母を追いかけて

母がお嬢様育ちと知ったのは随分昔のことだ。昭和の、しかも戦前の時代の話だ。大きな屋敷に住んでおり下男や下女がいたと言うから裕福な家庭だったのだろう。イコール"お嬢様"と言う事にはならないだろうが、お金持ち=お嬢様、そう遠くない気はする。偏見である。
身の回りの世話や食事の支度など、下男や下女にしてもらっていたのだろう。テレビドラマのイメージでそんな暮らしをしていたのではないかと想像する。
母は25歳で父と結婚し公務員の妻となり、26歳で初めての子どもを産み、父の転勤で慣れ親しんだ土地を離れ北国に居を構えることとなった。

とかく厳しい母であった。
父は8人きょうだいの長男で、田舎の本家の後取り息子で、母はその嫁。私はその父と母の初めての子、そして本家にとっては初孫であった。この状況からして、母には何らかの使命感の様なものがあったに違いない、と私は思う。使命感と言うほど大袈裟ではないにしても、意気込み、気負い、気迫、こと育児に関しては芽生えていたと思う。ごく普通のサラリーマンの一般家庭、と言う認識は当時幼子であった私には勿論なかったが、今思い返すと、安価だがちょっとデザイン性のある小楽器やクラッシックのレコード全集、図鑑の類は揃えられていた。洋服は母が手作りしていたものもあれば、お出掛け用のワンピースやスカートなどは姉妹お揃いの物をデパートで購入したりしていた。デパート、いわゆる百貨店でのお買い物とは、自分の現況と比べれば眩しい限りである。そして、どの様な経緯からなのか記憶がないが習い事もさせられていた。以上の様な状況及び物的証拠から、母は自分にとって初めての子どもである私をきちんと育てようとしていたのではないかと推測されるのである。
ところが、母の意に反して(かどうかは不明だが)私はおっとりのんびり、ぼーっとしたところのある、なんだかはっきりしない子どもだったのである。父曰く、人一倍愛想はよかった、らしいのだが。言いたいことが言えない、はっきり返事をしない、意思表示の曖昧な子ども。はっきり言って期待外れ、育て甲斐のない子どもだったのではないかと、時を遡って申し訳なくなる。必然的に躾に力が入り、私に対して常にイライラ感情発動の母になっていったのではないかと、容易に推測される。いつも怒られて、よく叩かれた。母はとても怖い人だった。子ども時代の母の記憶はとにかく厳しくて怖い、これに尽きる。優しくされた思い出は全く浮かんでこない。不甲斐ないことに、私の子育ての実態がまさにそれに当てはまるので、私の偏見に過ぎないかもしれないが、何となく外れていない気がする。親子だから。母と娘だから。

高校を卒業し進学の為、家を出ることになる。そのままその土地で就職。
結婚し、子どもが生まれ、実家のある隣の県に住む事になった。

自分の子育てを振り返り思うのは、子どもが小さい頃の母親と子どもはあんなに濃密な時間を過ごしていたにも関わらず、悲しいかな子どもの方はほとんど覚えていない。1日の大半の時間と体力と、そしてお金も費やして全力疾走してきたのに、である。こんな理不尽なことがあるだろうか。いやいや、そこは母性、愛の成せる(為せる)わざ。

ここまでで限界、終了。

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