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微睡の世界VOL.13 VOWWOWのライブを34年ぶりに観た!

先日、VOWOWOWのアルバム「Beat of Metal Motion」の発売40周年記念、ドラマーの新美俊宏さんの一周忌追悼でのライブを川崎クラブチッタに観に行きました。(2デイズ即完売!)
キーは当時のままでシャウトしまくる声量おばけの人見元基さん、ハードにそしてゲイリー・ムーアに「君のギターはシルクのようだ」と言われたという山本恭司さんのギター、ミニムーグ、ハモンドオルガン、ショルダー・キーボード、メロトロン(まさか実機ですか?)とビンテージ・キーボードを引きまくる厚見玲衣さん、当時と変わらぬ、あるいは当時以上かもしれない円熟した演奏を聞かせてくれました。

当時はロック・スターをこうあらねばならないというキャラクターを作っていたように感じたのですが、今の彼らは素直に自然体で演奏を楽しんでいる感じも伝わって来ました。
驚いたのは初めて見る人と挙手させたら半分近くでした。解散後もファンを増やし続けていたんですね。

彼らの歴史は1984年、VOWWOWはBOWWOWからギター&ボーカルの斉藤光浩が脱退、ボーカルの人見元基、キーボードの厚見玲衣が参加、名前をVOWWOWに変更したところから始まります。

1985年に東芝EMIに移籍、アルバム「CYCLONE」をリリースします。この作品は僕の名前がアシスタント・ディレクターとしてクレジットされた最初のアルバムなんです。(ちなみにKOTARO KAMOと間違っていて、デイレクターに再販から直すからと言われたのですが未だに直ってません、これが僕の誤字脱字歴の始まりなんです)

1988年から担当ディレクターに昇格します。ですが、その当時彼らはイギリスに活動の拠点を移していたので、いつしょに制作するというより出来上がった作品をコーディネートとプロモーションをする洋楽の担当のディレクターに立場としては近かったかもしれません。ですがミックスダウンには陣中見舞い的な感じですがロンドンに出張で行きました。

英語は日常会話ならギリなんとかなるかならないか程度の能力しかないのですが、イギリスまで行くのならイギリスの契約先のアリスタ・レコードの担当と話して来いと言われ、会った所「君はVOWWOWをボン・ジョビのように成功させたいのならもっと金をかけてビッグなプロデューサーを付けろ」とすごく上から言われ、うまく切り返せずのあわあわしたのを覚えています。
その時、作ったアルバムがこれです。

日本のツアーではベースで元ホワイトスネイクのニール・マーレイも来日したのですが、大柄な彼を六本木のウィークリーマンションにアテンドしたのですが、その狭さに目を白黒させてましたね。温厚な人だったので怒ったりしなくて良かったです。

1989年に彼らはイギリスでヘッドライナーをツアーを20本行いました。ドイツなどのヨーロッパもツアーしていました。ロンドンでの2000人のキャパでのライブは映像収録も行うので僕も行きました。その時の映像がこれです。

このツアーの後、イギリスにいて活動しても限界なので、アメリカに移ろうという話になりました。なかなかアメリカでの契約が決まらなかったのも理由があるかと思います。

LAに移住した彼らはまずはアメリカには行きたくないと脱退したニール・マーレイの変わるベーシストを探します。無事に決定するとプロデューサーを探します。

なかなか条件などが合わず難航したのですがダメ元でキッス、ピンク・フロイドなどを担当した大物プロデューサーであるボブ・エズリンに打診したところなんとOKの返事。
ですが、日本では考えれない印税を要求され、すぐに返事をしろと言われたように思います。僕は当時のボスであった石坂敬一さんに国際電話して相談したところまさかOKの返事。今なら損益分岐費表を出していくつもの承認を得ないといけない事を考えると良い時代だったのかもしれません。

石坂さんは70年代クリエイションをというバンドを海外でブレイクさせようと、彼らをアメリカに連れて行き、クリームのプロデューサでありマウンテンというバンドのメンバーでもあるフェリックス・パパラルディを起用しました。
結局海外でのリリースは出来たのものの成功まででは行きませんでした。石坂さんに日本のバンドを海外で成功させたいという悲願がその時もあったのでOKをくれたのかもしれません。

レコーディング・エンジニアなんとスタン・カタヤマさんという日本人。1980年頃からキャリアをスタート。ボブ・エズリンの片腕として以外にもR.E.M、ロッド・スチュワート、キッス、レッチリなどのレコーディングに参加している人でした。彼が非常にグッドヴァイブスなのも楽しかったです。

アルバム・プロモーションのためボブを日本にも呼びました。行きたいところがあるというので当時の上司がアテンドしたのですが、どこかはここでは書けないのであったら聞いて下さい。

ボブ・エズリンが知り合いの各レコード会社の A&Rのリストを自信満々に出して来て、彼らに連絡すればアメリカレコード会社が決まるからという話だったのですが、残縁ながらどこからも良い返事はありませんでした。

時代はスタジアム系のハードロックはトレンドから外れはじめていました、そして間もなくグランジの時代がやってくるのです。

それとアジア人がエンタメの世界に普通にいる今ならならまだしも、日本人が白人中心のファン層のハードロックをやっても受け入れらないだろうという人種的偏見もあったと思います。それらがきっかけのとなり1990年5月28日の武道館コンサートで解散してしまいました

VOWWOWとのいくつかのエピソードを書いておきたいと思います。

僕は当時、村田和人というSSWを担当していたのですが、そのバンドのベーシストが湯川トーベンさんでした。実は一時、厚見玲衣さんが脱退するという話があり、彼のようなキーボードは日本にいないのでギターのオーディションを行う事になり、その時のトラのベーシストが湯川さんでした。結局、脱隊の話はなくなったのですが、そのオーディションでは、逆に山本恭司さんがどれほど上手いかいうのが分かりものすごく興味深かったです。

その湯川さんの娘さんの湯川潮音ちゃんが17歳の時に送ってくれたデモがきっかけに彼女を担当する事になりました。

トーベンさんがエンケン・バンドのメンバーである事もあり、良く彼女と遠藤賢司さんのライブを観に行きました。そこに俳優の佐野史郎さんと出会います(初期のウルトラボックスのマニアという点でも意気投合しました)
佐野さんは山本恭司さんと島根での幼馴染、それはきっかけでジャンルが違うように思うのですが佐野さんの紹介で遠藤賢司さんと山本恭司さんは意気投合したのか度々共演をしていて、遠藤賢司さんに大きな影響を受けた僕としては嬉しい気持ちになっていました。

そしてDEZOLVEといバンドアフター6ジャンクションで知ります。これは面白いと思い何か仕事がしたいとアプローチ、調べるとなんとドラムは山本恭司さんの息子さんの山本真央樹さんとの事でびっくり。それで作ったのがこの曲です。

https://open.spotify.com/intl-ja/track/7FMmAAaPGemLxm1QuMNDSc?si=86cc4fe1a93543f4

親子と共に仕事できたのが嬉しかったです。

一方、人見元基さんが英語の先生になったという話を風の噂に聞いていました。

彼は東京外語大学出身でVOWWOWに入るか、英語教師になるか悩んだという話を聞いたことがあったので彼としては戻るべき所へ戻ったのかもしれません。

海外で活動、武道館まで立ったシンガーのセカンド・キャリアが高校の先生というのもユニークすぎますよね

プロデュースしている寺嶋由芙ちゃんと話していたら、私の高校の英語の先生が元はロックのボーカリスとなんですと話してきました。「それって人見さんていう名前じゃないの?」と聞くとそうですという返事、「学校でも歌う事があって生徒にも人気でした」との事でびっくりです。不思議な縁だと思います。

新米のディレクター時代、今でこそ自分は細かい事を見落としがちという事は分かって作業しているので多少は減りましたが、その時は自分が注意力が散漫であるという意識がそもそもないので、いろんなヘマをやらかしました。

ライブの後、山本恭司さんにご挨拶したら「加茂くん,よくやらかしたよね」と笑顔で言われて冷や汗が出ました。その節は本当にすいませんでした。








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