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半透明のジェンガを差し込む

ちいさなころの、4、5歳のじぶんは、写真のなかで恥じらいもせず笑っている。人生がもしもジェンガでできているなら、生まれたときから順番に、3つずつ縦横に整列していくじぶんの歴史は、きっとこの写真に映る年齢くらいまでは、なにひとつ欠けることなく積み上げられていた。多くのひとにとっても、どこかの時点までは、じぶんのこころのジェンガは歪みなく増えていったのではないだろうか。

ふつうジェンガは、下の方で隙間ができてしまうと、グラグラしやすい。こころのジェンガもそれは同じで、幼いころの欠落は大きく響く。しかも、こころのジェンガは見えないのでじぶんで気づくまでは、どこから揺れているのかわからないまま、不安定になる。

わたしは、ずっと正体不明のなにかに怯えて焦って不安だった。それなのに「過去なんて知るもんか!」と思って無視しようとしていたから、その原因がわからなかった。「ああ、あそこからだったんだ」と気づけると、楽になった。ぐらつくこころのジェンガの震源地がわかると、そこに半透明のピースをはめたり、支えてあげたりできるからだ。

根本から、どの深さでジェンガを失ったのかを見極めないと、だれかにやさしくしたい願っても、付け焼き刃になってしまうのではないかと、最近思う。

このひとのすこし過剰な丁寧さは、なにに対する恐怖なのだろう。
このひとのあふれて止まらない他者へのみの愛情は、いったい。
このひとの相手の言動を深読みして勝手に遠慮してしまう根本とは。

きっとじぶんの経験と、弱さと、さみしさで、相手のジェンガの揺れに気づく。そして気づくと、それがどの深さで失ったピースによるものなのか、考えてしまう。わたしに教えてくれなくていい、いいので、じぶんのなかで知っていてほしい。せっかく知り合ったひとには、気休めではないしなやかさを手に入れてほしいから。

そもそも、ジェンガが不安定に揺れていることさえ、気づいてないひとだっている。まずは気づいてほしいなあと、お節介なことを思ったり、言ったりする……こともある。悩むところなのだけれど。

完全に欠落もなくこころのジェンガを積み上げ、悩みの一切ない人間はいないだろう。でも、その揺れの大きさは、やっぱりひとによってちがって見える。

このあいだ、すこしじぶんが落ち着いて、成長も感じていて、気づきもいっぱいあって。そんな状態で、あかるい昼下がりのバスに乗って移動していた。ゆっくり揺られて景色を眺めながら、ふと気づく。

「あれ?どうしてわたし、怯えているの?」
「完璧じゃないし、未熟さはいっぱいあるけど、でも成長している。すこしは、満ちた気持ちを味わっても、バチは当たらないんじゃない?」

じぶんと対話した。まだこころのジェンガの喪失を、すべては探り当てられていないのだなあと思いながら。すこしずつ、すこしずつ、じぶんとの対話を繰り返して、空いている部分に、半透明のなにかを足していく。もとの素材とはちがってもいい、ちゃんと「隙間があることを知った」というしるしに、半透明のピースを差し込んでいく。こころのジェンガ全体が、心臓のリズムくらいの、ちょうどいい揺れになることを目指して。

欠落のある揺れているじぶんを知った上で、完璧じゃなくていい、揺れていてもいいんだなあと認められることが、はじまりなのかもしれない。あんがい、風通しもいいかもしれないしね。そして、欠けているから、やさしくなれたり、言葉を慎重に並べられたり、何かを強く求められたりする。そんなこともある。個性とも呼べるのかもしれない。でも、そうじゃない、欠けてることが前提じゃないアプローチもあるよ。

なんか、ぐらぐら揺れの大きいジェンガみたいなnoteになっちゃったかも。

わたしは、ちょうどいいリズムで、どこまでもジェンガを積み重ねて、スリルも楽しんでいられたらいいな。

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