スウ・ドン剣法免許皆伝54嶺谷見る練効果大

打たせてみる練の所で話した、「嶺谷見る練」ミネタニミルレンという言葉を意識しだしてから、地稽古の中で相手のことが良く見えるようになった気がする。特に、谷を見るのが中心であるが、谷を制することが出来ると、嶺という場面はあまり現れてこない気がする。山の姿と照らし合わせて考えると分かりやすいと思う。自分の面部分は高い山の頂上いわゆる嶺、相手の右拳は低い所にある谷と考える。その谷を制したら登ってこれない感覚だ。谷とは、打とうの心を表す、打ちの起こりの始まる相手の右拳。谷を意識していると相手の起こりを抑える事が出来るのだ。何度も言おう、出来るのだ。そんな事ムツカシイと思っている人は、相手と争って打とうとしているからだ。「打とう」の心の中に「見よう」は入る余地がない。「打とう」を無くして「見よう」を意識していると、相手が打ってこようとするその竹刀を、払ったり押さえたり擦り上げたりして、相手竹刀の動きを制することが割りと簡単に出来るのだ。古流の先人に和卜(かぼく)という技がある。技というより、相手を制する方法と言った方がいいのかも知れないが。踏切の遮断機のように、出てこようとする相手の竹刀を横から押さえ込むとイメージすると分かりやすいと思う。それが発展して、擦り上げ、払いにつながっていく。その後は必ずしも打たなくてもいいのだ。まだ戦うのまだやるの、やめませんかムダな戦いは、と相手を諭す位の気持ち、一本取らなきゃ終わりませんね、では一本取らせて頂きます。ムダに命のやり取りをしたく無かった先人の知恵なのかも知れない。機先を制するとかの言葉にも似ているが、これは必ず攻撃につながる。和卜は和睦(わぼく)の精神を少し含むのだ。でも、現代スポーツ剣道に慣れ親しんだ僕らは、ついつい一本打ちたくなって手を出してしまう。昇段試験でも全く手を出さなければ合格しないと思ってしまう。またそれが現実だ。初太刀の一本に皆命をかけている。でも本当に命を懸ける場面では、ムダに戦わない方がいいのは当たり前だ。現実から少し脱線したようなので、話を戻そう。見学と観察という言葉がある。剣道にも、「見の眼」けんのめ「観の眼」かんのめという言葉がある。見学と観察は見る深さが違う。対する相手の見学をした方がいいのか観察をした方がいいのかは一目瞭然だ。だから先達は「観の眼」を推奨している。谷を見て、起こりを制して、後を打つ、一本取れたら無理をせず、起こりを制するだけでいい。そうすれば永遠に、嶺は現れない。相手が自分に対して何も出来なかった時、それは、「嶺谷見る練の効果だい!!」と大きな声を上げて言いたい。稽古しようよ!