中野ブロードウェイ《アニマ》天下無双
生まれ落ちた瞬間から、最強への道を猛烈なスピードで駆け出していた。
俺にとって、世界はあまりにも貧弱だった。
苦しみと不安と苦痛にむせび泣く赤ん坊たちのなかで、俺は世界への失望感で泣いていたのだ。
母親の胎内で想像していた外界の苛烈さは、こんな甘ったるいものでは無かったから。
□□
異常体質。
生まれながらに最上質だった俺の筋肉は、まるで細胞そのものに意志があるかのように自律的に発達していった。
筋肉そのものが、運動を記憶する。
あるトップアスリートはその日の練習の記憶を筋肉が忘れてしまわないように決して練習後にマッサージを受けなかったという。
俺の場合は、それを極端にしたケースなのかも知れない。
最も俺の場合は、脳がその動きを覚えるよりも先に、筋肉の方が運動の記憶をインプットしてしまっていたのだが。
頭では知らない初めての動きのはずなのに、俺の筋肉はそれをいつの間にか習熟していた。
自律的に異常発達をする過程で、ふとした瞬間に目に入ったスポーツ選手や格闘家の動きを、俺の筋肉は勝手に覚えて模倣した。
だから、どんなスポーツを始めても、俺は記憶喪失のトップアスリートみたいにその動きを初体験にして達人級に再現できたのだ。
俺を運動の天才だと言って羨ましがる人間もいたが、そこには何の達成感も充実感も無く、どこまでも味気ないものだった。
クリア済みのロールプレイングゲームをやらされる気分。身に覚えの無い達成。過程の存在しない成功。
10歳で地元のジムにいたボクシングのライト級日本チャンピオンをマットに沈めたとき。
俺の心に、ある激しい渇望が芽生えた。
挫折への憧れ。
誰かに叩きのめされたい。誰かに自分を見下ろして欲しい。
そして、自分を叩きのめした誰かの背中を追いかけていきたい。
そんな激しい渇望が。
□□
15歳。
俺の意志とは関係無く肉体は異常発達を続け、すでに骨格、筋量ともに長年トレーニングを継続した全盛期のトップアスリートほどに完成されていた。
何の努力もしていないのに、だ。
悩みの種は、自分の予想もつかない動作を筋肉が再現してしまう事。
偶然、俺に絡んでしまった哀れなチンピラに不必要に洗練されたプロボクサーの右ボディーブロー、さらには返しの左フックを浴びせてしまったりする。
相手に与えるダメージを計算できない。
ただ、虫の居所が悪かっただけかも知れないチンピラに臨死体験までさせるのはさすがに心苦しくなる。
夜の街の底を蠢く、いわゆる喧嘩自慢といった連中は軒並み倒してしまった。
都市のアスファルトに敗者の血で新しい絵を塗りたくる事にも飽き飽きし、とうとう俺は本職の人間にまで食指を伸ばした。
ジムや道場まで押しかけて一番強い人間に目星をつけ、喧嘩を売る。挑発を繰り返す。それで相手になってくれるのはせいぜい2、3割で残りには闇討ちをかけた。
それでも楽しめたのは最初の頃だけ。
筋肉が戦うたびに相手の動きを学習し、プロのスピードにすぐさま適応してしまう。
日本の格闘家の間に俺の悪評が広まる頃には、すでにモチベーションは涸渇してしまっていた。
緩やかに動く相手の急所にパンチを叩き込む。極めてください、と言わんばかりに差し出される関節をへし折る。
なぜ、これほど速やかに物事が容易になってしまうのか。
痛みに悶絶して床に這いつくばるプロの格闘家たちを見下ろしながら、俺は寂しさにむせび泣いた。
□□
ありとあらゆる世界の格闘技情報を仕入れ、『最強』と形容される人間には片っ端から闇討ちをかけた。
一瞬でもひやりとする場面に出くわしたのはアマチュアレスリングの三期連続金メダリストに輝いたクロアチア人と組み合った北京での一戦だけだった。
いかに、最強という形容が安っぽく濫用されているか。
韓国史上最強と喧伝されてるUFCファイターの背骨をへし折ったときなど、心の中の期待がへし折れる音を顔全体で受け止めたような気がして痙攣してる大男を抱きかかえながら思わず泣き出してしまった。
こんな弱っちい人間を再起不能にして、一体俺は何をしているのだろう?
ネットでかき集めた『最強リスト』名簿の最初の1ダースを消化した辺りで、俺はその手法をやめた。
ニュースを眺めると、だいたいは凶器を持った男に襲われた事になっている。酷いときは拳銃で撃たれただの、オンサに襲われたなどとねつ造されているニュースもあった。
ちんけな評判を守ってどうなるというのだろう?無名の素人に完膚無きまでに叩きのめされたという事実は格闘家の魂に永遠に刻まれる。
自分が最強ではないと魂に刻まれた時点で、その格闘家の人生はへし折れたのだ。
もはや、子供のように純粋無垢な心で頂点を目指す事は出来なくなる。
天下無双の幻想を失った格闘家は、もはやただの肉体労働の稼ぎ人にしか過ぎない。
心に妥協を巣食わせながら、食い扶持のためだけにリングに上がるサラリーマン格闘家になるぐらいなら拳を砕いて去るべきなのだ。
□□
本物を探した。
細胞のひとつひとつにまで勝利が刻まれた男。負けを知らない魂。
澄みきって底まで見渡せる湖のように、何の濁りも無く自らの最強を信じ込んだ男。
そんな男が、世界に3人だけいた。
夜、眠ると過去の偉大なるファイターたちと戦う夢ばかり見る。
名だたるレジェンドたちを軒並み倒してしまった幾千日目かの夜、夢の中に現れたのはドラゴンボールの孫悟空だった。
□□
人工の光で夜闇が濁っている。
水の中に落とした砂粒のように。雑音が空間に混じり合って永遠に分離できそうにない。
淫猥なくらい雑然としているのに、行き交う人間の表情は一様によそよそしくて冷たかった。ゴミやヘドロが浮かぶドブ川を氷づけにして北極の海に浮かべたかのよう。
腹の中身が発泡スチロールで出来ていても、髪の毛が消しゴムのカスで出来ていても判別がつかないような都心の群衆の中で、たった一人だけを注視している。
無防備にたった一人で歩いていく男。中肉中背の黒人。自身のスポンサーについているスポーツメーカーのジャージをラフに着こなしている。
世界最強と言われる男が、たった一人でこんな場所にいるなんて周りはまるで気付いていない。
黒人の顔が日本人には区別しづらいというのもあるし、その男が何の気負いもなくごくごく自然体で歩いているためでもあった。世界最強の格闘家としての自負とか虚勢とかをまるで感じさせない。
事情を知る人間から見れば、それが逆に異様に見えた。
世界中で格闘家が闇討ちをかけられ再起不能にされているという噂はこの男の耳にも入っているだろう。
なのに、この無防備さ。自然体。
今までの相手とは何かが違った。
すれ違った女の手の中でスマホ画面が光っている。ネットニュースのページ。見出し一覧が出ていた。
『世界的な格闘家、セルゲイ・コバレフ氏 暴漢に襲われ意識不明の重体。先月のベラトーレ王者リカルド氏殺害事件と同一犯か?』
俺の存在を知ってか知らずか、男は人気の無い方、人気の無い方へと歩いていった。
男の名はリカルド・メイドーザー。
ミシガン州グランドラピッズ出身のプロボクサー。
アマチュア戦績268戦268勝無敗。プロ戦績52戦52勝無敗50KO。スーパーフェザー級でデビューし、ミドル級までの世界タイトルを総ナメにした6階級制覇王者。
今、生きている現役格闘家の中で『#史上最強__オールタイムベスト__#』を確実視されている唯一の男だった。
猫科の猛獣を思わせる滑らかな足取り。しなやかな筋肉の動き。
白い根っこのような細い腕をぶら下げて歩く日本の男たちの中で、明らかに異質な生物だった。
緩やかな坂を登り、ラブホテルが集中している薄暗く淫靡な裏路地に入る。
明らかに誘い込まれていたが、あえてそれに乗った。
人通りの完全に途絶えた毛細血管のように細い路地でメイドーザーが振り向いた。
嘲り混じりの笑みを浮かべている。
そこらへんの強盗とでも思い違いしているのだろうか。
アスファルトとゴム底のスポーツシューズが擦れて焦げた臭いがした。
音と臭いが知覚をよぎったのはメイドーザーのパンチが五発繰り出された後だった。
頬が切れ、血が吹き出る。
腹の左には真っ黒な#痣__あざ__#が浮かび上がり始めていた。
避けきれたのは4発まで。
コンビネーションの中のひとつがボディーに命中していた。
初めてだった。
拳の、ひとつひとつの突起に刻まれた皺がくっきり見えないパンチは。
全てのパンチが予備動作無しで構えた場所から最短で飛んでくる。
それが、巨大な滝に流れ落ちる激流のような勢いと、流麗な滑らかさで連続してくる。
人間の限界反応速度を、連続するコンビネーションのどこかの地点で確実に超えてくる。
これが、パンチを極める事だけに生涯を捧げ、一点だけを徹底的に磨きあげ特化したボクサーの拳。
その中でも最激戦区と言われる中量級でメイドーザーが無敵を誇れた理由。人間の限界を超えた神速のコンビネーション。
スキルが分散している他の総合格闘家の攻撃はどれもがぬるかった。パンチも、蹴りも、日曜画家の片手間仕事のような乱雑さ。ステーキ屋に貼られている牛の解剖図のように、俺の視界にはパンチや蹴りを叩き込むべき#隙__あら__#が数十ヶ所も赤く表示されて見えている。
コイツは違った。
なんて実践的で#隙__アラ__#の少ないパンチ。
攻防一体。コンマ何秒の僅差で人生の天国と地獄が決まるプロボクシングの世界で生きてきた人間だけが持ちうる異様な繊細さ、過敏さ。
ほとんど攻撃と防御が同時に行われている。
俺があえてパンチのみのボクシングルールで戦っているという注釈付きではあるのだが。
過去最強。
混じりっけ無しの本物。
嬉しくて堪らなかった。笑みが顔中から溢れ出してきておさえる事が出来ない。
湧き上がる幸福感と充実感で胸が温かく満たされた。この瞬間が永遠に続いて欲しいと心から思える、そんな一瞬。
筋肉が自分の意志より先に反応した。
メイドーザーが洗練された美しいジャブを放った瞬間の事だ。
神が人間を#弄__もてあそ__#んでいる運命の糸が、不意に断ち切られた。そんな倒れ方だった。
ぐにゃり。
柔らかい肉人形になったメイドーザーがアスファルトの上で折り畳まれる。
手の中で、至高の宝物が砕け散った心地がした。あまりにも尊く、儚い、美しい宝物が。
左拳が相手の顎を打ち抜いた感触をもって熱く発光している感覚。
筋肉が、メイドーザーの動作を一度目の接触で記憶してしまった。
相手の動作を記憶して、模倣し、それを改良して再現する。自分の意志と関係の無い次元で。
人工知能の将棋ソフトが人間のプロ棋士を圧倒する。あれに近い、薄ら寒い虚しさだった。
メイドーザーが、アスファルトの上で痙攣している。
右ジャブに被せたの左のクロスカウンター。それが勝負を決めた一撃。
頭蓋骨の中で脳が激しく揺られ、内部で衝突を繰り返した柔らかい脳細胞は破壊された。もう、この伝説のボクサーは2度とリングに立てないだろう。
一体、いくつの男たちの報われない夢、その骸の上に、この伝説のボクサーは生み出されたのだろう?一体、いくつの男たちの人生を犠牲にした上に?
美しく尊い、光り輝く王者。
それが呆気なく破壊され、地面で虚しく残骸となった。
人類が長い歴史の中で産み出した美しい芸術品のひとつを、何の意味も無く破壊したテロリストの心境だ。
もう、メイドーザーと拳を交える事は出来ない。
一瞬で、呆気なく。ライバルはこの世から消えた。
心に巨大な空洞が生じていた。世界と同じ大きさの空洞だった。
俺はもう、一人ぼっちだ。
17歳になってから2ヶ月。
人生の目的を完全に失った。
□□
トレーニングはまるでしていなかった。
夜の底をあてもなく#彷徨__さまよ__#う日々。
だが、肉体は無目的な発達と進化を止めようとはしなかった。
衰え、朽ち果てる事を願い、無謀な闘いに身を投じる。
1対10人。1対50人。1対100人。
永遠に覚めない悪夢の中だ。
無限に血溜まりを作り続ける、血の池を注ぎ足し続ける、そんな悪夢。
巷に出回っている俺についての指名手配情報を目にした。
身長2メートル以上体重120キロの大男という触れ込みになっている。
これでは、捜査の手が及ぶはずも無いはずだ。身長180センチ体重70キロ少しデカめの日本人、俺の見た目の印象なんてそんなものだからだ。
もはや、世界的に名のある格闘家で一人で出歩く人間はいなくなった。完全武装したボディーガードを引き連れ、人気の無い場所を歩く事も無い。
すでに、世界最強候補は狩り尽くした後だ。そんな連中には何の興味も無い。
どこにも行き場所は無かった。
□□
奇妙な噂を耳にした。
ネット上に飛び交う、都市伝説。
中野ブロードウェイに心奪われた人間たちが、あの建物内で次々に行方不明になっているという。
心が空虚になっているとき、あの建物の中の風景は変に楽しくはまった。
無機物の凹凸だけが広がる心の空洞の中へ、あの中野ブロードウェイという建物内部を埋める要素のひとつひとつが入り込んでくる。
入り込んできたあの建物内の要素のひとつひとつは、心の空洞の中では途端に生命を得て動き出す。
心の空洞内で生命を得たそれら要素のひとつひとつは、やがて生態系を形づくり、産み増え続け、空洞のくぼみの果てまで埋め尽くすようになる。
その要素のひとつは、ウルトラマンだったりする。
その要素のひとつは機動戦士ガンダムSEEDだったりする。
その要素のひとつは五星戦隊ダイレンジャーだったりする。
中野ブロードウェイという建物内を埋め尽くす要素。
それらを受け入れ、増殖させる自分という入れ物。
中野ブロードウェイというオモチャを詰め込んだ巨大な空洞の中を、俺という空洞が歩き回っている。
動き回る無数のマトリョシカたち。
巨大な空洞内部を歩き回る俺たち空洞の中から、どれかが順繰りに神隠しに遭うのはひどく自然な事にも思えた。
ネット上に散らばる中野ブロードウェイについての都市伝説に、新手のものが出現した。
『中野ブロードウェイは、《アニマ世界》へのゲート。神隠しに遭った人間は、全員、人間の#観念__アニマ__#が具現化した異世界に飛ばされている。アニマ世界=創作物が実体化した世界。生き残るのはまず無理。俺の姉貴は中野ブロードウェイの4階からゾンビ映画が実体化した#観念__アニマ__#世界に迷い込んで、死んだ』
その、新説をネット上で読んだ日から、俺は中野ブロードウェイでの神隠しを熱望するようになった。
□□
物語世界に、なんて強い男たちの多い事。
中野ブロードウェイの通路を彩るショーケース内には数知れない天下無双候補が並んでいる。
一突きで人間のツボを破壊し、肉体を飛散させる世紀末の拳法家。
指先から霊気を集めた弾丸を放ち、魔界の妖怪を征伐する不良少年。
パンチ1発で地球を破壊する力を得ながら、自己研鑽を止めようとしない地球育ちの宇宙人。
これらの連中と拳を合わせる事が出来たなら、どれだけ素晴らしいだろう?
打ち負かされる夢。誰かの拳で、倒れ伏す夢。それが好きなだけ叶う場所。
ショーウインドウの前で膝まずき、泣き崩れる俺を尻目に、好奇の視線を送る通行人たち。
人の夢想の広さと全く同じだけの広さを持つショーウインドウ。
俺を圧倒してくれるはずの強者たちが、カラメル色のライトを浴びて艶めいている。
皮膚の白さが、何代も前から都会の水で洗われた事を示して残酷なほどの透明感をもった女子高生が通りすぎながらスマホをかざす。切り刻むように笑っていた。白い小さな歯が刃物になって空間を切り傷だらけにした。
他人の痛みなど理解しようとはしない。
他人の痛みの根源など理解しようもない。
生きてきたほとんどの時間で想像力など放棄している。
それが俺たち人間だろう?
俺の頭蓋骨を破壊して子供の頭蓋骨サイズまで縮めてくれる拳。
俺の尾てい骨を砕いて、子供を三人も続けて産み貫いた老女の心境まで落とし抜いてくれる足。
俺の魂を肉体から引きずり出して、聖書の文面が刻まれた大地に叩きつけてくれる牙。
俺が必要としているのは今もこれからもそれだけなのに。
□□
中野ブロードウェイの四階フロアをさ迷っているとき、占いの店を開いた奇妙な老婆を見た。
マニアックな嗜好をさらに発酵させ過ぎた秘宝館のミイラのような四階フロアの中でも、その老婆が放つ妖気は浮き上がっていた。
干からびて老樹のようになった皺だらけの皮膚の中で、目だけが異様に水分を帯びて光り輝いている。
まるで、異界の生物が目に擬して潜んでいて、若い美しい女を干からびた老婆に変えてしまっている、そんな奇怪な印象を与える目だった。
「・・・種が見える」
立ち止まって振り返ると老婆がこちらを見ていた。
「・・・・・・アニマ世界の種じゃ」
立ち尽くし、見回した。
常温で数十年も密閉されたままのはずの空間に、熱く焼け焦げた、獣臭い風が吹き抜けた。
四階フロアの端から、次々にシャッターが下りていく。断頭台のギロチンのような容赦無さで。
自分の横の店舗もシャッターが降り、ギロチンのドミノは背後に通過していった。
完全にシャッターが閉まり、封鎖されたフロア内を歩き出した。
老婆は、最初から存在しなかった。そんな気がしてくる。
歩いても、歩いても、下りの階段が視界に入ってくる事は無かった。
延々と、延々と伸びるシャッターの列。
壁に埋め込まれた透明なカプセルに、宇宙人グレイの等身大サイズの人形が入っている。
オカルト関連の店の飾りだ。
それを通り過ぎて。
どこまでも歩いて、歩いていくと、再び目の前に同じ飾りが見えてきた。
思わず笑みが#涎__よだれ__#みたいに溢れでる。
どこかに迷い込んだ。そんな感触が、心臓を型どりしてくる。
無音。静寂に#濾__こ__#された空間。
耳だか、首のつけ根の方の神経だかが狂ってきたのか、静寂が濃縮され続ける空間の深部から音が生まれてきた。
最初、幻聴と区別がつかないほど微かだった音が徐々に高まって行く。
それは、階下から浮かび上がってくる音響だった。狂騒的な、大人数がたてる音。
数千人。そのくらいの規模の人間が階下で狂騒している。
もはや、音は完全な肉感を得ていた。
手の中で握りつぶされる女の柔らかい肉や、目の前の鉄板に焼きついて身を鳴らすステーキ肉に似た実在感だ。
祭。祭の音。
わ、しょい、わ、しょい、わ、しょい。
腹の底まで震わす、低音。
女の黄色い声が湯船に垂れ流した小便みたいに混ざり込んでいる。
わ、しょい、ゲラゲラゲラ、わ、しょい、わ、しょいわ、しょい、ゲラゲラゲラ。
祭の音響の中に、嘲笑が入り雑じる。
俺は、腰を落とした。深く深く尻を落とし、その姿勢のまま片足を高く。
床を踏み抜かんばかりにスタンプした。地球の処女膜に足跡をつけてやりたかった。
相撲の四股。
鈍い音が異空間と化したフロア中に響き渡る。
不気味な音響は、ぴたりと止んだ。
空間の奥行きに、風に吹かれる落ち葉のような#囁__ささや__#き声が散らばっている。踏みつぶされた音の#残滓__ざんし__#が空気の向こう側に拡散していくかのようだ。
このまま歩き続けても、らちがあかない。
俺は手近なシャッターの根元をひんずかんで、無理矢理引き上げた。
呼吸器官や心臓が、瞬間的に縮み上がるのが分かった。
一瞬で、激痛と共に眉毛や#睫毛__まつげ__#や顔面中の柔い皮膚が凍結を始めた。
一面の銀世界。空間を一ミリも残さず細切れにする荒れ狂う雪片。
シャッターの向こう側が、絶対零度の純白に染まっていた。
思わず、シャッターを引き上げた手を放す。
盛大な音をたてて床を叩くと同時に、シャッターは向こう側の世界を遮断した。
しばらく呆然としたあと、思わず吹き出した。
自分の背後の床には氷混じりの雪解け水が#円__まる__#く範囲を広げている。
夜の湖みたいに放心を溜めた胸を抱えながら、次のシャッターの根元に手をかけた。
開けた瞬間、赤く輝く炎の大河と対面した。
シャッターの向こう側は夜。
夜の底が真紅に光輝きながら流動している。
思わず息を飲んだ瞬間、呑み込んだ大気の熱さに仰天した。
体内に入った空気の温度で気管や肺が真っ赤に光って見えるかと思うような熱だった。
そこにあるのは、溶岩の顔。
瞬時に手を放した。
一瞬なのに、身体中の皮膚が水分を奪われている。
腰を抜かしかけていた。
常温の空気をむさぼった。
熱くも冷たくもない空気。それがどれだけ有り難いものなのか肌で実感する。
だが、常温の空気が無尽蔵にあるというだけでここはやはり袋小路。
慎重に次のシャッターに手をかけた。
ゆっくりと引き上げたシャッターの隙間に、石畳が見えている。
人工物。人が作り出したインフラ。
胸に広がる安堵は、すぐに萎んだ。
軍靴の響き。石畳を規則正しく踏む軍服の脚と軍靴。映画のズームショットのような絵面だった。
シャッターの向こう側に軍人の行進。
別の国土の匂いを感じた。異郷の吐息。異郷の衣擦れ。
思いきってシャッターを全開にしてみた。
どことなく古臭いデザインの軍服を着た男たちが真横に並んでいる。
ドイツ語らしき言葉がゲリラ豪雨のように沸き立ち、こちらに降り注いでくる。
隊列の真横に突如現れた謎の東洋人に彼らは困惑していた。隊列の後方にハーケンクロイツの旗が見えた。
言葉の次に降り注ぐであろう鉛玉の雨を避けて俺はシャッターを降ろした。
シャッターの向こう側が、ランダムな異世界になっている。
昭和と思われる小学校の授業中の風景。
のどかな原っぱ。
そして、月面を間近に臨む宇宙空間。
最後のシャッターを開けた時には真空に吸い出されかけて危うく死ぬところだった。
さすがに現世に絶望して自暴自棄になっていた俺でも途方に暮れた。
通路の真ん中に座り込んで膝を抱えていたとき、シャッターが微妙に震動している事に気付いた。
何百キロと離れた土地で起きた巨大地震のような。静かで着実な揺れかただった。
建物全体が#軋__きし__#み、鳴動を始めている。揺れながら、あえぐ。まるで赤痢にかかった巨人の腹の中だ。
フロアの内壁が汗ばんだように水滴を垂らし始めた。てらりてらりと妖しくぬめりだした壁の様子は本当に生き物の内側にいるかのよう。
一瞬、身体を地べたに貼り付けている力が消えて尻が宙にふわりと浮いた。
さながら、この建物ごと超高度から急降下したかのような無重力下。
尻が地面に落ち着いたと思った瞬間だった。
巨人の直腸内で巨大な男根が差し込まれる音を聴いているのような凄まじい音響がして、天井が引き裂けた。
巨大な物体が空間を貫いて廊下の床にめり込む。衝撃波と共に粉塵が飛んできて毛穴のひとつひとつまで埋め尽くされる感覚がした。
粉塵が猛スピードで荒れ狂うの止め、空間を緩やかに滞留するようになって、轟音に痛めつけられた鼓膜がようやく衝撃から立ち直った頃。天井を突き破って4階フロアを貫通した物体の全容が視界に入ってきた。
それは逆さまになった巨大な頭部だった。頭だけで5メートルはありそうな頭部。
しかし、形は人間の頭に似ていたがどう見てもそれは人間の顔ではない。
サイズもそうだし、何よりその色だった。
銀色。
首の根元の部分に赤色が見えているが胴体は天井の穴の向こう側に隠れて見えない。
人間の目にあたる部分、人工物のような丸みを帯びた白色の眼球部分が発光していた。
光は、まばゆく輝きだしたかと思うとゆっくりと暗くなる。ビカビカと点滅を繰り返す。
巨人が突き破った天井の穴を基点にして、内側に光を孕んだヒビが、音も無く空間に広がっていった。
卵の殻が、時の流れに朽ちて崩れていく様子を内側から眺めている#雛__ひな__#の視点。
俺は、果たして生きた雛なのだろうか?
すでに死して固くなった死産の雛ではないのか?
空間が、外側に剥がれ落ちていく。
まばゆい光が、剥がれ落ちた空間の外側から流れ込んでくる。
純白の光が空間を押し潰す。
意識が漂白され、記憶はそこで途切れた。
□□
空間に、自分の呼気が充満していた。
身体が物体で圧し固められている。
腕や肩に触れる物体がぬめり気を帯びていて吐き気がする。自分の吐息が出した湿り気が、空間の内側を湿らせている。
渾身の力で手足を伸ばす。すると、自分の身体を固めている物体は呆気なく外側に弾けた。
蝉の声が降り注ぐ空間に転がり出る。濃密な樹木の香りが鼻をつく。
目が痛む。瞼の裏側の粘膜に、無数の毒虫が這いずり回ってるような痛み。
生まれて初めて使う臓器が身体中の肉の層に埋まっている。そんな重苦しいだるさが全身にまとわりついている。
自分がさっきまで収まっていた空間を振り返った。
巨大な樹木の幹に大穴が空いているのが目に入る。
不思議と、女性的なフォルムをした幹だった。ちょうど、女性の腹部にあたる部分に大穴が空いていて、まるで樹木と融合した女が子供を産み落としたかのように見える。
盛大に吐いた。
プラスチックの味が口いっぱいに広がる。
土の上に広がる唾液の海の中にソフトビニール製のフィギュアの手足が混じっていた。
原色に染まった唾液。虹色に糸を引いている。
景色に#入れ墨__タトゥー__#を入れたかのような林道のシルエット。そのなかを木こりが歩いてくる。肩に斧をしょった木こりだった。
その歩き姿を見て、俺は感電したようなショックを受けた。
木こりの姿からは、ある種のオーラがたち昇っている。
強者だけが#纏__まと__#う、独特のオーラだった。
今まで対峙してきた世界中の#猛者__もさ__#たち。その誰よりも強烈なオーラだった。
だが、その木こりの外見はどう見ても平凡そのもので、どう見てもただの村人。
ドラクエ風に言うなら村人Aといった#風情__ふぜい__#だった。
垢じみた赤ら顔が陽気な鼻歌を鳴らしている。奇怪な植物の実のように。
黒澤明のモノクロの時代劇に出てくるような薄ら汚れた衣服。
とても、この異様なオーラの持ち主とは思えない見た目。
俺は地面に転げながら死にもの狂いで木こりの背中を追った。
この男と一戦交えたい。10億持ってるなら、10億払っても良い。
骨格がプラモデルと同じ素材になったような違和感。歩くたびにポキッポキッとプラモの型からガンダムのパーツを取り出したような音がする。
木こりはのんびり歩いているように見えた。しかし、こことあちらでは時空にズレがあるのではないかというほどその歩行スピードは速かった。
一瞬でも膝をついて休むと、もうその背中は遥か彼方に消えかかっている。
流星を追うように、必死で走った。
頭上を覆う木々が、俺を嘲笑う幾千億の舌に思えた。囁き、忍び笑う緑の舌たち。
虹色の唾液が色をなくし、全身の汗が絞り抜かれたように感じられた頃、霧が晴れたように視界が開けた。
空に突き刺さるような、とてつもなく巨大な樹が広原の中心に#聳__そび__#えている。
遥か上方の樹の幹から鳥の声が聴こえてくる。
鳥の声は高低差のある枝葉の中で立体的に重なって、地球規模の巨大な楽器のような重層的な音を織り成している。
天体のようなスケールの樹木が作り出す異様な奇観。
世界樹。というファンタジー世界のワードが頭に浮かんだ。
そのワードが、この樹木のスケール感に一番しっくり来る。
蟻よりもなお卑小な人影が、大樹の麓に佇んでいる。
木こりだった。
俺には分かった。
生命エネルギーの流れが見えた。
木こりの生命エネルギーは水平線がなだれ落ちるような巨大な滝を、逆向きに流したような雄大さで放出されている。
地殻を裂いたような根源的な爆音が轟く。
生態系がいくつも消滅する規模の大轟音だった。
太陽が誰かに両断され、青空の中をふたつにゆっくりと分かれていく。それぐらい信じがたい光景が目の前に広がっていく。
世界樹が、幾千億の雑音を引き連れて、ゆったりと傾いていく。
崩れ行く世界樹の根元で斧を振り抜いたポーズを決めていたのは、例の木こりだった。
地平線が、箱庭のように安っぽくうねっている。不動の大地がこうも#容易__たやす__#く揺れ動く。
世界樹が大地に横たわった衝撃。
この現象を起こしたのが人間の力だとは到底、信じられなかった。
世界樹を住み処にしていたサンシャインビルくらいのサイズの芋虫が這い出してきて、怒り狂って鼻先を振るい回していた。
水晶のような透明感のある青色をした芋虫。ドラクエやFFだったら、確実にラストダンジョンに出てきそうな風格だった。
青色の、芋虫の神様のような怪物は木こりを見つけ、襲いかかる。
水彩のイラストを、絵の具の段階まで還元したかのようだった。
木こりが飛び上がって、斧を身体ごと回転しながら縦に振るうと、芋虫の身体の9割がたが真っ青な液体になってあたりに飛び散った。
胸が、その光景の色に染め上げられてしまった。
目も、足も、手も、心臓が染まった光景に同化して、もはや身体はその事しか考えられなくなる。
俺は、夢中になって走った。
もはや、身体はこの世界への違和感など忘れていた。
世界樹の近くには、たんぽぽによく似た植物が膝の高さに群生していて、一歩進むごとに綿毛が舞い上がった。
木こりが、大声をあげながら近付いてくる俺の存在に気付く。
困惑した木こりの顔の周囲に、綿毛が舞い群がる。
水をぶっかけられた紙細工のように木こりの表情がくしゃりと崩れた。
道場破りをしていたときのノリで、頼もう!と叫んだ瞬間、呆けた表情をしていた木こりがくしゃみを炸裂させる。
その瞬間、俺の意識はどこかに消し飛んでブラックアウトした。
気がつくと、夜になっていて、俺の身体は見覚えのない場所に横たわっていた。
それは、世界樹が倒れた場所から三キロほど離れた地点。
全身が擦り傷だらけだった。
しばらく呆然とした後、俺はようやく気づいた。
負けたのか?俺はあっさり。
腹の奥底の、所在が分からぬどこかから笑いが込み上げてくる。
座りこんだまま、爆笑して雄叫びをあげた。
愉快で、愉快で仕方がない。俺はこれから、倒すべき高い目標を見出だしたのだ。
この、奇妙な地で俺は蘇生した。命を吹き込まれた。
立ち上がる。土を踏みしめる足の指の1本1本にまでエネルギーが満ち満ちている。
夜の中に、豊穣な輝きを感じた。輝きわたる夜の空気の中を、俺は歩き出す。
□□
明け方頃、村落を見つけた。
三国志のマンガで見た、古代の中国を思わせるたたずまいの小さな村だった。
早朝の青みがかった空気の中を、百姓たちが歩いている。
俺は無我夢中で一人一人にすがりつき、伝わるわけもない日本語で語りかける。
世界最強の木こりがこの村にいるんじゃないか?
百姓は目を丸くして、困惑の表情を浮かべている。首を傾げて去ってしまう。
次々に早朝の村落を歩く人々に問い質していくと、気付けば村の中央の広場に出ていた。
見覚えのある樹の一部分が広場の中央に鎮座していた。世界樹の一部分。それは、高層ビルのように広場に#聳__そび__#えたつ。
やはり、木こりはこの村にいる。
その樹の特性なのか、巨大な幹の一部は青白く燐光を放っていた。
青い光の粒子が幹から広場の空気に漂い出て、それは俺の右腕に付着する。
瞬間、腕の中に回転していた鈍い痛みの塊がすっと消失していく。
#佇__たたず__ #んでいると、光の粒子は俺の身体の痛みがこもった部分に次々と吸着してきて、ことごとくそれを消し去っていった。
腫れ上がり、熱を放っていた傷をなくして世界との境界が曖昧になっていくような心地がする。
この世界との接点を残しておきたくて、胸の切り傷だけは手のひらで覆って癒しを拒否した。
「・・・・・・#異世界人__イセカイビト__#か」
ぎょっとした。
いつの間にか、かたわらに老人が立っていてこちらを見上げていた。
往年の日本映画の銀幕スターを連想させるような大きな瞳をした老人だった。
手を伸ばせば急所に触れられるような距離に何の気配も無く侵入されている。話しかけられるまで気付く事も出来ずに。
一瞬、亡霊かと思ったが、今となってはハッキリと熱源を感じる。
ただ者ではない。ただそれだけは直感した。
「・・・・・・この、世界樹を切り倒した木こりを。天下無双の木こりを知らないか?」
老人は、大きな瞳を見張って、次の瞬間、ほがらかに笑った。
「・・・・・・この樹を伐った木こりなら知っておるが」
「本当か!」
「・・・・・・」
「世界最強の男を知っているのか!?」
老人は、ホホホと笑うと首を傾げた。
「はて、人違いかの。この樹を伐った木こりは知っておるが・・・・・・」
「あ、ああ?」
「あの男は、この村で一番弱っちいヤツじゃからな」
老人の言葉の意味がよく呑み込めない。
さんざん、混乱したあと、ようやく俺は叫んだ。
「なぁ、にぃいいいいい!?」
途方もない大口を叩きやがって・・・・・・ギョロ目ジジイ!
そんな憤懣が心に沸き上がってくるのも至極真っ当な事だったろう。
あからさまに猛烈な、超絶強者のオーラを放っていた木こりと違って、この老人にはまるで威圧感は無い。
得体の知れなさ、どことない不気味さはあるものの、そんなものは世界中の不審者たちが普遍的に装備しているものだろう。
それを、あの木こりが弱っちい?この村で一番?
大言壮語にも程がある。ひいてもそれは、木こりに負かされた俺自身への侮辱でもあるのだ。
「・・・・・・ほお?ならば、この村で一番強い男とやらを出してもらおうじゃないか」
老人はきょとんとした後、目を笑みの形に溶かして自らを指さした。
「そら、わしじゃろ?」
久しぶりに怒りが沸騰するのを感じた。頭蓋骨の中が白熱したような感覚で、もともと乏しい儒教精神が完全に蒸発した。
骨をまっさらに洗い出して、賽の河原に座りこむ童亡者の組み立て玩具にしてくれようか。
獰猛な観念がVRより鮮やかに脳裏に浮かび上がる。
「・・・・・・手合わせ願おうか、ご老人」
「・・・・・・いいけど」
その#刹那__せつな__#、数百メートルもある巨人のシルエットが老人の背後の路面に映った、そんな気がした。
「遺書は書いたのかな?お若いの」
気配はすぐに消え、老人の身体からはやはり何のオーラも感じなかった。
□□
そうして気がつくと、俺は棺桶の蓋の裏を眺めていた。
全身全霊で棺の蓋を吹っ飛ばすと、俺は埋葬される寸前の湿った土の中。
俺は半ベソをかきながら墓穴から飛び出し、墓石が並ぶ森の中の墓地を抜けて、林道を走った。
「どうなってるんだ!この世界は!」
老人の小指でこぴんで粉砕された額は火山のような熱を持っている。
それでも俺は、老人のいるあの村に走らずにはいられない。圧倒的強者しか住まないあの村に。
早朝とは様相がうって変わった村があった。
呼吸し、筋肉繊維のように蠢き、汗をかく活気に満ちた村の姿だった。
なにか村全体で高熱を必要とする製品を作っているようで、家屋と隣接してる工房の煙突から激しく蒸気が吹き上がっている。
金属生命体のように筋肉質の身体を光らせた汗まみれの男たち。
「あはー!お前もジイサンにやられたのか?」
泥沼で着衣水泳したみたいな俺の姿を見て男たちは笑った。
「村の若いのは1度はお前と同じ目に遭ってるのよ」
俺の額の真っ赤な跡を指差して。
「遺書は書いたのか?と最初にきて」
「そうそう。それで墓場送り。全員、仮死状態で棺桶で目覚める」
「まぁ、成人の儀式みたいなもんだ」
老人にぶち倒されて棺桶に納められ、墓地に運ばれていく俺を見て、男たちは勝手にシンパシーを感じていたようだ。
「・・・・・・あの老人の居場所を知っているか?」
男たちは顔をしかめて顔を見合わせた。
「・・・・・・いいけど、次やったら本気で殺されるぜ。ジイサン2回目挑んできた男には手加減しねぇから」
□□
老人の後ろ姿を見て、自分の目の節穴さを痛感していた。
あれは、ビックバンが生じる直前の虚空のようなものだ。
エネルギーが雨粒一滴ぶんも漏らさず体内に圧縮されている。だらしなく膨大なエネルギーを垂れ流していた木こりは、この老人に比べれば初心者なのだ。
老人の家の庭に土下座する俺。
「どうか、弟子にしてください」
「弟子入り?」
老人は、めんどくさそうに笑った。
「そんなら、#雲丹__うに__#とってこい」
思わず顔をあげた。
「・・・・・・うに?」
「うん、ワシ、好物なんじゃ」
「ウニ?」
「雲丹、知らんのか?」
「・・・・・・UNI?」
「海にいるトゲトゲ~っとした黒いやつ」
いや、知ってるけども。
「弟子入りしたいんじゃろ?」
そうして俺は、老人の家の庭にあった籠を担いで異世界の海にくるはめになった。
寒気がするような不気味な海が目の前に広がっている。
色の無い、モノクロの海。
比喩ではなく、そのままの意味でのモノクロの海だった。
白黒映画の画面に出てくる灰色の海。あれが目の前に実在の海としてあるのだ。
ここに、入るのか?
背筋を這いのぼる生理的な嫌悪感。
墨汁で出来た海があるとして、そこに身体を浸けていくのだって気持ちが悪いだろうが、この海の得体の知れなさは墨汁どころの騒ぎではない。
雲丹がいそうな磯を見つけて覚悟を決めた。
不気味な色の無い海は、性能の悪い古いスピーカーを通したようなくぐもった音で轟々と鳴っている。
パンツ一枚の姿で、海に飛び込んだ。頭の中ではファミコンの魔界村のBGMが流れ出していた。パンツ一丁で魔界の風に晒される男の気持ちが初めて共感できる。
視界を覆う灰色の泡。灰色の海水。
視界が落ち着くと、奇妙な事に気付いた。
目の前を通過した小型の魚が虹色の輝きを放っている。
辺りを見回すと、海の中を泳ぐ魚たちはどれも異様にカラフルな極彩色に染まっていた。
まるで、海の中の色を、この魚たちがすべて食べて体内に取り込んでしまったかのようだ。
思わず息を呑む。
沖の方向、急激に深度があがる深みに、イルミネーションを全身に貼り付けた巨大な魚影があった。
まるでラスベガスのカジノが建物ごと深海を回遊しているかのよう。
魚影は鯨の形をしていた。
海表にせりだしている大きな磯は、海の内部では#抉__えぐ__#れてちょうど巨大な竜の口のような景観を生み出している。
竜の口の中にあたる、洞窟然とした暗がりの底に、大量の雲丹が転がっているのが見えた。
□□
微妙に形と色の違う二種類の雲丹で一杯になった籠。
最後の雲丹を籠に投げ込むと、疲労の重みが加わった身体を岩場に上げた。
ボクサーパンツが、引き上げられた難破船のように潮水をだばだば垂らす。
しばし、磯の歪な形に尻をゆだねながら海の表情を眺める。
千変万化する波の面。この#白浪__しらなみ__#のひとつひとつがパンチや蹴りだとしたら、俺はどれだけの間、その攻撃を防ぎ切れるだろう?と、つい海を擬人化して想像した。
脳内リングで、対戦相手『モノクロ海原マン』にコテンパンにKOされたところで身体を起こした。
籠を担いで、雲丹の#棘__とげ__#に背中を刺されながら帰ろうとしたときだった。
「・・・・・・待て」
背後に、異様な人影が佇んでいた。
海から上がってきたばかりなのか、全身から潮水を垂らした男のシルエット。
だが、男はモノクロの海を背景にして、紫色の輝きを放っている。
異様なのは、その皮膚だった。
体表に無数の#棘__とげ__#を生やしている。雲丹を人間サイズに拡大したような獰猛な棘《とげ》。
ホラー映画で、人間と#蠅__ハエ__#が融合してしまって人間の特徴と蠅の特徴の両方を併せ持った生物が生まれるという不気味な題材の作品があった。
この男は、まるでそれの#雲丹__うに__#版。
人間的な特徴が色濃い男の顔面は、憤怒の表情に染まっている。
「・・・・・・仲間、喰う、許さない」
雲丹がカタコトで喋っている。
なにか、だんだんと紫の色味が増していくような気がする。それと比例して雲丹男の存在感が圧力を増していく。
あの、じいさん。知っててけしかけやがったな?
冷や汗が背中を伝い、身震いが走るのを止められなかった。
□□
この世界に来て、まだ数日。
それでも、俺の戦闘力は飛躍的に向上していた。
今まで、想像も出来なかった超人、達人の動作を間近に見て、または直接この身に受けて、俺の肉体は加速度的に進化した。
それでも、この世界の生き物は手に負えないほど強力で獰猛だった。
雲丹男の棘で全身を切り裂かれ、腕をへし折られ、致命傷を負わされる瞬間と俺の肉体が学習を終えるのとがほぼ同時だった。
ほんの0コンマ何秒、俺の成長速度が上回った。
雲丹男の神速の動作が、その瞬間からスローモーションに変わる。
人間の頭蓋骨のあたる部分の上半分をもぎ取られ、貝類のへばりついた磯の上に倒れたのは雲丹男の方だった。
人間の脳にあたる頭骨の内部から、どろりとオレンジ色の雲丹の身が大量にこぼれ落ちている。
#掌底__しょうてい__ #で貫通した胸部からも、同様のオレンジ色のものがこぼれ出していた。
もう、寿司屋で雲丹を頼む気には一生なれないかも知れない。
□□
庭で小椅子に腰掛け、枝で落ち葉をつつく老人の前に雲丹男を投げつけた。
籠の中身は海に投げ捨ててきた。
老人は、顔をしかめて不平の声をあげる。
「えぇ~人型~?」
「こころゆくまで堪能してください。師匠!」
そうして俺は、弟子入り試験をパスしたのだった。
□□
修行と言えるのか?これは。
何度もそう思った。
トレーニングというより、老人の無茶ブリに応える。そんな日々。
『この世界の名だたる遺跡、施設にほんのちょっぴりづつ改変を加えてこい』
そう命じられ、偉人の顔の形をした岩石群を太陽の塔みたいな団子鼻してやったり、歌舞伎風の寄り目にしてやったり。(逆に手塚治虫の岩石に関しては日本人がフランス人の扮装をするときの付け鼻風の鷲鼻にした)
この世界のメインフレームを構築している偉大な作家たちが描いた、アニメの原画やイラスト(1枚1枚が数百メートルもある)が吊るされ並べられているアニマの峡谷に行って、二次創作の同人誌のイラストと差し替えたり。
これは、世間ではただのイタズラというのではないか?と疑念にもかられた。
もちろん、それだけ大規模なイタズラをする過程では多くの戦闘に巻き込まれた。
そのなかには、テレビ画面で何度もお目にかかったような著名な虚構世界の格闘家が何人もいた。
その死闘をくぐり抜ける事こそ何よりの修行だったのかも知れない。
修行は第二段階に入った。
老人について入っていった山の中の洞窟。
その中は、日本の繁華街にそっくりな街並みが広がっていた。だが、似てはいても、それは現実の日本とは違う。初代プレイステーションくらいのグラフィックで再現されたポリゴンの新宿歌舞伎町だった。
ゲームのグラフィック世界。どこか見覚えがあると思ったら、YouTubeのゲーム攻略動画で見た事があるのだと気付く。
洞窟の終点が、このポリゴン歌舞伎町の風俗案内所の入口に通じていた。
老人は、風俗案内所の#暖簾__のれん__#をくぐりながら。
「今からここを通る、赤い服の男に喧嘩を吹っ掛けろ。まず勝てんじゃろうが、そいつが通りがかるたびに何度でも戦いを挑め」
そう言い残して洞窟の中に消えていく。
ポリゴンの通行人がかたわらを通り過ぎていくなか、目の粗いCGの新宿で俺は赤い服の男を待った。
□□
明らかに、作り込み方が一人だけ違った。
矢吹ジョー風の前髪が風に揺らめく様まで再現している。プレイステーション程度のグラフィックの中で、その姿は奇妙なくらい際立っている。
真っ赤な学ランを着た大男。古風な不良の出で立ち。今の日本ではお目にかかれないような昭和のヤンキーだった。
周りの通行人には微弱にしか感じられなかったエネルギーが、その男の体内には小宇宙のようなスケールで凝集している。
作り手の念のこもり方が圧倒的に違う。
この世界の、虚構戦士の強さは、作り手やその作品を愛するファンの思い入れの強さに比例する。最近、悟った法則だ。
国民的アニメの主役クラスになると、この世界の物理法則や摂理そのものがそのキャラクターに加担する。
まるで、人気プロレスラーを負けさせまいとするプロレスの運営みたいな感じで、世界そのものがそのキャラクターに肩入れするのだ。
俺のような、現実世界から紛れ込んだオリジナルキャラクターは、世界そのものにも立ち向かう必要がある。
「おい!待てや!」
この世界のモブキャラ、雑魚キャラの声音を真似て怒鳴った。
ごくごく慣れた様子で振り返る主人公だが、俺の出で立ちを見て、ギョッとした表情になった。
非常にやり込んでるアクションゲームやロールプレイングゲームに突然、見た事も無いキャラクターが出現したらある種の世界崩壊感覚を覚えて胸がとてつもなくザワつくだろ?
数十年、そのゲームばかりやってる人間にそれが起こったとしたらショックはひときわ大きい。
本当にこいつは敵キャラか?バグなのか?と戸惑った表情の主人公。
「俺は・・・・・・ダウンロードコンテンツだ!」
そう俺が高らかに宣言すると、主人公は一瞬、納得したがまた首をひねった。
ダウンロードコンテンツとかいってゲームの欠損パーツを後から売りつける今のゲームキャラではないから仕方ない。
「隠しボスだな?」
主人公の顔には喜色が溢れた。
クリア後の、戦うべき敵が存在しない世界を、この主人公は何十年もさ迷い続けていたのだ。
そこに、隠れボスの出現。ようやく男は新たなライバルを見出だしたのだ。
俺たちのように、ゲームをクリアしたからといってその世界を放り出し、リアルの世界に舞い戻る事も出来ない。
不意に、この主人公への激しいシンパシーが胸に湧き起こった。
□□
「おい」
老人は椅子の上からずっこけた姿勢のままぼやいた。
「赤い服の男を倒せと言ったが」
顔をパンパンに腫らせた俺の横にはポリゴンの不良少年がにかにか笑いながら立っている。
「誰がこっちに連れて来いというた!」
「いやぁ~なんか他人とは思えなくて。一緒に修行しちゃダメ?この子も弟子に!」
「もぉー、いや!」
□□
様々なグラフィックのフィールドを訪れた。
ファミコン世代の粗いドット絵から、スーパーファミコン級の幾分、綺麗になったアニメ柄。
実写と区別がつかないような最新のグラフィックの場所もあった。
この世界には、あちらこちらに入口が存在する。
それは大樹の幹の中ほどにあいた空洞にあったり、#土竜__もぐら__#のトンネルの奥深くにあったり、神社の賽銭箱に頭から飛び込んだ先にあったりする。
各世界の主人公たちの実力は想像を絶していた。
作品世界という、ひとつの小宇宙。
作品世界の主人公たちというのはそのひとつひとつの世界の神のようなものだった。
俺は作品世界を横滑りに渡り歩き、神々と戦い続けた。
幾度も敗れ、地べたに這いつくばり、血反吐を吐きちらす。そのうちに俺は気付いた。
俺の肉体は、知らない間に血肉を喪い、別の何かに置き換わり始めていた。
これだけの激戦を繰り返し、生身の人間だったらすでに廃人になっていてもおかしくはない。その時点で気づくべきだったのかも知れない。
膨大な時間が流れた。
ただ、膨大な時間を費やしたという事だけに満足するような事も無い。濃密な修行の日々。
筋肉に蓄積された戦記。
もはや、それは筋肉繊維というよりも、戦いの歴史そのものを記憶した情報記憶媒体のようだった。
この世界という空間に残された戦いの歴史、記憶。それらすべてを取り込み、貯蔵していく装置。それが俺の肉体の本質なのかも知れない。
「・・・・・・天下一武闘大会に、お前もそろそろ出てみるか?」
ある日、修行のお題を伝える前に、師匠がそうつぶやいた。
果てしなく広い、この世界の全土から強力な格闘家たちが集ってくる。
5年に1度の天下一武闘大会に出場するために。
今まで数十回の大会で、出場を見送ってきた。それがどれだけの年月に換算されるのか、もうあまり覚えていない。
今までの俺には出場するスタートラインにすら立てていなかったという事だ。
東の都。古代中国風の質素な建物が多いこの世界観の中で、この都心部だけは並外れて近代的な街並みだった。
高層ビルと高層ビルの間の空間には立体映像が絶えず流れ、ミニバイクのような乗り物が空を飛び交うその光景は80年代のSF映画が描く未来都市のイメージに近かった。
長い年月、人里離れた深山幽谷に籠り、身体にこびりついた垢を落とすことも無く都市の谷底を徘徊する武道家たち。
何か、人間以外の仙人や妖怪の類いが一堂に会したような奇異な光景。
ここに、世界樹を伐り倒したあの木こりより弱い人間は一人もいない。
少々、場違いな幼い女の子がざらざらした舗装路面の上に精巧な人形を何体か置いて、オママゴト遊びをしていた。出場者の子供かも知れない。
程よい陽射しが当たっていた路面が、不意に濃密な影で上塗りされた。
太陽のキャンディーを舐めようと、伸ばされた巨大な舌が空を覆ったような急激な暗転の仕方だ。
「今年もおでましだ。空賊王の」
群衆のどこかから声が上がった。
「空賊王カイエル!」
空を見上げると、雲の衣をまとわりつけた巨大な城が見えた。天空に浮かぶ城。
宮○駿の天空の城ラピュ○を真っ先に連想してしまった。
かたわらの路面に座り込んでいた幼女が立ち上がったのはその瞬間だった。#苛__いら__#ついた様子で何事かつぶやいた彼女は空を仰ぐと、両手の人指し指を額のあたりで交差させた。
ウルトラマンのシリーズの誰かが、たしかこんなポーズで必殺技を出した気がする。
空が光った。10000本の稲妻で束を作ったような光り方だった。
周囲が、癌細胞におかされた内臓みたいに悲鳴を上げ、どよめいた。
「カイエルの城が・・・・・・」
燃え上がり、煙の尾を引きながら、天空の城が夕暮れの道を墜ちていく。
大勢の冷や汗で、人肌製の雨が作り出せたかも知れない。
巨大な城は太陽の下の地平線で双子のような夕陽の珠を作り出した。
この幼女、出場者だったのだ。
生唾を呑む。
自分でも、全体像を把握しきれないほどの巨大な実力を蓄えた今であってさえ、あの幼女に勝てるという確信は持てなかった。
皮膚に危機感を帯電させて、注意深く歩いた。見た目では実力は判断できない。
師匠を例にとるまでもなく、この世界では巨大な実力を持つ武道家ほど巧みに爪を隠す。
街の顔から塵を払う掃除婦のお婆さんさえ、過敏に警戒した。#箒__ほうき__#の先の不規則な動きに、ある流派の拳法の極意が隠されていないとは誰にも言い切れないのだ。
大通りに林立したテント群。即席の受付のひとつで登録を済ませた。行列のできる店のラーメン屋で注文をするときの方がよっぽど心理的障壁を感じるくらいで、あまりの呆気なさに肩の力が抜けてしまう。
数え切れない季節を修業を重ねて、ようやく出場を許可された雲の上の大会ではなかったのか。
もしかすると、あのジジイに騙されていたのかも知れない。
1回戦の会場は、都心部をやや離れた郊外にあった。出場者が多すぎるので、会場は数十箇所に及ぶようだ。
俺が振り分けられた会場だけでも千人近くの参加者がいた。
未舗装道路を歩いて来場してきた参加者の靴跡で、出場者待合い室の床は現代アートのキャンパスみたいに見えた。
外の、会場では人間の皮膚がキャンパスになって、拳の形や足の形のペインティングされていく。
森の樹以上に高いものが見当たらない郊外を吹きわたる風、茶色い道着に包まれた身体を撫でて過ぎ去る。
俺の前に立ったキャンパスは、ひときわ特大だった。
失禁したように、だらしなくオーラが垂れ流されている。壁画用に用意された白壁に似た肉体。
空を突き抜け、宇宙空間まで行き届いていたかも知れない。世界の果ての断崖が作り出す、海そのものが流れ落ちる滝のような雄大なオーラの流れ。
もし、この世界に来た直後の俺がこの男と対峙していたなら、神と対面したような心地を味わっていたかも知れない。
今、俺の中から湧き上がるもの──それは微苦笑。
巨体が、揺れた。
剃り上げられた、鏡のようなスキンヘッドの頭部が小刻みに震えているのが見えた。
巨大なオーラを垂れ流す壁画に似た肉体を持つ男。その体表面が、顔からはじまり、一面が恐怖に塗り固められていた。恐怖の単色画。
──未熟。
拳を合わせる前に力量を悟られるとは。
俺はまだまだ未熟だった。
□□
円形に闘技場を取り囲んでいた観客席の3割ほどが吹き飛んでいた。瓦礫すら残さずに。跡形もなしに。
俺が放ったアッパーカットの軌道にそって、数十メートル先までの空間にあった物体が削り取られて消えている。
数キロ先の森に着弾する壁画男の姿が闘技場の中型ビジョンに映し出された。
そのカメラワークの方に俺は驚いた。相当な達人がカメラを持っているに違いない。
危険なので観客席の方まで避難していた審判が舞台上にかけ上がって来て俺の名前をコールする。
その瞬間だった。
西の空の方でピカッと空が光る。
数秒の間の後、上空にきのこ雲がたち昇っていく。
空高くきのこ雲があがってしばらくしてから、暴風がこちらまで吹き起こった。
それは別会場がある方向。
想像を絶する強者が、そこにはいるようだ。
□□
4回戦と5回戦の間に設定された休養日だった。
師匠に誘われて夢顕山の奥地の沼に連れだって釣りに来ていた。
顔だけ女で、腹部までは魚で、下半身がまた人の女の形をしている、という不気味な生き物がやたらと釣れて、後ろで脚をじたばたさせている。
釣れた瞬間、リリースしようとしたのだが、なぜかしがみついて沼に帰ろうとしないのだ。
仕方ないので後ろに放り出すと、いつまでも脚をじたばたさせている。顔だけをこちらに向けて、うっとりした目で見てくるのが気色悪くて仕方がない。
師匠の方はと言うと、沼の水をたっぷり吸った泥まみれのスニーカーや真っ茶色に錆びた自転車などゴミばかり釣り上げている。
「若い方にばかりかかりおって。色キチガイな魚どもめ」
口を止めて、自分の身体の中から音を追い出すと、周囲の音が立体的に浮かび上がってくるのを感じられた。
釣り上げられた自転車の車体を伝い落ちる水滴の音。
周囲の木々の中で蠢く生き物たちの気配。
水面と風が触れ合っておこる微かな囁き。
「お前の他にも、もう一人、異世界人が紛れ込んでるみたいじゃ」
釣竿が風を切り、柔らかな着水音とともに小さな波紋が広がる。
「お前と違って、そいつには無邪気さがない。この世界を壊そうという意志さえ、感じられる」
鳥が、水面すれすれを切って飛び去る。
「以前は、偉大な作家だった。この世界の一部はまさしくあの人が作り出したものだ」
師匠の釣り上げた竿の先には、鉄人28号の玩具がかかっていた。師匠は舌打ちをして、それを背後に放り投げる。
「いざというときには、#封印__あれ__#、外す事を許すからね」
□□
都心部にほど近い試合会場は、スポーツの国際大会が開かれるような近代的スタジアムだった。
太陽を頬張ろうとする幼児を口腔内から見ているような形状の天井部分に、翼を広げたシルエットがへらへらと舞うのが見えた。
雄大な猛禽類がスタジアムの口腔内を飛んでいる。
超満員の客席の視線を一点に集めるのは、真紅の仮面をつけた道化師だった。
小柄で、どこか不格好な身体のフォルム。男物のスーツを着て、つけ髭をした若い女に似た、違和感のある体型。
準決勝まで勝ち上がってきた強者だ、と自分に言い聞かせるが、どこか胸の中で緩む感触があった。
客席にも笑いが散らばった。
事前に、この道化師が幻想殺しの異世界人だと事前に聞かされていなければ、俺も完全に油断しきっていたかも知れない。
首をかしげているのか、真紅の仮面が落ちかかっているのか、一瞬、分からなかった。
だが、そのどちらでもなかった。
・・・ごとん
鈍い音がして、道化師の頭が地面に転がった。
はっと気づくと、目の前から道化師の姿が消えていた。
客席にも違和感がある。超満員だったはずの客席に頭が禿げたように空席が目立つ。
美術館で鑑賞していた絵を、まばたきした瞬間、書き換えられたような違和感。
・・・・・・今、わたしの、願い事が・・・・・・
不意に、耳元で女の囁くような歌声が響いた。
俺は、ダンプカーに撥ね飛ばされたスーパーボールみたいに石の闘技場の上を飛びすさる。
背後に、道化師がいた。
女、の声だった。
何年経っても、妖女の口紅みたいに脳にこびりついて離れない悪夢。それに似た存在感で頭の中に忍び込んできたイメージがあった。
赤い仮面の道化師が、耳元で歌声を囁いてきた瞬間。
病室の窓から見える病院の中庭。三階の窓まで伝わってくる歌声。
中学生に見える制服姿の集団が、声を合わせて歌っている。合唱コンクールの優勝クラスが毎年、慰問にやってきては歌う、と知りもしない情報が中古のパソコンに残した誰かのデータのように頭に浮かんだ。
いま わたしの ねが い ごとがぁ
子供子供した、新緑の茎のような青臭い歌声。声の裏側に貼りついた、ねっとりわずらわしい過剰な自意識と、ナルシズム。
合唱コンクールの中学生独特のあの声が聴こえてくる。
しろ い つばさ つけて くださ い
腫れ上がった脳、異物に変異した内臓をはらわたいっぱいに抱えて、見下ろしている。
奇妙な笑みを浮かべ、#暗渠__あんきょ__#のような虚無を湛えた目を見開いて。
偉大な作家だった女が。
余命3ヶ月。
死の吐息が顔にかかるほど。
目前に迫った死を前に発狂した女。
生涯、創造の世界に身を捧げた女。虚構世界の拡大に、その精神の全てをかけて尽くした女。光り輝く女神だった女。
この道化師は、腐り神だ。
発狂し、この世界を崩れ行く自分の精神と肉体の道連れにしようと侵入してきたバグ、癌細胞。この女の本体である肉体は、今、病院のベッドで死の淵にある。
頭の中に侵入してきたイメージとリンクして、胸郭の内部に黒い瘴気が充満したような感覚がして、思わず#嘔吐__えず__#いた。
生肉を口一杯に頬張ったような、異様な#現実感__リアリティー__#がこびりついている。
病魔に侵された女の肌に、何時間も口づけしていたような皮膚感覚。確かに、実在するあの女の中に、俺は入っていた。
道化師が両手で口元をおさえ、げらげら笑った。
その瞬間、スタジアムの外壁の一部がひしゃげた。
グロテスクな、茶色の球体がスタジアムの一部を崩落させながら闘技場の方へ転がり込んでくる。
数千人規模の観客が崩落に巻き込まれ、耳を覆いたくなるような悲鳴、轟音が空間を濃密に満たす。
その球体は、折り重なった人体で形成された肉団子だった。
腐敗した体液を接地面にふき溢しながら回転していく。
よく見ると、肉団子を形成する人体の顔。腐敗した顔のひとつひとつが、高らかに爆笑していた。
肉団子は、崩落させた壁の向かいの壁を直撃して勢いあまって壁を転がり上がる。
巨大な肉団子が壁の中途までかけ上がったところで、向かい側も崩落した。
異様な爆笑。腐臭。阿鼻叫喚。
赤い仮面の道化が踊る。
素人劇団の、老婆のようにぎこちない踊り。
空が暗くなり、星々がデキモノみたいに浮かび上がる。
星のどれもが、一目で作り物と分かるようなビニールの光沢を帯びていた。
紫色に耀くオーロラが、チープな作り物の星空の上にかかりはじめる。
奇妙な音が地面を走り回ってゆく。
見ると、石の闘技場の路面を突き破って何かが生えてきていた。
赤黒いキノコ。どう見てもそれは人間のぺニスだ。ご親切に、そのどれもがコンドームをかぶっていて、それぞれがカラフルに彩られている。
月が、空で、充血したように腫れ上がっていく。見てるそのそばから膨れ上がっている。
見ると、それは月などではない。
それは、真っ赤に充血した女性器だった。
天体サイズの女性器が、空に浮かんで、さらにその裂け目を広げていく。
空と大地とその間にあるものを自らの精神世界の色に改変する狂える神。
目の前にいる存在の巨大さに、皮膚が粟立ってきた。
道化が、猿の玩具みたいに乱暴に手を打ち鳴らす。
そのたびに、高さ2メートルくらいの空間に、大人の男くらいのサイズのシャボン玉が現れた。
空間に浮かぶ3つのシャボン玉はみるみるうちに濁っていく。
濁るシャボン玉の中に、てらてら光る内臓が詰まっているのが見えた。白い骨や赤黒い内臓がぐちゃぐちゃに混ざり合わされた肉のヘドロ。それがシャボン玉の内部で増殖している。
シャボン玉の子宮から生まれた。
紫色の皮膚をして肩や膝や下腹部、額などから巨大な角を生やした鬼。
シャボン玉をぱちんと割って、大樹のような足で地面を踏んだ。
後ろではピンク色の皮膚をした鬼と、光沢のあるエメラルドグリーンの鬼が生まれ落ちた。それぞれ、奇怪な角の生え方をしている。割れた尻肉の片割れから突き出していたり、頬肉から突き出していたり。
エメラルドグリーンの鬼には乳房があり、股間に何もぶら下げていなかった。
理論上、#創作者__アニマセカイノカミ__#は、天下無双の虚構戦士を無尽蔵に産み出せる。
想像力の及ぶ限りの、#最強__チート__#を産み出す事が出来る。
紫色の鬼が放った拳は、5つの宇宙を貫通して時空連続体にヒビをいれ、四次元空間に繋がる穴を中野ブロードウェイの地下三階に出現させるだけの威力があった。
俺の肉体は24億個のソニックブームを発生させながら空に舞い上がり、虚構宇宙を突き抜けてアニマ世界の天井にぶつかった。
アニマ世界の天井はオモチャ屋のショウウインドウ。
宇宙の最後のときに出現する終末ブラックホールよりも巨大な、白人の子供の青い目がショウウインドウの向こう側に見えた。
天井にぶつかった勢いで、地上の闘技場に舞い落ちると、今度はピンク色の鬼の飛び膝蹴りが待っていた。
その衝撃はアニマ世界の中だけでは収まり切らずに、#神々__クリエーター__#の頭脳にまで逆流し、6人の#世界的作家__カミガミ__#の中から画期的な着想を破壊してしまう。その中にはドラゴンクエスト最新作のアイデアや、新海誠の新作アニメの着想なども含まれていた。
再び、へらんへらんと精薄児童の#涎__ヨダレ__#みたく闘技場のある地上に舞い落ちた俺。
仕上げが待ち構えていた。
エメラルドグリーンの鬼。下腹部と乳房の真ん中から角を生やした何かと不便そうな女鬼がヒップアタックをかましてきた。
ハートマークが2兆個も空間に飛び散る。大小様々なハートが。
アニマ世界を駆け巡ったあまりの衝撃。
その余波で、波平の最後の毛が抜けた。
闘技場の地面にうつ伏せになって痙攣する俺を、赤い仮面の道化がその辺からもぎ取ったペニスでつつく。
夏休みの間、炎天下で放置され続けたガンダム試作2号機のプラモデルみたいな不気味な軋み音が自分の中で鳴っている。
血なのか、溶けた塗料なのか分からないものが頬を伝い行く。
俺が、起き上がると赤い仮面の道化は飛び跳ね回って歓喜した。
すでに、師匠が俺の肉体に施した封印が解けかけている。この美しいアニマ世界を、むやみやたらと壊さないようにと師匠がかけた封印だ。
光り輝く闘気で練り上げられた、見えない拘束具を、俺は片手で引き破った。
超高密度の光絶縁体となっていた拘束衣が剥げ落ちた瞬間、俺の体表組織から情報が溢れ出した。
戦いの歴史を暗号化した情報コードは、もはや俺の体組織に収納しきれていない。
俺の体から溢れ出した高密度の情報気体は、物質化して体表を覆い始める。
人類の戦いの歴史が素材になった、鎧でありハードディスク。幾兆パターンの戦闘行動を学習した人工知能でもあった。
全身を覆い尽くした鎧の事など無頓着に、紫色の鬼が拳を放った。
拳に、大小無数の角が生えて、天然のメリケンサックになっているのが見える。
あれが腹部にめり込めば、変幻自在に角の形状が変化し、身体を内側からかき混ぜてしまうのだろう。
異形の拳が、俺の顔面に叩きつられる直前に、削り取られて減った。
俺の方へ進んだ分だけ、腕も削り取られて消失していく。
小説的な文体の文字と、コンピューター言語のような記号が、鬼の腕からほつれた糸のように繋がって宙に舞っている。
分解された、創造繊維。作家が、構築する以前の、偶像の断片。
たとえ、この世界で想像し得る限りの最強と規定され、天下無双の存在としてデザインされたキャラクターでも、作家が構築する以前の断片にまで分解されてしまえば意味が無い。
鬼が叫んだ。太陽を飲み干す喉で。
超新星爆発を握り潰せるはずの腕が消失した事に、混乱し、叫んだ。
俺が殴りつけるもの、全てが作家の創造以前の断片に還元された。
鬼の腹部、頭部、右脚と、打撃を加えた部位が文字とコンピューター言語に変化して空中に消える。
絵に書いたように青ざめ、硬直する鬼2体。
毛深い背を向けて、鬼たちが脱兎の如く逃げ出そうとした次の瞬間。
道化が鬼たちの頭上を上下逆さまの姿で横切った。
鬼たちは電撃を受けたように痙攣し、停止する。
と、その姿にモザイクがかかった。
モザイクの向こう側で、鬼の骨格がゴキゴキと不気味な音をたて、その姿が変容していく。
それは、モザイク越しでも卑猥だと分かる怪物体だった。
「いっちゃえ、18禁コーナーの向こう側へ~」
涼やかな、若い女の声がした。道化の仮面の中からだった。
モザイクがより一層濃くなった怪物体は、男女の淫猥なあえぎ声をあげながら、バウンドして、観客席の方に飛び込んでいく。
道化が、矢継ぎ早に産み出す肉のシャボン玉をことごとく潰した。
コミカルな仕草で慌てて見せる道化。
飛び上がって、ヤツが宙に何かを描くと、頭部だけで20メートルはあろうかという巨龍が空間の向こう側から顔を現したが、それもワンパンで粉砕した。
空間に、粉塵のように舞う文字とコンピューター言語。
「もう降参しろ。お前に勝ち目はない」
道化らしいコミカルな仕草が消えて、ヤツの態度は素に戻った。
ヤツが何か挙動を起こそうとしたので、俺は腕を振るった。振るった軌道の形のエネルギー波が道化のかたわらを過って背後のスタジアム施設を消し飛ばす。
紅い仮面が割れた。
地面に砕け落ちる。
みずみずしく、鮮烈な美少女の顔が現れて、胸に刺さった。若々しく、透き通った肌。男の胸を瞬時に支配するような強烈な美貌。
作家の、若き日の姿なのかも知れない。
女が歯を剥き出して嗤った。常軌を逸した笑い方で、歯茎の肉がピンク色に丸出し。異様に綺麗な顔をしてるだけ悲惨さが際立つ。ネットで不意に若い女の性器が無修正で晒されてる画像と出くわしたときの痛々しい気持ちに似ている。
歯が、カラフルに七色だった。
一本一本が、宝石だった。
女の口元に意識を吸い寄せられて、自失していたのはほんの一瞬。
だが、その一瞬で、俺は女の中に取り込まれた。
ふっと意識が浮上した次の瞬間には、俺は暗闇の中にいる。
真夏の太陽に熱し続けられた肥溜めの中に全身が浸かっているような感覚がした。
顔も、足指の間も、全てが温かくねばついた何かに浸かっている。
#鯨__くじら__ #の心臓を枕にして寝ているような衝撃が液体に満たされた空間を走り抜けた。
俺は、身体を折り曲げ、縮こまった姿勢のまま驚愕に悲鳴を洩らした。
身体は、これだけの驚愕に震えているのにまともに動こうとしない。
空間を揺動させる爆発に似た音は、規則正しく定期的にやって来る。
そのたびに俺は恐怖に身を震わせ、いつまでも終わりがない規則的な衝撃に打ちのめされ、やがてむせび泣いた。
#臍__へそ__ #のあたりに#痼__しこり__#のような違和感を感じる。
まるで。腹から。木の根っこが生えたかのような。
違和感を取り除きたくて、必死で身を#捩__よじ__#ると腹の深奥から肛門まで凄まじい激痛が走り抜ける。
痛みが去るまで、何時間もかかった。
意識すると、脳裏で赤く発光しているように感じられる猛烈な痛みが腹の深奥から抜けるまで、足先まで縮めてじっと堪え忍ぶ。
生命の危険がある、そんなレベルの痛みだった。
その間も、定期的にあの衝撃はやってくる。
痛みに堪えながら沈思黙考する中で、俺は気づいてしまっていた。
自分が、どんな状態に置かれているのかを。
俺は、中年男の意識のまま、女の母胎の中にいるのだ!
自分の形をした天国が揺らめいた。
身体を包み込んでいた温かい液体が、ある方向に動き始める。
身体が、ずるり、と動いた。
夜の海に、沈みこんでいくときの得体の知れなさ。底の無い不安感に魂を掴まれた。
自分の形をした、ぴたりと落ち着く天国に穴が開き、地獄へ直通する穴が空いた。
奈落へ、奈落へ、奈落へ。
冷たい世界に落ちる。
どれだけの時間が経ったろう。
落ち続けたまま、白骨化するほどの時間が過ぎた気がする。
光が。
俺の脳を貫いた。
目を焼き、脳を貫き、身体の中で燃え上がる光。
#哭__な__ #いた。
#哭__な__ #いた。
全身を喉に変えて。
原子爆弾に変身して、外界のものをすべて消し去ってやりたい。
白い光の中に、顔が見えた。
世界に蓋をする巨大な顔。
氷の海に投げ込まれた心地がする。
慈愛に満ちた表情で、俺の世界に蓋をする顔。
美しい母の顔。
道化の女の顔だった。
俺は、絶叫した。
木の根のように自分の臍から生えた部分から何か黒いものが流れ込んでくる。
同じ血、同じ細胞。女が自分の中にいる。俺も女の中にいる。
絶望的な実感と共に景色が溶けた。
□□
女と、繋がっていた。
俺の腹を貫通した六角形の物体が、2メートルほど先で女の腹も貫いている。
純白の物体を、血液が伝い、ある地点から混じり合ってどちらの血なのか判然としなくなっていた。
高密度の情報体。腹に食い込む柱を両手で掴んで、創造の癒着をほどいていってもなかなか拡散しない。
目の前で女の美貌が、愉悦に震えていた。
血液が伝い、混じる事に激しい嫌悪感を覚える。身体の中に女が混じりこんでくる。
女と、俺の身体を串刺しにしている構造体が細い肩越しに見えた。六角形の立方体。
数学者の頭の中から出てきたような、純粋な構造体。宙に浮いたまま、赤く発光している。
ようやく、手の中で創造の癒着がほどけた。
俺と女の身体を繋いでいた構造体は六角形の形態のまま宙を舞う。真っ赤に輝いているのは俺と女の血を潤沢に吸い上げてその身に充填させたからだろう。
激しく衰弱していた。何ヵ月も食事をせずに砂漠を踏破した後のような。身体の中が廃墟になったような。
心臓に、打撃を感じた。
石の床に倒れ込んだ女が、枯れ果てた植物に似た茶色の物体になっていた。
#木乃伊__ミイラ__ #。
鮮烈な美貌と、朽ち果てたその姿のあまりの落差に心臓の一部を切り抜かれたような激しい痛みを感じた。
痛みだけが、胸の中にあるような。
鼓動の音。こちらの血液まで震え上がるような凄まじい鼓動だった。
六角形の立方体。激しく赤く発光しながら、鼓動の音をたてている。
不意に、膨張し、破裂した。立方体の形に充満していた透明な液体が飛散し、俺の体も覆った。
生臭い、立方体の無機的な印象とはほど遠い獣臭い匂いが鼻腔を突き抜ける。
匂いが、なぜか過去の女たちの記憶に結びついて脳裏にこれまでのセックスに関する記憶が強く喚起されていく。
破裂した立方体の中心に何かがいた。
男に対して、強烈な支配力を発揮する若い女の肌が残酷なくらい明瞭な陽射しのなかで剥き出しになっている。
全裸の、若い女。透明な粘液に全身を濡らして佇む。
その女を、一瞥した時点で激しい吐き気を催した。
その凛とした眼差し。端整な顔立ちはあの女の面影が強いが、その中にグロテスクなものが入り込んでいる。
俺に似た特徴。毎日、顔を洗うときに鏡に映る顔に、どことなく似た面構え。
吐き気が止まらない。
こんな、過激な強姦があるか?その場で。その場で#遺伝子__DNA__#を盗みとるなんてレイプが。
女の裸足の足が粘液を叩く音がした瞬間。滑らかな濡れた肌が目の前にあった。
掌底。
超高密度創造体がたったの一撃で貫通され、背中から鎧の破片が飛んだ。
憎たらしく、唇の端を上げて笑う女。
俺は、自分を恥じた。
こんな・・・・・・可愛いげのない勝ち誇った表情で、今まで人を叩きのめしてきたのか、俺は。
反撃。ジャブとストレートの中間のようなノーモーションの剛拳を突き出す。
まるで、羽毛を撲殺しようと力みかえってる巨人の気分になった。
空気の流れにそって、すべての打撃を外された。滑らかな動作。マイケル・ジャクソンを思い出させるような流麗な挙動。
水の流れのよどみなき回避動作の中から、チート級の破壊的な一撃を叩き込んでくる。
ビジュアルイメージを無視し過ぎたパワーだ。細い、庇護欲をかきたてる女の身体から、大陸をその身に支えるアトラスの#膂力__りょりょく__#。
殴られているというより、魂に直接、消しゴムを押し当てられて存在の中心をごしごし薄められているような気がした。
殴られるたびに、存在がかき消えそうになる。
遺伝、してるのか?俺が体得した奥義が?
遺伝・・・・・・だと?ふざけるな!
わき腹をおさえ、ひきつった呼気を吐きながら、構えを続けるのがやっとだった。
女は、スタミナ切れをするどころか先ほどよりも遥かに活き活きとステップを踏んでいる。むしろ、#一撃目__ファーストコンタクト__#よりも数段、成長している。
俺の間、構え、呼吸、すべて盗まれている。この短時間で。
何年も寝食を共にした愛弟子のように忠実に、技術を盗まれているのだ!
たった数分、交戦しただけでコピーしたニワカ武術が、数十年かけて研鑽を積んだ本物の技芸に敵うはずが・・・・・・な・・・・・・。
世界が、拳の形に歪んだ。
右に歪み、左に歪み、赤く染まる。
繰り出す、すべての攻撃が相手に上回られていた。
速力、スキル、センス。
才能という、無形にして絶対的な支配力が、空間に充満している。
何十年かけたとか、これだけ思い入れがあるとか、そんな精神論や、情などまるで通用しない。ただただ、圧倒的に発達した技術。
血を流しながら膝をついた。
#強__チート__ #。果てしなく#強__チート__#。
膝をついたまま#恍惚__こうこつ__#の人と化している俺の顔面を女の膝蹴りが捉えた。
初めて触れ合う新生児の娘に、飛び膝蹴りを入れられた父親は俺が人類初かも知れない。
唇をのばせばキス出来そうな青空と対面した。仰向けに倒れ、鼻血を噴き出しながら。
宇多田ヒカルの母親の気持ちが少し分かった。
鼻血の下水道のようになった鼻腔の奥と口の中。背骨に染み透る痛みで排水する気力も無い。
この世界に来てから、敗北の味には慣れ親しんだ、故郷の土の香りのように。
だが、格別だった。自分の面影を宿す者の影を舐める心地は。
裸足が石を包む冷ややかな音が鳴った。
頬が、手のひらに覆われる感触。
死を覚悟してから永遠のような数十秒が経ち、目を開けると、両手で俺の頬を挟んで不思議そうに首をかしげる女の姿があった。
女の、形の良い鼻が俺の頬に触れた。
知性のまるで感じられない荒い鼻息で顔中をまさぐられる。
顔中の匂いを嗅がれ、髪の中まで鼻を突っ込まれ、耳の後ろの匂いまで重点的にチェックされた。
女は、しきりに自分の腕の匂いや#腋__わき__#《わき》の匂いを確かめて困惑したような表情になる。
「・・・・・・オト・・・・・・サン?」
戦闘技術に比べて・・・・・・情緒の発達、おそっっっ。
急に、女の顔が真っ赤に紅潮したのでこちらが面食らった。
俺の顔を放り出して、剥き出しの裸体に腕を巻きつける。
一方、俺は後頭部を石の床に打ち付けて昇天しそうになっていた。プロボクサーのリング禍の原因の多くがダウンしたときにリングに頭を打ち付ける事だと言ふ。
向こうが激しい羞恥心を抱き始めると、こちらまで後ろめたくなるから不思議だ。
物凄い熱量を持ったモノが目の前にあるかのように、直視するのが難しくなる。
女は奇声をあげて周囲から銃弾でも浴びているように身体の表面を必死に隠す。
散々、異次元の戦闘を繰り返したおかげで闘技場の中は廃虚と化している。大会の運営が命がけで居残っているだけで、ほとんど観客は残っていない。
それでも、思春期の娘には耐え難い屈辱のようだ。
女が闘技場の壁の一角に人指し指を向けるとその一帯、数十メートルが吹き飛んだ。
(ど・・・・・・どどん波《ぱ》・・・・・・だと?)
娘は自分の胸を果実みたいに抱えながら走り出した。もはや、俺の事など完全に眼中に無い。
野生の雌鹿の軽やかさで、闘技場の外に駆け出す娘。
あまりの情けなさに、涙腺が緩むのを感じた。顔面の粘膜から熱いものが溢れ出すのを止められない。
仰向けに倒れたまま鼻血を垂れ流し、涙を溢れさせた中年男。自分の姿を外側からリアルに想像して、また泣けてくる。
嗚咽をこらえ、涙を拭いながら立ち上がると、信じ難いアナウンスが廃虚と化した闘技場に響き渡った。
「準決勝・・・・・・勝者・・・・・・!」
□□
天下一武闘大会、決勝戦。
準決勝であれだけの惨事が起きたというのに、東の都の中心にある巨大スタジアムは満員だった。
国中の#創造建築士__クリエーター__#を総動員して、たったの3日でスタジアムは新品同様に整備されている。
客席を埋めた無数の口が、笑みの形に変化したり怒りの形に変化したり、その気配を皮膚で感じる。それだけでもある種の耐久力が要求された。
いっそ、辞退しようかとどれだけ思ったか分からない。完全に叩きのめされた俺がどのツラ下げて決勝の舞台になど立てと言うのか?
そして、今、目の前に対峙しているのは。
「女の次は・・・・・・お子ちゃまかよ」
少林寺の、見習い小坊主といった身なりの子供が佇んでいた。
くすんだ拳法着、青々と剃りあげられたスキンヘッド。
#戯者__たわけ__ #!見た目で相手の実力を測ろうなどと!貴様、それでもワシの一番弟子か!?」
幼い声で一喝された。
「・・・・・・弟子?」
言われてみればどことなく面影がある。
「師匠!?」
腰に手を当て、胸を張る小坊主。
師匠の、孫といった雰囲気だった。たしかに面影があるがあの老人とこの子供の間にどうしても像が結ばない。
「な、何やってんすか?こんなとこで。てか本当に師匠?」
「・・・・・・バカもんが。よく気を見てみろ。見かけにとらわれるな」
いつもの師匠の口調だが、子供に言われるとムカムカしてくる。
精神を集中して、相手の体内を流れる血流を見つめるような感覚で注視した。
頭頂部から、細い糸のような気の流れが見えた。締め上げ、締め上げ、極限まで収縮させた頭頂部のチャクラから、それでも漏れでる気の流れ。
師匠の気の流れそのものだった。
「・・・・・・なんでそんなお姿にぃ?」
思わず、情けない声が洩れでた。
「これは、ワシの全盛期の肉体じゃ」
言われて、改めて足先から頭頂まで眺めてみたが、どう見ても青臭い小坊主にしか見えない。
「神童と呼ばれたワシは弱冠9歳で天下一武闘大会を優勝した。だが、ちょいと決勝で暴れすぎてな。アニマ世界の半分を消滅させてしまった。そこで五大創師たちが相談してな。強くなり過ぎたワシの肉体を黒極の#涅槃__ねはん__#凍土の中に封印する事になったんじゃ」
黒極。作家に放棄された作りかけの創作物や、倫理をあまりにも逸脱した創造物、この世界を一瞬で消滅させかねない危険すぎる創作体が漆黒の永久凍土の中に封印されているという最果ての場所。
その黒い氷の中で凍結した瞬間、時の流れが止まり永久に活動を停止した瞬間のまま保存されるという。
ゲームのバグや、チートコードで改変されたキャラクター、発狂した作家によって産み出された異形の創造物ばかりが封印されている土地なのだと思っていた。それか、作者に放棄され忘れ去られた未完の創作物たちの悲しい墓場。
まさか、あんな場所に肉体を封印される正当な創作物がいるとは。
「お前の戦いぶりを見てたら、血が騒いで仕方なくてのう。ワシは天下一武闘大会の永久シード権を持ってるもんじゃから。途中参加さしてもろうて、もう一人の決勝進出者にはご退場いただいた」
この大会が始まる直前に、師匠から#深層世界__ダークウェブ__#の存在を教えられた。
この世界は、あくまで表層にしか過ぎず、創造の歴史の中でも真新しい、新鮮な創作物が構成する世界に過ぎない。
#深層世界__ダークウェブ__ #には、人類最古の創作物たち、歴史が古く、それだけ人類全体のイマジネーションが集積された世界が広がっているという。
神話、昔ばなし、寓話、聖書の世界。古代の神々の#偶像__アニマ__#世界。
人間の思い入れの強さが、キャラクターの強さに比例するこの世界にあって、人類最古のキャラクターたちの強さは測り知れなかった。
イエズス・キリストや仏陀、大天使聖ミカエルやルシフェル、古代神や神話の英雄。
太古の昔から愛される人気キャラクターを全員、ぶっ飛ばしてやりたい。
表層世界最強と思われる男と対峙しながら、これからの冒険の事を思って胸のときめきが止まらなかった。
薄ら汚れた道着姿の小坊主が右拳を腰にあて、左手の指でおいでおいでと招いた。
「稽古をつけてやる。来い、新参者よ」
小坊主の道着の胸から腹に#斉天大聖__せいてんたいせい__#という文字が浮かび上がる。
首筋のあたりに、ぞわりと寒気が走った。
アチャー!という掛け声と共に、頭の中にゴダイゴのモンキーマジックが流れ出す。
セイテンタイセイ───西遊記の主人公、孫悟空の異名。
そういえば、師匠の顔はどことなく堺正章に似ている気がした。
□□
中野ブロードウェイの3階フロア。
高校の授業を抜け出して、ぶらぶらとショーケースの間を回遊する二人。学生服をだらしなく個性的に着こなしたカップル。
溢れかえる原色が、誰かの思い出の形に像を結ぶショーケース内。
女生徒の方が、ショーケース内を指さして笑う。
「なにこれ、こんなキャラいたっけ?どんだけーウケるんですけど」
「深夜アニメのキャラかなんかじゃね?にしても地味やな。眉毛太いし」
「どーでもいいけど。作品名とキャラ名くらい付けろし。あっ。こっち、ワンパンマンやん」
「あ、鬼滅の刃!」
人気キャラクターの間に混じった、謎の格闘家のフィギュア。数ヵ月前、世界中の格闘家に闇討ちをかけていた犯人の顔とそっくりだと気付く人間は一人もいない。
なぜかその後も謎のフィギュアはショーケースの中にときおり出現するようになり、『幻の格闘家フィギュアの怪』として、またひとつ中野ブロードウェイに都市伝説が増えたという。
中野ブロードウェイのご当地アイドルがそのフィギュアを見かけた直後にバラドルとしてブレイクしたりして、一時期、幸運のフィギュアと話題になったりもしたが、今ではショーケース内にその姿を探す人間もいなくなった。
□□
「行くのか、#深層世界__ダークウェブ__#へ」
旅立ちの日、師匠は#雲丹__うに__#を啜りながらぽつりとつぶやいた。肉体は老人期のものに戻っている。
「こことは、比べ物にならんぞ。あそこは」
師匠は若き日、#深層世界__ダークウェブ__#に乗り込んで菩薩に闘いを挑み、掌の上で4ヶ月も遭難させられたり、指の上で半年も登山をさせられたりした挙げ句に虚構世界と現実世界の境目にある次元亀裂の下敷きにされ、数百年もの間そのまま放置されたそうだ。
「原作通りの結果にされたわい」そう師匠はぼやいていた。
「#深層世界__ダークウェブ__#にいるらしいな、お前の娘は。探すのか?」
拳を鳴らし、師匠に振り向く。
「ええ。不肖の娘をぶっ飛ばしてやらなきゃいかんのです」
【了】
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