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映画鑑賞。違う意見に出会って。

ほぼ週1回、劇場で映画を見る。今年は本数少な目だと思っていたが、31週目にして32本見ているらしい。コロナ前は年間70本を超える時もあった。

見る映画は、劇場での予告を見て決めることが多い。あとは知人・友人たちから何気に漂ってくる「これいいよ」情報。ネット情報は鑑賞後に見ることは多いが、事前にチェックすることはほとんどない。鑑賞前は、原則、予告やチラシ以上の情報は得ない。いわゆる「まっさらな状態で見たい」からである。というか、知人・友人たちも「まっさらな状態で見たい派」がほとんどなので、それが「当たり前」だと、ずっと思っていた。

ところが、である。

先日、とあるブログを読んだ。その人は、事前に出来る限りの情報を収集し、隅から隅まできっちり読みまくり、映画鑑賞に「万全の体制で」臨んだというのだ。

びっくりした。

人の楽しみ方はそれぞれなので、「そういう楽しみ方もあるんだ」で終わらせれば済む話なのだけど、なんか、もやっとした気持ちが消え去らない。自分とは真逆の思考に理解が追い付かない。

映画に限らず、演劇でも絵画でも、私の楽しみは、それまで自分自身が蓄積してきた知識とリンクした時の、瞳孔がぐわっと開くようなワクワク感との出会いにある。

例えば、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』でチャーリー・コックスがマット・マードックとして出てきた時。弁護士が必要だからって、デアデビルが出る?ああ、そうか、NYだから地域的にはおかしくないのか。おぉ、レンガをキャッチした。そりゃ、周囲は驚くだろう。いやぁ、笑える。っと、もうワクワクが止まらない。事前に知ってたら、ここまでワクワクを楽しめない。

事前に沢山の情報を得ても、それは他人の感性や知識エリアによる観点であって、必ずしも自分の感動になるとは限らない。集めた情報の答え合わせが鑑賞の楽しさに繋がることはあるのだろうか。そもそも膨大な情報量のある映画を、事前情報だけで「万全」と言えるほど把握することは出来るのだろうか。

いやいや、自分と考えが違うからと言って、否定するようなことを言ってはいけない。言っちゃいけないんだけど、あー、でもっ。というところで、ぐるぐるしてる。

自分とは違う意見も、素直に受け入れられる人になりたい。

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