代替不能カップル
永遠の愛を誓い合う。ぺらぺらの、ペーパームーンみたいな愛だってお互いに薄々気づきながらさ。
そんな、晩秋の落ち葉よりありふれたカップルだったさ。
若くて愚かでありふれた2人。罪も無い男女。お互いにお互いのことを苦い黒歴史だか恋愛遍歴の1ページに変換して永遠に離れてく。よくある小さな物語。
なにがいけなかったんだろうな?
魚の死んだような目で俺をみる女。
彼女の瞳に映る俺も同じ目をしてる。
3日間さまよい続けた砂漠の砂よりも味気ない女の肌。こんな女の肌に欲情してた自分が人生のどこかにいたなんて、もう想像もつかない。
□□
心霊スポット巡りを趣味にしていた時期があった。
ネットの心霊系サイトのなかでピックアップされているスポットの中から、気軽に行ける距離のものを数カ所見つくろっては一晩かけてめぐる。金を使わずにスリルを味わえる手軽な遊びだった。とにかく万年金欠だもんだから、よくデート場所に利用してた。
そんなスポットのなかにあったのが、あの廃神社だった。
廃墟になる前には縁結びの神様として、それなりに由緒ある神社だったらしいその場所は見る影も無く崩れてた。
着いたのは深夜2時くらい。
さんざんはしゃいで、境内で騒ぎまわった挙げ句におふざけでお参りをした。
当時、付き合いたてだった今の彼女と並んでテキトーに手を叩き、
「2人が永遠に結ばれますように」
軽い気持ちでそんな願いを口にした。
肉が大量に腐っているような異様な匂いが社の奥から漂ってきたのはその瞬間だった。
お腹に痛みが走り、シャツを上げると臍から重油みたいな黒い血が流れ出ていた。
隣の彼女の臍も同じだった。
急に恐怖がさして逃げ帰った。
それが、今の彼女とのとてつもない腐れ縁の始まりだった。
□□
そんなことがあったせいもあって、ゆり子とのあいだに最初の大喧嘩が起きた。
今まで、恋愛が長続きしたことがなかった俺は、もうその時点で別れるつもりでいた。
だいたい、彼女と心からぶつかり合うべき、とか本音を伝え合うべき、とかいう男がよくいるけど、何か根本的に誤解してるような気がする。
男と女なんて心から分かり合えるわけがないだろ?
本音をぶつけ合う?
何年も同じ相手と付き合っていけてる人ならだいたいは同意してくれるだろうけど、男女が真の本音をぶつけ合って関係なんか維持できるわけが無いじゃないか。
本音なんかぶつけたら、男女の関係なんかその瞬間ご破産だ。例外があるとすれば、どちらかに莫大な資産があって、相手が死ぬのを虎視眈々と待ってるときだけだ。
そんなわけで俺は、うわべを繕《つくろ》えなくなった時点で別れる。そう決めてる。
ゆり子との最初の大喧嘩はまさにうわべを繕《つくろ》わずに本音をぶつけ合った瞬間だった。
お互いにモテないタイプじゃないから、別れると決めたあとの罵《ののし》り合いは苛烈を極めた。
いくらでも代わりなんている、男も女も世の中には腐るほどいるんだから。だからうわべを繕えなくなったら即座に切れば良いだけなのだ。関係を。
新しい男の車の助手席に乗ってた。ホテルから男と出てきた。親切ごかしにそんな報告を入れてくる知り合いたち。
もう俺も、ほかの女に乗り替えてるからオアイコだし、特に未練を感じるほどゆり子は美人じゃなかった。アソコも緩いし。だから、そんな報告いらねえよ、とキレてやってもいいんだけどうわべだけ憤っておくのが無難なリアクションだった。
ほっとけばみんな忘れてく。
本当は誰も俺の恋愛事情になど興味はないのだから。
新しくできたB型水瓶座の彼女が俺の隣で歩いてる、まさにそのときに暴走トラックに突っ込まれて真っ赤な人型の肉塊に変わった瞬間まではそんなふうに考えていられた。
同じ日、ほぼ同じ時刻、ゆり子の新しい彼氏も、高層マンションのベランダから落下してきた自殺者に直撃されて絶命したのだ。
□□
お互いのパートナーが次々に怪死をとげる。それは、俺とゆり子が道ばたで再会するその日まで続いた。
げっそりとやつれた元カノの表情。向こうも俺の顔色から何かを感じとったらしい。
言葉も無くお互いにひしっと抱きあった。
いくらドライな恋愛観をもつ俺でも、何人も何人も彼女が立て続けに死に続ける事態にこたえていた。ゆり子のほうは俺以上に心をやられてたらしい。
復活愛なんて1度も経験したことの無かった俺だけど、世界で俺だけが頼りだとすがりついてくるゆり子を突き放すことなんて、到底できなかった。
だが、元カノとヨリを戻すってのはあれだな。腐った食い物に火を入れ直してむりやり腹に入れようとするのに似てるな。
その瞬間だけガァーッと感情が盛り上がって夜がすごい燃え上がったりもするんだけど、腐ってるものはやっぱり腐ってるのだ。むりやり腹に入れたりすれば腹を壊すだけ。
再開して2週間後には別れた直後以上に険悪な関係になっていた。
3ヶ月後には、もう顔を見てるだけで吐き気がするっていうか、そのうちどちらかがどちらかを刺し殺しかねないぐらい憎み合っていたので離れるしかなかった。
偶然、たまたま、不幸な死が重なっただけ。
そう言い聞かせて新しく付き合い始めた女の子がラブホテルで腹上死したとき、いよいよ俺は絶望した。
なにかに呪われてる。そう確信する以外になかった。
原因はやっぱりあれだろう。あの廃神社。ふざけたお参り。
顔を見ただけで胃がムカムカするゆり子を呼び出して、提案した。
一緒にお祓いにいこう。
□□
肘に刃物がついてるならお互いに血みどろだろってぐらい小突き合いながら電車を乗り継いだ。
距離をおこうおこうとしてもなぜかまわりの乗客に押し込まれてお互いの息がかかるような密着状態に追い込まれる。
もしかして、この悪霊は俺たち2人を殺し合わせる事を最終目標として動いているのだろうか?
だとしたら何とも巧妙な悪霊だ。
心霊スポットで幽霊を撮影するのをライフワークにしてる底辺ユーチューバーの後輩がいて、そいつに紹介された霊能力者だった。
なんでも連続幼女殺人事件の死体遺棄現場として有名なトンネルに行ったとき、同行してた女性スタッフが憑依されて手がつけられない状態になったらしい。
そこで担ぎこんだ先がその霊能力者の事務所で。深夜に叫んで大暴れする女性スタッフをその霊能力者はものの10分で静めてしまったらしい。
その話を最初聞いたときは心底バカにしきっていた。なにが憑依だよ。ろくな時給も払わないで深夜中連れ回してるからヒステリーおこされただけだろうって。
その霊能力者とやらは素早く鎮静剤でも射ちこんだんだろう。
そう、バカにしきっていた相手に、まさか自分がすがりつく事になろうとは。
郊外のテンプレートな景観を貼りつけただけの寂れた駅で降りる。
徒歩10分ほどの場所にその薄汚い雑居ビルはあった。
心霊研究家 橘ただし事務所
雑居ビル3階のフロア。その胡散臭い看板を目の前にして思わず二の足を踏む。顔が、ぴくぴくと痙攣した。
ゆり子は平気な顔でノックし、ドアを開けてしまう。
せめて、信頼性の高い神社の神主とか大学の研究者とかまともな専門家を自分でリサーチすべきだったかと後悔した。
奥から出てきた男は、俺とほとんど変わらない年齢の若い男。もう、毛穴から侮りの気持ちが吹き出してしまいそうだ。
無名のユーチューバーか何かを見たときの感覚?あれに近い。威厳もなにもあったもんじゃない。青臭さがあふれ出して止まらない。
やっぱり、政治家とかがみんな年寄りなのは理由があるのだ。
男はゆり子と俺が視界のフレームに入るなり、ぎょっとした表情を見せた。
「あなたがた、寺をまるまる1個燃やしたりなんかしました?」
カマかけにしたら妙に大胆で、どことなく的確さを感じたので戸惑った。
「わかりますか?先生!わたしたちが呪われてる事!」
ゆり子が、他愛もなく感激してる。
こういうバカがオウムに入信してたんだろうな。
「あなたがたには腐敗した3体の神と、根腐れて魔物化したご神樹がへばりついていて。あなたがたの生来の守護霊はその悪霊たちに食い殺されてしまっています」
口もとおさえて絶句するゆり子。その後、忘れずに恨みがましい目で俺を睨んできた。
お前だってノリノリではしゃいでいたくせに。
すみません、そのまま入られると今後の仕事に支障をきたすので。
そう言って男は、入口で塩をしこたまぶっかけてきた。
一瞬、キレてもいいかな?と思ったけれど、あるか無いか判然としない霊的なものを人質にとられているので怒るに怒れない。
無いって断言もできないところが、こういう事案の厄介なところだ。
安い合成皮革のソファーにかける。
五臓が悪いおっさんの皮膚みたいに部屋全体がくすんでるような印象だった。
俺たちを穢れ扱いしてたけど、もう十分にこの部屋はどんより沈んでる。
犬っころだったら尻尾をぶるんぶるん振ってるだろう媚びた顔のゆり子。
チャンスがあるなら、いつだって他の男に乗り換えたいんだろう。
あ、そうか。霊能者という手があったか。もし本物の霊能者ならタタリごときで呪い殺されることも無いだろう。
俺も、女霊能者を探してその子と付き合うことにしようかしら。
「まず、これだけはハッキリさせておきましょう」
ソファーにかけて開口一番にヤツはこう言いやがった。
「あなたがたについているもの。それを祓《はら》うことはわたしには出来ません」
「うんうん」
相手の言ってる内容を完全スルーしてるゆり子は犬っころみたいに愛想良く相づちをうつ。
「あなたがたについているのは、本来なら私たちに力を与えるような存在。霊験あらたかな神とも呼べるような存在だからです。だから、わたし如きの霊力では到底、祓うことなど出来ない」
「うんうん…………ハァ!?」
ようやく内容が頭に入ったみたいで、ゆり子は叫んだ。
「倒すのが無理なら、誠心誠意謝りましょう。何をして元々は徳の高い神をそこまで怒らせたのかは知りませんが、とにかく謝罪するしか方法はありません」
□□
余分に相談料だかお祓い料をとろうとして話をでっち上げてやがる。もちろんその程度の勘ぐりはしたよね。でも、実際に何人も続けて目の前で死なれてみなって。俺のなかのリトル大槻教授なんて、みるみる萎んじまうって。
もう、2度と訪れるつもりなんか無かったあの廃神社。昼でも薄暗い山奥の山道を通って訪れた。
運転手は霊能者。助手席にはゆり子。
初デートかよってくらい和気あいあいと喋ってる前の2人。
この霊能者がダメだったら次は絶対に美人女霊能者のところに依頼しよう。
別に嫉妬してるわけじゃないけど、見せつけられたら倍返しが普通だろ?フェイスブックの結婚報告なんて誰かへのリベンジ見せつけ目的が9割だしな。
道が細くなるにつれて、両側の木々は獰猛に生き生きとこちらに迫ってくる。
そのうち、頭上まで木々に覆われて密林のはらわたの内部に永遠に閉じ込められる。そんな幻想さえ浮かんだ。
「あれ、変ですね」
追憶のコールタールで生き埋めになっていた意識が引きずり戻される。
「ナビではもうついてるはずなのに……」
何回も車を戻しては、ナビが示す到着地点を確認した。
でも、そこにはどう見たって何かがあった形跡は無かった。
「謝罪すら許さない。そういうことですかな?」
ハンドルを握りながら霊能者を僭称する立花は念仏を唱えだした。
念仏が車内に響きわたるなか、さらにUターンを繰り返すこと3回。
絶対に見逃すはずの無い、確実に何度も通過してたはずの場所に突然、それは現れた。
ぽっかりとひらいた、若禿みたいに不自然な空き地。
エンジンを止めた立花は、深くため息をつく。
空き地だった。
摘出済みの臓器みたいに、そこに何かがあったという痕跡だけを残して。
焼けた木材。黒ぐろとした焼跡。ほんのかすかに建物の名残りが地面にへばりついていた。
「これはまずい……」
どこかの不届き者が放火でもしていったのだろうか。
「わたしたちは謝罪する対象を、永久に失ってしまった」
振り返った霊能者の顔があまりにも青ざめていたので、こちらにまで戦慄が伝播してきた。
立花のその言葉の重みを、実物通りの重さで感じとれるだけの想像力がまだ俺には備わってなかった。
帰りの車中。
車のミラーあたりにぶらさげてあったお守りが、突然、破裂した。
助手席の足置きマットの上に落ちたお守りは、妊婦の腹みたいに膨れ上がってた。
それから、立花は鼻血を出し始めた。
いつまでもいつまでも、その鼻血は止まらず、立花はついにハンドルに顔を置いたまま動かなくなった。
俺が代わりに運転席に座ったけど、車はまるで墓石を20個も引きずってるみたいに重くて、勝手に蛇行を繰り返した挙げ句に止まった。
ただ、山のなかを穿ってコンクリートを流し込んだだけの山道で、俺たちは立ち往生する事になったのだ。
スマホで救助を要請しようにも電話口から聴こえてくるのは微かなノイズばかり。女のすすり泣く声にも似たその音を聴きすぎて気がおかしくなりそうだ。
ネットは圏外になっていて、奇跡的に回線がつながったと思ったらなぜか自動的に葬儀関連の検索ページだけが表示され続けた。
突然、スマホから人声が聴こえてきて飛び上がったら、なぜかYouTubeが再生されていて、誰かの葬式の動画だった。
涙が渇いて、ゆり子の頬に塩の跡ができるぐらい罵倒し合った。もういがみ合う気力も無くして、ふもとに向かって山道をとぼとぼ歩く。振り切るのもめんどくさくて、となりで歩くゆり子の存在を黙殺しながら。
真っ赤になって森のなかに溶け落ちていく夕陽をみて、ヒステリーをおこしかけた。
このまま、夜の山道を歩かなくてはならないのか?
□□
どれだけ歩き続けたろう。
子供が黒の絵の具ばかり使って塗りかためたような空。
ふと、気づけば、月が分裂したかのように、いくつもの光源が定期的な間隔で空に浮かんでいた。
広い道路。真ん中を歩く俺たち。その光源は街頭だった。
まるで青山墓地みたいな、ひたすらに大きな墓地が両側に並んでいる。
ここは、どこだ?俺たちは山道を歩いていたはずなのに。
薄ぼんやりと光る人影が前方から歩いてきた。
すぐ逃げ出すべきだ。そう直感したけれど、もう俺の身体はオート操作に入ったゲームのキャラクターみたいに自分の意志では動かせなくなっていた。
夜道のなか、薄ぼんやりと輝くその人は着物を着た女性だった。
彼女は、奇妙な舞を踊っている。
彼女の後ろにも、その後ろにも同じように着物を着て、薄ぼんやりと輝く女性が続いていた。
遠隔操作されているみたいな自分の身体が、舞いながら歩む女性たちとすれ違っていく。
舞う女性たちの列があとを追うほどに接近してくる。
ほとんど、お互いの肌を触れ合わすほどに接近した。
すっと、触れた感触。石の冷たさをした肌。
ふと、眼球だけで真横を通る女性たちの顔を見ようとしたとき、頬を冷たい舌で舐められた。
肛門の奥から脳天まで衝撃が突き抜ける。
気がつくと、俺とゆり子は山のなかのぽっかりと開けた空き地のなかで、手をつないでたたずんでいた。
たしかに山を降りていたはずなのに、俺たちはあの廃神社の跡地に舞い戻っていたのだ。
正気づいた瞬間、俺たちは絶叫し、車へ向かって逃げた。
車に逃げつくと、霊能者の立花が自分の鼻血でフロントガラスに奇妙な魔法陣を書いているところだった。
□□
ゆり子と隣り合って死体袋のなかで目覚めた。
ゾンビみたいな顔色で見つめ合って、泣きあった。仮死状態で発見されて霊安室に来るまで目覚めなかったらしい。
いっそ目覚めないほうが良かった。本気でそう思えた。
色々な騒ぎが落ちついて一人になる。
隣にいるのは世界で1番嫌いな女だけ。孤独で心が虫食い状態になったみたいだった。
以前から気がある素振りを見せ続けていたけど、こちらが生理的に好かないという理由で遠ざけていた相手がすぽっとその間隙に入りこんできた。
愛は無くても、孤独は埋まる。
こちらはただ自分本位に相手の存在を利用していただけだったけど、相手はそれで充足してるようだった。
とにかく、この境遇から逃げ出すことだけを願っていた俺が心中を提案すると、女はあっさりと乗ってきた。
目の前にいる男が、自分の名前すらうる覚えであるなんて想像すらしてないらしい。
なんでひとりで死なないんだろう。
なぜ、道連れを必要としたんだろう?
あまり深く考えなかったけど、縁結びの腐れ神とゆり子への面あてっていう。そういう低次元な理由に帰結するのかも知れない。
そこらで生きている低俗な人間の行動原理なんて、だいたいそんなもんだろ?
ゆり子との縁を断ち切って、死ぬ準備に入った。
腐れた縁結びの神に追いつかれる前に、決着をつけなきゃいけない。
そこまで死に方に関するこだわりだって無かった。綺麗に死にたいとか謎のポリシーをもってる自殺志願者がいるらしいけど自分の死後の誰かの視線を気にするなんてどうかしている。
自分が切断されたあとの世界なんて直後に滅亡したって構わないだろうに。
結局、橋から川に飛び込むというベタ中のベタな死に方を選んだ。
ビルから飛び込みとかだと下の通行人に当たって、こちらだけ助かって通行人が死んだりするケースもあるらしい。
橋から飛び込むなら落ちた衝撃と川の濁流で2重に保険がかかってるだろ。
あまり自殺の名所とかにはなってない、それでいて十分な高さをもつ橋を選んだ。
ここなら人気も少ないし、みとがめられる心配も無い。
怖い、とか、向こうでも一緒になろうね、とかお寒いセリフを吐く心中相手を先に突き飛ばした。
落ちる瞬間にしがみついてきて、思わず振りほどいてしまう。そのときの女の顔の恐ろしいこと。
結局、女の姿が影もかたちも無くなってから飛び込んだ。
夜に切り裂かれるような心地だった。
皮膚に夜の色が染みつく前に水面に着弾した。
意識が水滴の一滴みたいに夜にちらばった。
散り散りになった意識の断片に水流の映像が流れ込んでくる。
もう、痛みや苦しみを等身大で受け止めるだけの悟性すら残ってない。
このまま、順調に死ぬだけ。
自分の体内が川になったみたいに濁流を飲みこんでいる。
死ぬ、死ぬ、死…………。
夜の底で、俺の意識は姿を消した。
□□
人肌のぬくもりを二の腕に感じる。
たしかな命の温度。
心中相手?
俺もあの女も生き残ってしまったのか?
浅い流れから身を起こす。
夜のなかに女のシルエット。
顔を近づけて、ぎょっとした。
ゆり子。
黄泉の国の入り口で、永遠に縁を断ち切ろうとしていたはずの女が目の前にいる。
頭の先からぐっしょり濡れたゆり子。
最初は、なんて意地の悪い女なんだろう?そう思った。
心中に失敗した俺を、嘲笑いにきたのか、この性悪女は?と。
だが、ゆり子の顔にあるもの、それは純然たる恐怖。
他人を笑う余裕なんてその顔のどこにも残ってはいない。
川の流れがよどんだ浅瀬に、2つの死体が流れ着いていた。
俺が心中相手に選んだ女と、見知らぬ男。
電撃的に悟った。
ゆり子もほぼ同時刻、別の橋で別の男と心中しようとしていたのだ。
悲鳴をあげながら、水のなかをはって俺から逃げるゆり子。俺は、衝動的にその背中を追った。
コロス……コロシテヤル…………。
脳裏が殺意で黒く染まる。
なぜか、嫉妬で胸が焼けつく感覚があった。
嫉妬?この、腐れた縁でがんじがらめに縛りつけられた女に?
水底にゆり子を押しつけて、首に手をかける。
ここで終わらせてやる。死ね、死ね、死ね。
ゴッ…………
こめかみを、ハンマーで殴られた。
そんな感覚。
水流が、棺のようなものを俺の身体と一緒に押し流す。
後に知ったのだが、それは誰かが投棄した仏壇だった。
翌朝、ゆり子と絡みつくようにして川原に流れ着いていた。その仏壇もすぐそばに転がっていた。
一緒に、仏壇におさまるまで許さない。
そんなメッセージ性を感じて、背筋が凍った。
□□
早く、死にたい。
そう思って福島の帰宅困難地域に移り住んだ。
立ち入り禁止が解除され、原発に近い地域が開放されるたびにそこへ移り住んで。
より濃密な放射能が漂う地域に近づこう、近づこうと。
腐れ縁結びの神への、ささやかな抵抗。
そんなとき、世界中で疫病が蔓延した。
ほとんどの人類が死滅したなか、生き残ったのは、原発そばの見捨てられた土地に住んでいた俺たちだけだった。
世界に、この世で一番憎たらしい女しか残っていない。その絶望。
かたわらに横たわる干からびた女を無視して、もう今では存在しない画面上の女たちばかり見ていた。
ほんの数カ月我慢して、子供でも作れば気持ちは変わるだろうと、そう思うかも知れない。
しかし、何度かゆり子との間にできた子供はすべて死産した。
縁結びの腐れ神は、あくまで俺とゆり子、ふたりの閉鎖した関係性だけをとことん発酵させる。それが目的なんだろう。
逃げ道など、決して許すことは無いのだ。
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