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東條悟という恐怖

 この記事には『仮面ライダー龍騎』のクリティカルなネタバレがあります。未視聴の方は仮面ライダー龍騎を見てください。

 アマゾンプライム会員になったのをきっかけに仮面ライダー平成シリーズを見始めました。W、オーズ、フォーゼ、エグゼイド、そして龍騎を完走、現在放送中のビルドも楽しく見ています。わたしにとり一番鮮烈な印象を残していったのは『仮面ライダー龍騎』でした。
 歳がばれるのですが2002年の『仮面ライダー龍騎』放送当時、無隅は未就学児童、つまり仮面ライダーシリーズの主要ターゲット視聴者の年齢でした。リアタイ時代は見ていなかった番組に、すっかり大きなお友達になった今になってハマるというのは不思議です。
 13人の仮面ライダーが願いを叶えるために最後の1人になるまで殺しあうというストーリーを聞いたときは子供番組らしからぬ血なまぐささに驚いたのですが、いざ見始めると引き込まれました。主人公たちが使っているPC(ぶ厚いディスプレイのMac)や携帯電話(二つ折り)といったガジェットや街の風景、ファッション(主人公の長めの茶髪とか)に自分が見ていた時代の匂いが感じられましたし、鏡面から怪物が現れるという設定も日常と隣合わせの非日常でいい。加えてゼロ年代の正義とは何かを問いかけてくる系コンテンツはめちゃくちゃ好きなのですごく楽しみ、最終回を見終わってから1月くらい別の作品を見る気にもなれずぼんやりしていました。今ではだいぶ虚脱から戻ってきたのですが、登場するライダーのひとり、仮面ライダータイガこと東條悟が頭から離れません。東條悟のことを特別推せると思ってはないのですが、最近は気づくと東條悟のことを考えているので整理も兼ねて東條悟の話をします。放送からおよそ15年が経過し、語り尽くされている内容かもしれませんが知ったことではない。メキシコでは戦わなければ生き残れないのだ。俺は今、まさに今、東條のことを考えている。ネタバレには配慮しない。龍騎を見てからもどってこい。


 東條悟は強烈なキャラクターでした。香川教授と共に仮面ライダーとして戦い英雄になることを望みながら、香川の「英雄は時に大切な人を見捨てる覚悟も必要」という言葉を「大切な人を殺せば英雄になれる」と曲解して、敬愛する香川を殺し、その死体を抱いて「これで英雄に近づける」と笑いながら涙を流す。東條を助け、奇妙な友情を築いた佐野満すら「ごめん、君は大切な人だから」と手にかける。英雄になりたい、みんなに好かれたいと言いながら自分に好意を向けてくれた人を次々と殺していくわけで、完全に目的と手段が逆転している。
東條悟について「サイコパス」と評する人は多いですし、実際見た直後にはわたしもそう思いました。彼は我々とはかけ離れた思考回路を持つ人間で、狂人だから、あのような理解できない恐ろしい行動に出るのだと考えました。しかし完走直後の感情の勢いで関連書籍を購入し(買ってよかった)そこに掲載されていた東條悟を演じた高槻純さんのインタビューを読んで、彼への印象は180度変わりました。
以下に一部を引用します。

悟というのは地方から出てきた純粋な人間で、だからこそ宗教とかそういうものにはまってしまうと、自分がこうと思ったらそれがいちばんで、他の考えを受け付けない。彼は、正しいと思った香川教授の言葉を盲信してしまったんでしょうね。(中略)悟は愛に飢えている人間だとよく言われるんですが、僕は逆に、愛を当たり前のように与えられているから、それこそ愛一杯で育つ子供が持つ無邪気な残酷さをそのまま持っていたんじゃないかな、と考えています。(『ファンタスティックコレクション 仮面ライダー龍騎』朝日ソノラマ、2003年)

 「英雄になれば、みんなが自分を好きになってくれるかも」という動機から、家族に愛されていなかったのか、いじめを受けていたのかと想像していた悲劇的な過去、あるいは生まれついての異常性はそこにはなく、インタビューに冠された題名の通り「無垢」な東條像があり、余計に怖くなりました。
 『龍騎』が放送されていた2002年は、9.11の世界同時多発テロ事件の影が未だ社会に色濃く残っていた時。この社会情勢を受けて「子供たちに正義を教える話を作ってほしい」と東映の偉い人が言い、そして出来たのはそれぞれの願いと信条のため殺しあう戦士たちを描いた『龍騎』というのはファンの間ではあまりに有名ですね。突然家族を喪った人間の悲しみ、誰かにとっての正義の行いによって傷つく人がいること、日常の隣から突然に現れる恐怖、そういったものが『龍騎』では描かれていました。そして、たとい始まりは立派な信念だったとしても、何かを極端に盲信してしまった人間は思いがけぬ凶行に出る、ということが東條を通じて描かれたように思います。
 街を行く親子の姿に香川教授とその家族をダブらせ、彼らが車に轢かれそうになっているのをとっさにかばい身代わりに死ぬという彼の最期は実に皮肉です。しかし東條悟がただ理詰めだけで行動しているサイコパスなら、咄嗟に身を擲つことができたでしょうか。香川教授や佐野を「大切な人だから」と泣きながら手にかけてきた東條が、親子を見殺しにするのではなく助けようとしたのは、彼は本質的には善人である証左ではないか。こうした想像は、彼をサイコパス殺人鬼と断じるよりもっと怖い。自分の家族、友達や隣人が東條悟にならない、あるいはそうでないと言い切れるだろうか? 一歩間違えば自分も東條悟になってしまうのではないだろうか? ある意味では彼は確かに狂人ですが、非常にリアリティを感じさせる狂気だといえます。日曜朝のお茶の間に登場していい男じゃないですね。

 東條は推しではないとか言いつつ(推しは秋山蓮と北岡秀一です)ここまで長々と文章を書いている以上、わたしは東條がめちゃくちゃ好きなんだなあと推敲しながら思いました。どっとはらい。

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