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181022_門脇邸という虚の存在

 大学院時代の恩師である門脇先生の自邸を見学させて頂きました。訪れた際の率直な感想をまとめるならば、門脇邸とは絶えず変化を持つ有機体のような存在で、それが生み出す現象的な光景は訪れる人を童心に返らせ、好奇心をくすぐり、感動すら与えるものでした。

 外壁は色や各部高さによって近隣と調和が保たれつつも各面の個別性が強く、全体としての共通項が見出し難いものでした。西面では部材の切れ目の見えない抽象的な表情を持っていたのに対して、北面、東面と外周を回るうちに徐々に具体性を増し、部材や階層の主張が強くなります。そのため視界に入る情報から掴みかけた建物のイメージは、視点が移るにつれて崩されていきました。
 内部ではそうした変化が一段と増え、複雑化していきます。通り土間の外部的な仕上げと天井面を走る骨組みは過去のプロジェクトを彷彿とさせるもので印象的でした。そこから階段を上るにつれて徐々に現わしの部材が増えていき、モノの取り合いが目を引くようになります。特に2階のリビングから3階の寝室に至るまで、構築と非構築が同居する見慣れない光景が続き、良い意味で掴みどころがない状態が生まれていました。そこで見られる小口現わしの床組みや非構造の柱、開口部の圧縮ブレースや切断されたポリカ天井など、既視感があるようで違和感を持つ部位の連なりは並べて言い表し難いものでした。

 このイメージのまとまらなさ、言語化の難しさは恐らく部位と記号とのズレから生じています。例えばリビングの階段は、切りっぱなし鉄板がならび、滑り止めはなく、桁は斜めにかかるといったもので日常的に認識している階段の記号から離れたものです。その結果隣り合ったモノや人との関係によって、踏板や飲み物を置くカウンター、単なる鉄板と角パイプの集まり等と幾重にも捉えることができるため、部位はその存在を動的に変化させます。また階段下ではただ宙に浮いているように見えたパイプが階段上では本棚へ固定された手摺としての見え(厳密には手摺が本棚を支えている)を持つように、ある視点間において真逆の構えを見せるような、観察者の動きによってもその認識は上書きされます。
 こうしたエレメントの動的な変化は住宅のそこかしこで同時多発的に起こっており、本来静的である建築(の部位)が時間や状況に応じて異なるものとして捉えられる光景はまるで映像の中に没入しているかのように現象的で感動を覚えるものでした。

 一般に動的な建築というと、脱構築派の建物に見られる形態的な連続性やアーキグラムの機械的な挙動を伴う作品のように建築の物理的な動きを想起させますが、門脇邸で起こっていたことはより概念的な虚としての動きだと言えます。モノとモノの関係から生まれる虚の動きは必然的に時間軸を内包しており、その主体が特定のものに縛られていないという意味で将来的に生まれ得る動きの多様性をも感じさせます。
 つまり今ある門脇邸という存在はある与条件に対して 門脇耕三が一時的に与えたエレメントの連なりに過ぎないであって、これからの長い時間の中で敷地周辺を通じて起きる人やモノ、エレメントによる関係の全てを門脇邸であると解釈することができるはずです。それは伊勢神宮が式年遷宮によって虚の存在として更新され続けるように、しかし非体系的な方法として、関係性という連なりのなかに建築を消し去るものでした。

 全体性をもたない設計は可能かという仮説から導き出された提案は、エレメントを物理的にも時間的にも開放する新しさに加えて空間体験としても面白く、またその思想を具現化させる力量に改めて感服しました。
 これから住まわれる中でどう変化するのか、あるいは周辺環境の変化によってどのような一面が見られるのか期待と感動に溢れた素晴らしいご自邸でした。

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