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浅川マキさんとの思い出

浅川マキさんが亡くなって11年がもう経ってしまいました。僕は宣伝とディレクターとしてもアルバム1枚を担当しました。仕事上で関係ない時期も色々とお付き合いさせていただき、音楽やミュージシャンの良し悪し、音楽だけではなく文学について、人としての生き方など、大きな影響を受けました。

最近、良く会っているSANABAGUNの大林亮三君が浅川マキの大ファンでTシャツを自作して着ていたり、桑田佳祐さんが週刊文春で取り上げて絶賛ししていたりなど、ふと彼女の事を思い出す事があったので、エピソードを今回は書いてみようと思います。

まずは浅川マキさんの紹介をしたいと思います。1942年石川県出身。キャバレーや米軍基地等で活動(ドサ回りですね)1967年ビクターから演歌のシングル(激レア)をリリース後、東芝EMIに移籍。1969年、寺山修司プロデュースのシングル「夜が明けたら/ かもめ」が当時のアングラブームにも乗りスマッシュ・ヒット・70年にデビューアルバム「浅川マキの世界」もヒット。1998年までにスタジオ・アルバム25枚、ライブ・アルバム4枚(無観客でのライブ録音も多いのでそちらはスタジオ・アルバムととしました)その他多くのコンピュレーション・アルバムをリリース。2016年にはイギリス独自で編集されたベスト盤がアナログ(すごくよく分かっている選曲、英文の丁寧なライナー付き)でもリリースされ人気は海外にも広まっているようです。

その音楽性はニーナ・シモン、ビリー・ホリデイといったジャズ、ブルースがルーツだと思いますが、歌謡曲(美空ひばりの素晴らしさを良く聞かされました)ロック、アバンギャルドからも幅広いものから影響を受けていて、浅川マキ独特の世界として言いようがありません。

ミュージシャンからも絶大な支持がありジャンルを超えて、これほど多岐に渡るミュージシャンとジャンルを超えて共演したアーティストは少ないと思います(山下洋輔、坂本龍一、後藤次利を始め、ルーファスのトニー・メイデン、マイケル・ジャクソンのバックのリッキー・ローソンまで!)エンジニアも90年代までははっぴいえんど、矢野顕子等の仕事で知られるレジェンド・エンジニア吉野金次が努めています。

当時マキさんに呼び出されたら、どんな一流ミュージシャンでも断れないと言われたそうです。

僕は1983年に東芝EMIに入社し、邦楽の宣伝に配属されました。僕は邦楽のロックのディレクターをやりたくてレコード会社に入ったのですが、当時の僕の配属された部署は松任谷由実を筆頭で、長渕剛、中原めいこ、山本達彦、佐藤隆といったニュー・ミュージックのアーティストがメイン。ロック系のアーテイストは皆無で、正直当時は狭量が狭く、あまりモチベーションは上がりませんでした。

その時にアルバム「幻の男たち」が後に「マルサの女」等のサントラを担当した事で知られる本多俊之のプロデュースでリリースされ宣伝するように言われました。このアルバムは彼女のジャズ、ブルースといったパブリック・イメージからは遠く離れたアバンギャルドなエレクトリック・サウンドを取り入れたもので、僕も当時は70年代の曲のいくつかしか知らなかったので衝撃を受け、ディレクターに紹介して欲しいとお願いしました。お会いすると開口一番「変わった新入社員が入ったらしいじゃん」と言われたのを覚えています。

83年の作品、後藤次利のプロデュースによる「WHO'S KNOCKING MY DOOR」82年の作品、先日お亡くなりになったトランペッターの近藤等則プロデュースの「CAT NAP」どちらもジャズともロックとポップスともつかない後のアヴァン・ポップとも呼ばれる作品で、当時のレーベルは実験的なアプーロチに困惑している様子がありました。ですが僕は日本でこんな前衛的な音楽をやるアーティストだという事に驚き彼女に大きな興味を持ちました(ファンであるブリジット・フォンテーヌやニコの存在を重ね合わせていたとも思います)

その後取材の現場(80年代は六本木交差点のそばの今はない自宅の古いマンション)で何度も会い、その後、その部屋でいろんな話をさせてもらいました。僕がそれほど当時は詳しくなかったジャズ、ブルース、そして美空ひばりのレコードなども聞かせてもらいました。

マキさんは自分で新しい情報を積極的に探していこうとする人ではなかったので、僕は感想を聞きたくて、いろんなアルバムやミュージシャンの情報を持って行きました。マキさんも面白がって感想を伝えてくれました。僕が紹介したミュージシャン(下山淳、ホッピー神山)をライブやレコーディングで起用してくれました。

中でも印象に残っているのは日本のカルト・パンク・バンドのあぶらだこです。アルバムを聴いてもらったところマキさんは「こんなブレスの深いボーカルは日本で聞いたことがない」と感動して新宿ロフトのライブを、これも伝説のミュージシャン、山内テツ(フリー&フェイセズ)と見に行きました。ですが、その後あぶらだこは活動をほとんど行わなくなってしまい、業を煮やしたマキさんは歌詞を通じで「出てこい、あぶらだこ」というメッセージを送りました。

逆にベテランでキャリアのあるミュージシャンも容赦なかったです。ドラマーは誰に起用するかと相談をしていたら、数々の名ドラマーを、リズムが悪い、キックが弱いなどど一刀両断。僕は「そんな事言ったら日本にもうドラマー居ませんよ」と弱音を吐きました。

マキさんはミュージシャンの価値は「一拍の深さ」「どれだけの小節の長さで曲を捉えられるか」だと良く言っていました。

渋谷毅さんという晩年までマキさんを支えた名ピアニストがいます。聴いてもらえればわかると思うのですが、本当に弾かないんです。その代わり弾いた時の音の深さや存在感は別格です。マキさんの言っていた意味が分かります。

また、フリー・ジャズのスタイルでの演奏も多かったのですが、先日なくなった近藤等則とやるのが一番、歌いやすいという言葉も印象深いです。(二人の即興を僕も見たのですが近藤さんはトランペットだけでなく良くわからないパーカッションを叩きまくっていてアバンギャルドの極みです)

1993年にリリースされた小沢健二のファースト・アルバム、僕はこれはすごいと思い、マキさんの感想が聴きたいと思い、当時、麻布のマンションに行きました。彼女の感想は「ミックスがイマイチ」(エンジニアの方すいません)「歌が下手と言われるかもしれないけれど、この子はすごく歌が上手い」と言われたのを覚えています。

そして1996年のある日、以前から懇意の小沢健二のマネージャーから電話がかかってきました。「小沢がマキさんの「アメリカの夜」というアルバムを聴きたいと言っているのだけれど持ってないか」という連絡だったのですがCD化もされておらず、僕も手元になく、新宿三丁目の「ふらて」というマキさんが常連だった店ならあると思うと伝えました。

その年の10月に「球体の奏でる音楽」というアルバムが発売されるのですが、これはジャズ的なアプローチの作品で浅川マキのライブでレギュラー、サポートのピアノ、渋谷毅、ベース、川端民生が参加しています。何らかのインスピレーションを小沢健二が得たのでは無いかと僕は睨んでいます。このアルバムの感想をマキさんから聴きそびれた事に後悔しています。

浅川マキさんと言えば長電話と言うくらい当時有名でした。どんな些細な用事でも最低で30分、2〜3時間話したという事もざらです。ただ電話を取り次ぐためだけに出た面識も無いデスクの子と1時間近く話していたなんていう事もありました。

例えば何かを聞くと、全然関係ない話をし出すんです。どういう事なのかとずっと聴いていると1時間くらい経ってやっと本題の話になります。どんな事でも、自分がなぜ、そういう判断や思考に至ったのか全ての理由を説明しないと気が済まないんだったと思います。

細い事へのこだわりも尋常ではなかったです。あるライブハウスで「店員が客を席に案内するような小屋は出たく無い」と公演をキャンセル。雑誌広告の対抗ページの内容が気に入らないとご立腹。取材をせずに書かれた記事を読み新聞社に直接、電話で抗議(醜聞や悪評では無いのですが)カバーされた曲の表記が英語で大激怒。

ですがマキさんに言われた言葉で「加茂さんアンダーグラウンドで居続ける事がどれだけ大変か分かる」と言われた言葉にはしびれました。自分の主義、ポリシーを少しも曲げたら自分ではなくなると思ってたのかもしれません。

彼女が亡くなって暫くした頃、友人から連絡がありました。ゆらゆら帝国での仕事で知られるエンジニアの中村宗一朗さんがフリー・マーケットで浅川マキのクレジットがあるDATマスターらしき物が売っていたので買ったとの事でした。早速、連絡をとって調べてみるとマキさんより先に亡くなったマネージャーの柴田さんの遺品が流れ流れて売られていたようです。

そのテープには寺山修司さん作詞、仮題「朝鮮人」後に「ロング・グッバイ」と命名される1968年、ライフル乱射殺人、立てこもり事件を起こした金嬉老をモチーフにして書かれた曲の90年代のライブ・バージョンが入っていました。

この曲は初期の重要なレパートリーだったのですが歌詞が当時は過激すぎるとレコーディングされず。後年のライブでもあまり演奏されませんでしたが、隠れた名曲として知られていました。

いつかリリースされたら良いと思っています。





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