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薪をくべる

休日。自前のテントや寝袋を持っている通称、「キャンパー」の友人に連れられてキャンプに行くことがたまにあるのだが、これが中々に楽しい。車を走らせ、昼ごろに郊外のキャンプ場に着くと、まずは缶ビールで乾杯。カップラーメンなどで、適当に腹ごしらえを済ませると、みんなでテントを貼り基地を完成させる。取り急ぎそこまで終えるとスローダウン。各々が自由にのんびり行動するようになる。周辺を散策したり、本を読んだり、眠ったり、椅子に座ってぼーっとしたり、それぞれが思い思いの時間を過ごす。キャンプは意外に個人プレイなのである。

日が暮れる前、夕食の準備に取り掛かると共に始まるのが焚き火だ。ぼくが1番キャンプで楽しみにしているものである。炭に火がつくと、薪をくべ、やがて炎となる。薪がある限り燃え続け、時間にして7時間とか8時間とかになるのだが、ぼくはキャンプのほとんどの間、焚き火の前にいる。焚き火を見るとなぜか心地よくなるのだ。ゆらゆらと揺れる炎は、やがて夕食終わりの友人を吸い寄せ、いつの間にかその中心を椅子で囲み、会話が生まれる。夜も更け、スマホやネットは介在しなくなる。

焚き火の前では人は本音で話しやすくなるということを耳にしたことがある。本音とはいったいどういうものなのだろうか?

本音なので、頻繁に発せられるものではないということになる。現に、社会に参加していると、それはたいがい各々の胸の中に閉まっておく必要がある。下手に主張すると面倒だし、その方が都合がいいからだ。だけど、日の目の見ない本音は、いつか萎んで、ついには消えてしまうものだと思う。

本音は他人には譲れない正義みたいなものだとする。自分がそれまでに経験したことや感情を頼りに形作られ、必ずしも皆に受け入れられるものではない。いや、むしろ受け入れてくれる人はごく一部に限られるのではないだろうか。

一度、そいつを出そうとすると、否定されたり、冷や水とも言える言葉を浴びせられたりして、本音という炎が消えかかったりすることがある。それでも、必死に踠き、自分で薪をくべ、灯し続けなければいけない。

だけど、生きていて、ごく稀に一緒に薪をくべてくれる人に出会うことがある。その人は自分の本音を肯定してくれて、消えないようにと手伝ってくれる。生きる上で、こんなに有難いことはない。そんな存在は自分の絶対的な味方であり、たとえ離れて暮らしていても、その人がいるから大丈夫と思うことができる。日々に心強さを与えてくれるのだ。本音は自分のものだが、独りで保つことは難しいんじゃないだろうか。

焚き火の終わりは何とも幻想的だ。燃やす薪がなくなると、炭だけが残る。ドクンドクンとまるで、心臓のように静かにただ確かにしぶとく燃え続ける。自分が信頼している人がくべた薪で燃えた火が簡単に消えるわけがない。

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