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カバー・ソングを作るのが好きなんです。
MAINAMINDがフィッシュマンズの「ナイトクルージング」のカバーをプロデューしました。
僕はディレクター、プロデューサーとして昔からカバー・バージョンを意識的、積極的に制作してきたと思います。
今でこそ、カバー・バージョンは一時のブームを超えて、一般的になり、珍しいものではありません。
ですが80年代〜2000前半まではカバーは積極的には制作されませんでした。
60〜70年代は洋楽曲をカバー(東京ビートルズの「抱きしめたい「日本語バージョン、ザ・ピーナッツのキング・クリムゾンの「エピタフ」のカバーなどの珍品が存在します)するという文化がありました。
理由は定かではないですがレパートリーの弱さをカバーする、ただ良い曲だと思ったのでやってみたというようなシンプルな理由だと思います。
その後70年代後半から2000年代までは1989にリリースされた森高千里の「17才」を除けば、少なくともヒットしたものは思い当たらないです。
カバーの文化が廃れた理由は売れたとしても楽曲の作詞作曲に関わっていない本人はもちろん、出版の管理会社が決まっているため本人が所属するマネージメント等に作詞作曲の印税が支払われず、いくら売れてもレコード会社以外は利益が下がるという構造だったからです。
それでも売れればカバーでも良いのではないかという発想が出てきたのは2002年のヒット島谷ひとみの「亜麻色の髪の乙女」くらいからだと思います。
僕がカバーが好きな理由としては73年にリリース(発売月まで同じ!)されたデビット・ボウイ「ピンナップス」ブライアン・フェリー「ディーズ・フーリッシュ・シングス」といったオリジナル至上主義のロックの価値観に置いて全曲カバーという当時としては画期的なアルバムも好きだったのですが、なんといっても僕の人生のフェイヴァリット・アルバムでもある78年にリリースされた近田春夫とハルオフォンの「電撃的東京」が大好きだからです。
このアルバムは当時の沢田研二、フォーリーブス、郷ひろみと等のいわゆる歌謡曲をパンク、ガレージロック的なアレンジでカバーしたものです。当時、ロック・ファンやジャーナリズムは歌謡曲を下に見ていて評価する、ましてやカバーするなどという事はありえませんでした。ところがこれがめちゃくちゃ格好いいんです。
ちなみのハルオフォンはライブでGS、四人囃子、クリエイション、キャロル、紫といった同時代の日本のロックバンドをメドレーでカバーするという事をやっていて、これも彼らのならではの批評性というかいたずら心が感じられます。
このアルバムを聴いて、楽曲は文脈と批評的視線を持って解釈(カバー)すれば全く別の魅力が発見されるし、カバーをするアーティストも自分のアインデンティティーやアチチュードをアピール出来ると思いました。
そして、80年代、ちわきまゆみというアーティストを担当した時に、本人からの提案、デビュー・シングルのB面にカバー曲を収録しました。
その後、どうせなら僕はシングルのB面は全部アルバム未収録のカバーにしようと思いました。
曲はジャパン、映画ロッキーホラーショーのテーマなど、かなりかなりひねった選曲だったと思います。
当然、前述のようにマネージメントには説明が必要でした。印税は入らないけれど10枚シングルリリースしたら制作費無しでカバー・アルバムが作れるからというような事で納得してもらえないかと言った気がします(残念ながら10枚させなかったんですが)
その後THE FUSEというバンドを発掘し担当します。2枚目のアルバムのリリースの後、ギタリストが脱退し、どういう経緯だったかは記憶に全くないのですが、曲毎に違うゲスト・ミュージシャンを呼んでカバー・アルバムを作ろうという話になりました。
曲は沢田研二、シーナ&ロケット、ルースターズ、ガンダーラ、チューリップ。
花田裕之、古市コータロー、ブラボー小松などをゲストに呼んで、それなりに面白い作品になったと思います。
特に「私のアイドル」は女子が昔好きだったけれど、今は思い出になってしまったアイドルを思い出すという歌詞で、まさにそのままになるというシニカルな視点の曲になりました。
その後もナンバーガールがラモーンズ、ピクシーズ、ザ・フーなどをライブでナイスなカバーを披露していました。
https://www.youtube.com/watch?v=Oip4m7T5RxI
その後、寺嶋由芙をプロデュースするのですが、彼女にも岡村靖幸、マドンナ、シーナ&ザ・ロケッツのカバーをレコーディングしました。
これは、でんぱ組.incが小沢健二の「強い気持ち、強い愛」をヒャダインのアレンジ、さらにビースティボーイズの「サボタージュ」のカバーをリリースしていて、その選曲をアレンジのセンスに影響を受けたからです。
意図としては、そんなアイドルがらしからぬ曲をカバーしているのであれば聞いてみるかというアイドル・ファン以外のファン層に興味を持ってもらいたかったのと、マドンナの「ライク・ア・バージン」をカバーは寺嶋由芙ちゃんは真面目清楚系のアイドルなのでファンに人が聞いて、もやっとするのではという意地悪な気持ちもありました。
シナロケの「ユー・メイ・ドリーム」のカバーは当時バンドを女性メンバーで固めていて、それでやって映える曲が欲しかったという理由です。
ちなみに「大好き」はオリジナルは「女の子のために今日は歌うよ」という歌詞を承諾を得て「男のために今日は歌うよ」と変えさせてもらいました。
クリトリックリスの「BUS BUS」僕の提案ではないですが元はブルーハーツの「TRAIN TRAIN」のカバーです。
替え歌というのは歌詞やタイトルを変えたとしてもカバーという解釈で新たな歌詞を書いた人には印税は発生しません。そしてカバーは道義的に著作権者の了解を取る必要があります。
名曲を、こんなふざけた歌詞に改変してOKが出るどころかライブでもやるなと言われてもおかしくないと思ったのですが、普通のディレクターならこの段階でアーティストに怒らせるかもしれないのでやめましょうという所だと思うのですが、あまりの面白い視点の曲なので、ダメ元でおっかなびっくりで許可をお願いしたところ、なんと真島昌利さんからOKの返事!
その懐の大きさに感謝しかありません。
フィロソフィーのダンスはオリジナルがすでに既存曲に対するオマージュやその存在も含めて批評性があったので、あまりカバーにアプローチする必要性は感じませんでした唯一、ライブ・バージョンでクラムボンのカバーがあります。これは奥津マリリちゃんの声が曲にマッチしたのと(某演出家がオリジナルと思い込んでくれました)のと意外性を感じたリスナーが聞いてくれたら面白いという意図で作りました。
そしてMAINAMINDの「ナイトクルージング」を制作しました
実は以前に僕はフィッシマンズのカバーを2回作っているんです!
1回目は98年、フリーボの白井良明さんにプロデュースしてもらった彼らのミニ・アルバムで「デイドリーム」2017年、フィロソフィーのダンスの日向ハルちゃんの聖誕祭用限定販売のCDで「いかれたBABY」です。MAINAMINDのバージョンもそうなんですがFISHMNSの曲は女性が歌うと全然違う魅力が出てくるように思います。
マイナちゃんとアレンジの大林亮三君とで拙宅でレコードを聴こうという会がありました。
その時、偶然、youtubeでフィッシュマンズを見たら彼女がえらくハマってくれたんです。
フィッシュマンズは近年、海外での評価、映画公開、アナログ再発などかなり盛り上がって来ているので、これは本人も気に入っているしハマるのではと思いました。
さらに不思議な偶然はレコーディングをした三軒茶屋のクロスロード・スタジオは今はレコーディング・スタジオなのですが以前はリハーサル・スタジオで、プライベート・スタジオを作るまではリハでフィッシュマンズが使っていたんです(ドキュメンタリー映画ではメンバーのインタビュー場所で使われてます。オーナーの井上さんも使われなかったのですがインタビューを受けたそうです)
「当時の佐藤君が使っていたアンプがそこにあるよ」と井上さんはMAINAちゃんに伝えたのですが、彼女は霊感が強いのか「佐藤さんの存在を感じます」と言ったのも不思議なエピソードでした。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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