スウ・ドン剣法免許皆伝59剣道八段審査はやり安い?

剣道八段審査は東大合格より難しいと言われている。1%の合格率と言われ、世界で一番厳しい受験だと言える。でも最近気付いたのだ。八段審査はやり安いのだと。簡単に合格すると言う意味ではないが、何故そう思ったのか。およそこの世の中のあらゆる試験という物は、どんな問題が出るか分からない。分からないからこそ問題集なる物があって、たくさんの問題を勉強している。ところが、七段審査も同じかも知れないが、特に八段審査は問題課題は分かっている。課題は一つしかない。相手は必ず面に打ってくる、初太刀の一本と思ってほとんど百%の人が面に打ってくる。面に打ってくるという問題が分かっている、それに対してどうしますかというのが課題だ。何が出るか何が来るか分からないより、分かっているのだから、やり安い、課題に取り組み安いという事だ。何故そう思うようになったのか。八段を目指す方々と稽古をすると、試合的になって、面に来るとは限らず、体を引いて躱したりと、どうするかどうなるかははっきり分からないのだ。打ちたかったり、打たれたくなかったりで、何をしてくるか、何もしてこないかも分からない。ところが、昇段審査になると、はっきりしている、必ず面に打ってくる、そう教わるからだ。そのはっきりした問題課題に対して、自分はどんな方法で課題解決を図るのかに特化して磨きさえすればいい。もちろん合格はそれだけでなく、基本の面打ち、姿勢、気位とか諸々あるのだろうが、六段まで合格してきた人々にそこは問わないでいいだろう。ところで、七段合格に関しての自分の話を少ししてみよう。職業人生の後半部に剣道ブランクがあったせいで、七段への気持ちも無くなっていたが、退職後出会った街道場で、好きな剣道を健康作りのために復活した。共に稽古する仲間の「七段受けろよ」の声に導かれてその気になって、二度目で合格出来た。その時に気付いた。高段の合格は、というか、全ての段に言えることかも知れないが、段合格は自分の喜びだけでなく、稽古仲間の喜びでもあると。そしてまた、七段合格の時は、面に囚われない心が持てたからだと実感している。明日が審査という前の晩、道場稽古に行くかどうか迷っていた、疲れて審査に響いてもなあと思いながらも、剣道ライクマンの心が道場へ足を向けさせた。行って良かった。行っていなければ多分合格はまだ先だったかも知れない。仲間が言った一言。「あの先生は小手で合格したんだよ」そうか小手でもいいのか、少しの安心と余裕が生まれた気がする。私は出頭の押さえ小手が得意だったのだ。本番は緊張する事なく立ち会えて、まさに一本目、見事な出頭の押さえ小手が姿勢良く決まった。その一本で確信した。これで合格したぞう、自分でも惚れ惚れする位のこの技で通さない審査員はいないだろうと。相手にも感謝である。二人目も崩れる事なく立ち会えた。面に囚われない心があったからだと思う。しかし、八段はほとんどの人が面に囚われる。私の心の中にもそれは少しある。面でも小手でも胴でもいいのだろうが、自分から打っていった面、小手、胴でなく、相手を引き出した後、相手が打ってきた後を仕留められるようにするのが、八段に求められている「技の心」である。ここがムツカシイ所である。皆、二分間の中で打てなければと、我慢が出来なくなって行ってしまうのだ。まるで奈落の底に飛び込むかのように。全く動かぬ銅像人形のように「サアドウゾウ、ウッテクダサイ」と立ち構えているが、相手がココゾとばかりに打ちに行った瞬間、電光石火目にも止まらぬ早業で相手の面を捉えているのが理想だ。相撲の立ち会い、待ったなし、手を着いてえ、八卦良い、残った!その時には相手はもう残っていないのだ。打たれて打ち拉がれて、相手の心は倒れている。嗚呼それが理想!?!?
打った打てたと喜んでいる場合じゃない崩れて防いだか、崩れず捨て身で体を動かせたか、ガチャガチャ剣先で攻めるも八段の位ではない。ブランクのせいで遠くて長い道だけど、昇れる壁が見えた時できればヒョイと乗り越えられる技術を身に付けておこう。願わくばその日まで身体が動く身でありたい。心はいつも燃えている。燃え尽きて身体は枯れるのだろうか。八段を受けられる年月まで枯れずにいたい。そして、恐れ多くもおこがましくも、不届き千万ながら、「八段一発合格」が、今の私の目標であり夢でもある。早送りの出来ない決められた年月を、今のこの歩みを止めず、壁の見えて来る日まで、八段の位の心を持って、地道に歩き続けよう。剣の理法の修錬は楽しいものだ。一緒に稽古しましょう!