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失敗から恩恵を被る

何かがうまくいかなかった時に、それを「必要不可欠な失敗」だと思うことが、心の安らぎを保つための条件になるかもしれません。その出来事から得られるものを、肯定的な利益と、否定的な不利益、100と100でカウントしてみると、後者は数が少ないのに前者よりも規模が大きく、そのせいで全体的には「失敗した」と言わざるを得ない、という事もあるでしょう。

 利益よりも不利益、または成功よりも失敗の方が目につきやすいのは確かです。しかしながら「成功して当たり前」と思われることでも、実際にはぎりぎりの状況で成功した、ということもあります。「うまくいって当たり前」は一握りしかなく、あとはもう、バランス棒を握って綱渡りをするようなものです。ですから、その仕組み、背後の状況を想像したり、推測できる人々は、失敗した人々に対して、「それでも良くやった」と言います。努力は大抵報われますが、残念ながら何らかの状況や条件が影響して報われず、何も実らないこともあります。

 突発的な事件や事故の発生により人々は何かを学び、再発防止に努めたりすることも。そのように、失敗は必ずしも害悪ではなく、少なからず何かしらの恩恵を誰かにもたらします。とにかく失敗の方が大きくクローズアップされすぎて、恩恵にはほとんど目がいきません。だからと言って、「失敗したけど良かった!」と言い張るのは、それはそれで負け犬の遠吠えのようでもあり……。

 物事は本当に一筋縄ではいかず、そこがまた興味深くもあるのです。人の命に関わるような失敗や成功は問題ですが、それ以外については自分の考えのみならず他人の意見や見る目も取り入れて、様々な面から検討してみましょう。銅像は大抵立ったままなので、持ち上げて底がどうなっているかを調べる人は多くありません。

 ありがとうございました。(2023.3.7)

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