自分は元々文章の方が感動しやすいたちなのかなあと思った。

これでポッケと、タキオンと、カフェの物語が終わってしまって、しばらくもうメインでの出番はないのかと思うと寂しいねえ。
……いや、ダンツがいる!!!

て言うか、話がブレるから本文で言わなかったけど、ダンツ、終盤ハブられてるね… 同じリハビリセンターいたのに….。(ダンツが長距離走らないと決めたから仕方ないけど)

ダンツが来たら、みんなでダンツをトゥインクルシリーズの主人公にしてあげようね。


おわり。


おまけ

こんなことある?


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