「宗教団体に反対」の論理的説明

このnoteはSNSの固定投稿にするため、以前に呟いた内容を改めてまとめたものです。
過激思想の類で万人受けはしないと思います。私をフォローするか迷っている方などが自己責任で読むことを想定しています。

なお、コメントをいただいても原則、返信はしません。私の考えはここに書いてあるので、考えをお寄せいただいたら「そういう考えもあるんだな」と思って読みますが、とりあえずそれで交換までは成立していると思っております。その考えに対して個々に賛成反対などを述べることはネット上において紛争の火種になりかねないため、一律に控えます。ただ、もし私の考えが大きく変わったときには、このnoteが編集されるか、削除されるかもしれません。そこで判断していただければ幸いです。

そもそも組織がダメだという原理原則の思想

大前提として、私は本来的に「組織(化)」そのものに原理的には反対しています。つまり、宗教団体はもとより、会社もダメだし連合もダメだし組合もダメです。個人的な心情としては、思想を同じくするマイノリティが一時的に集合するようなデモなどは可ですが、それが連続して会を形成したり、メンバーと非メンバーを区別したりするのは不可という考え方です。

あくまでも思想として、原理原則として聞いてほしいのですが、私は人間というのは本来的に、自分で考え、自分で選び、自分で主張できるべきだと考えています。
もちろん、主張や選択にあたって何らかの障害があればその点についてバリアフリー化や支援は必要ですし、私の理想的な状態を実現するには教育制度も抜本的な改革が必要です。
ただ人として生きていく上で、無思考無批判で誰かについて行くこと、あの人の言うことだから正しいと思ってしまうことがいちばんダメだと思っています。
また、個々人が持つ正義を平等に発信し、同じ俎上で議論することができない場面は、すべて淘汰されるべきだと考えています。

私が組織そのものに反対する理由の1つは、組織化を始めた瞬間、構成員の間に上下関係や忖度が現れ、こうした原理原則が崩壊するからです。

組織が何か大きなやらかしをしてスキャンダルになるとき、その背後には何人もの「たぶん何か間違っている気がする」「私はそうしたくないのに」と思っていた人たちがいます。また、何となく違和感を覚えながらも、「会社がそう言うのだから、先輩がOKを出しているのだから」と思考放棄した人はもっとたくさんいます。
だから組織はダメなんです。みんなが思考放棄できない状態にあるべきだし、思考したからには主張できるべきです。「社長、それは違うと思います!」と言えないのが組織(化)のダメさです。

そしてもうひとつのダメさは、メンバーと非メンバーの線引きです。「社長、それは違うと思います!」ともし言ったら解雇されてしまうことです。当人はそれで救われるかもしれませんが、組織の腐敗はそれでは自浄されません。
そもそもで言えば私は、「私たち」と「彼ら」を明確に分割するすべてのものに反対といっても良いと思います。便宜上、一時的に区別することはあったとしても、常に彼らである人や、常に私の側である人が存在するような分類は、あるべきではありません。

だから本来的には、組織そのものを芽から摘むべきです。すべてが個として生き、一時的に連合を形成することがあっても、決してその継続を目指さないように。組織体としての継続を目指せばその瞬間に権力勾配やメンバーの線引きが発生しますから、あくまでも個の集合であり続けなければなりません。家庭ですらそうだと思います。

なぜ宗教団体が特にダメなのか

こうした原理原則を前にすると、宗教団体が特にダメだという理屈はすぐに分かります。
宗教団体の「正しさ」は他人が客観的に測れず、他の「正しさ」をもって論駁することもできないからです。

宗教団体は神や聖典を掲げます。ところがその神や聖典の内容が本当にあったことなのかどうかはさておいて、その解釈は、組織化した途端、組織のトップの一部の人が行うものになります。
その解釈に、本当の論理性も正義感もまったく必要ありません。だって「神がそう言った」「私はこの部分の解釈をこう定める」と言いさえすればいいのですから。

下の者がいくら聞いても、都合が悪ければ「信じなさい、祈りなさい」と言っておけばよいことになります。説明する必要すらありません。それでも自分たちの解釈に反対する者には「信仰心が足りない」などと言えばいいのです。いわば、知りたがる者を罪人にすることで、宗教団体は成立します。

反論するための材料もなく「神がそういった」「あなたの祈りが足りない」などといった反論できない方法で封じられることで、下の者は思考停止になります。何はともあれ言われたとおりにしておけばよく、反対するならば組織から抜けなければならないという状態です。
これでは、組織の正義は歪められたままで、是正の余地がありません。
また、こうした理論に対しては、「非メンバー」である人たちからも、有効な反論が封じられてしまいます。「だって神がそう言ったから」や「この宗教のトップとして私がそう解釈したから」は、ある意味で万能の逃げなのです。

歪んだ正義に対する有効な論駁が不能化される点で、宗教団体は他の組織よりもダメさ加減に磨きがかかっています。「神」や「祈り・信仰」のような論駁できないものを掲げる限り、トップは自分の好きなように教義をいじくれます。カトリックの教義解釈がパパ様の言葉ひとつで左右されるように。
そしてそういった論駁不能性を持つがゆえに、組織内部での自浄作用も働きません。疑問を持つ信者に誰もまじめに取り合わないからです。そうして最も忌むべき思考停止が加速していきます。こうなると、信者はその教義が正しいからそこにいるのではなく、そこに自分がいるからその教義解釈が正しいということになります。あるべき姿とは正反対です。
そして場合によっては、自分がそこにいることの正しさを証明するために、布教活動に励むことすらあります。

結局、それでも疑問を禁じ得ない「知りたがる者」は、組織を離れ「非メンバー」となるか、自ら別派閥を作るかということになります。
非メンバーになれば、たとえ同じ神を信じていたとしても、どこかの正しさが合わないためにその信仰さえも否定されるのでしょうか?必ずしもそうとは言われなくても、感覚としては、教義宗教の団体がそこに存在する以上、「団体がどうあれ私の信仰は彼らと同じだ」と言い切ることができる人は少ないのではないでしょうか。
しかしだからと言って派閥を作ってしまったが最後、その当人が今度は正義を創り出す側になります。みんなが「あなたの考える正しさは何ですか」とやって来ます。しかし、そもそも正義は誰かが作って他人に与えるものではなく、ひとりひとりが自分で考えて持つものです。誰かの考える正義が誰ともぶつからないままで、まるで皆が同じであるかのような顔をしたままで、そう長く正しいまま持続するわけがありません。いつしかその正義は自分に都合の良いものになり、他の宗教団体と同じ轍を踏むでしょう。

ではどうあるべきなのか

現実問題として、すべての組織を解体するのは不可能です。現実の社会状況として、少なくとも「今ここを生き延びていくためには」、組織があるほうが乗り切れる場合もあるとも考えています。決して理想状態ではありませんが、社会の構造が組織を前提としている以上、まったく背を向けて生きるのは現実的ではありません。私自身、いつか解体されるべきだと思いながら組織に属して働いているのです。

また、私は信仰の自由を否定するわけではありません。
個人個人、皆が好きなものを信じれば良いと思います。
そして信じているものの話を自由にして良いと思います。

それが特定のストーリーに沿っている必要はなく、誰かの思想の中でお稲荷さんがキリストを産んだってかまわないし、別の人の信仰では生きている神様がいても構いません。誰かの話を聞いて、自分のストーリーに別のアイテムや解釈が付け加わることもあるかもしれません。
好きなストーリーを信じ、自分が正しいと思う道を選び、その道が誰かとぶつかる中でまた何か考えて、道は交わったり離れたりして、それが人生というものです。

たまたま同じような思考を持つ人がいて、しばらく道を一緒に歩くかもしれません。それが100人くらいになるかもしれません。私はそのことも否定しません。その100人が全員同じ立場で集まって、意見交換し、同じ点だけでなく違う点についても平等に発表し受け入れ合い、その中で気の合う人同士が友人として付き合って行くのであれば、有意義な時間になるでしょう。

ただ、どんなストーリーであれ、どんな思想であれ、その集まった人たちで「組織」を作るのであれば「本当にそれは致し方ないのか」を考えた方が良いと思いますし、とりわけその思想が必ずしも科学的論理的に構築されていないもの──神とか霊とか魂とか、歴史的に存在が確定されていない人物とか──に依拠する部分が少しでもあるのなら、組織化すべきではないと考えます。それはせっかくのその思想の良さを潰す行為だとすら思います。

ですから、すべての組織を解体することは不可能でも、すべての宗教団体を解体すべきとは思っています。
その理由は宗教団体がとりわけ「ダメ」だからでもありますが、宗教団体を解体しても社会生活への影響は限定的だと考えているからでもあります。

たとえば今この世界から「会社」をすべてなくそうとしたら、大混乱が起きるのは予測がつきます。それだけ現代社会は会社という組織に依存して生きていますし、法やルールも会社を前提において作られています。
しかし、法人格の有無にかかわらず、宗教団体が解体されても、それほどまでに大きな混乱が起きようとは考えられません。もちろん深く関わっていた当事者は個人レベルで大変な思いをするでしょうが、会社組織の場合のような世界そのものの転覆のようなことにはならないでしょう。

だから私は、宗教団体に属する個人に対しては、その人なりの正義を持つ個人として尊重もし、個々の思想の内容に対して共感したり反論したりしますが、宗教団体そのものに対しては、そこにある思考停止に対しては、常に冷たい目を向けます。まだやってるんですか?というような気持ちです。
また、宗教団体に所属しているか否かにかかわらず、思考停止に陥っている人に対しても、共感することはできません。その人の個人的事情に同情することはあるかもしれませんが、人としてあるべき状態にないのだから治療すべきだとでもいうような気持ちで眺めるでしょう。

その思考の内容は稚拙でも良いのです。私も決してすべての専門家でもないし、何もかも知り尽くしているわけではありません。間違うことだってあります。ただ自分の思想をきちんと説明できる状態であること、誰かが言ったからではなく自分が考えたものであること、そして他人の考えも聞いて、時には袂を分かち、時には融合し、変化していくことが、人として生きることだと思っています。

まとめ

・人は皆、自分なりの信仰や正しさについての考えを持つべきだ
・お互いの考えを平等に交換したり、ぶつけあったりして、変化したりしなかったりしていくことが人生である
・したがって、人を完全な平等であり得なくする組織そのものが悪である
・特に宗教組織については、論理的な反駁が不可能な方法での教義解釈を産み、祈りや信仰といった数量的に測れないものを基準にして思考停止を誘導し、その結果として正義が歪みやすく自浄作用も働きにくいため最悪である
・現実社会で組織すべての解体が現実的でないことは理解しており、とりあえず宗教組織だけでも解体すべきである
・信仰の自由及び表現の自由は個人の権利として当然認められるべきであり、これはその上での話である

補足:各種の神話や聖書のようなストーリーは物語として共有される範囲で無害と考えています。ただしそのストーリーを信じるかどうかや、どう解釈するかは個人で行われるべきです。

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