見出し画像

あの日家族旅行をしていたクマとパパとママと

1・春はあけぼのすまじきものは

今は昔、それは21世紀の初頭、とか書いてしまうと太古の昔を思わせるが、それは今から約20年前、アラやっぱり結構昔。

その春、大学を無事卒業したのに性懲りもなく何の役にも立たない文系大学院で、何の役に立つのか皆目見当もつかない哲学宗教系の謎学問を学ぶ予定だった私は本気で困窮していた。

家賃と学費を払ったら、口座に本気で2桁の金額しか残らなかったのだ。

パンないならケーキも無い当時22歳。

それで大学が長期休暇中の春、その22歳の私は朝はホテルの朝食サービス、昼から夜は宴会場での宴席、間に暇があれば和食の宴席で偶に合わせを逆にして、私は左右が未だによくわからないのだ、叱られながら和服を着て膝行しながら皿と料理とお酒を運びまくっていた。

学問も研究も衣食住が無ければ成り立たない。

背に腹も変えられない。

腹がすいては何とやら。

2・萌黄色は敵という当時

その朝も早朝5時から私はマイ自転車で出勤した。

京都の洛中の貧乏な学生は基本自転車に乗って移動する。そしてあの萌黄色の市バスに乗る事の出来る者達はブルジョアである、あの春の新芽を思わせる色の市バスに乗り洛中を東西南北に走る者達、資本の手先よ、平民の敵め。

当時の私はそれ位手元不如意から起因して人間性を失っていたのかどうかはわからない、今でもちゃんとあるのかその辺はとは思うが、市バスと地下鉄とそしてテニサーに入っている系統の人間を最高に敵視していた。この金持ちどもめ。

過労と苦労は人の根性を捻じ曲げる。

みんなは気を付けようぜ。

そんな世の中に背を向けたやさぐれ度100%の私も、朝6時前にはホテルの地下、蛍光灯の灯りも暗く、かつて絨毯だったのだろうすり切れた布の上に死体が転がってそうな、というか現実に前日の晩から仕込みで帰宅できなかった可哀相な若いコックさん達、もしくは見習いの若いのが死屍累々横たわっている従業員スペースのある地下の更衣室に入って、黒地に白襟の制服に清潔な白のサロンエプロンをつけ、当時カット代を惜しむあまり結構な長さになっていた頭髪をシニヨンにくるりとまとめるとそれなりにホテルの人っぽくなった。

いや実際バイトとは言えホテルの人なんやけど。

その日のホテルの朝も朝食会場はオープン時間から盛況だった。

何しろ春、桜の季節の京都は今も昔も観光のハイシーズンだ、20年前のこの頃は今ほど外国からのお客様は多くなかったと記憶しているが、それでも円山公園、平野神社、仁和寺、御所、平安神宮、二条城、桜の美しい名所旧跡を求める観光客で市内のホテルはこの時期常時満室で、したがって私たちバイト学生にも仕事はいつも山ほどあった。

そうなると本来ならレストランだけで対応している朝食も春は宴会場が急場の朝食会場に早変わり

そしてそこを仕切るのは私とそう変わらない身の上の素寒貧な学生とフリータのみんなたち。

そこでは入り口に立つ、大体先輩は大学何年生でしたか?え?大学って学部生のまま7年も在学できるんですか?というベテランが過ぎるトップオブバイト男子が手馴れた様子でお客様の朝食のチケットを受けとり、座席に案内し

「おはようございます。後程、係の者が水と他のお飲みもの、コーヒーか紅茶をお持ちいたします」
「お食事は、あちらのテーブルからご自由にお選びください、右より洋食、和食、オムレツは係の者がご注文いただいてからお作り致します」

大体こんな感じの事をアナウンスした後、私は41歳の今でもコレと披露宴の高砂案内は明確に覚えていてすらすら唱える事が出来る、当時相当頑張って覚えた古代ギリシャ語は全く覚えていないのにだ、ハイハイハイお待たせしました、コーヒーです紅茶ですハイどっち?という係の私がはりつき気味の笑顔で登場し、まず6オンスタンブラーで冷たいお水をお出しして

「コーヒーとお紅茶どちらになさいますか?」

と聞く。英語の場合はそれなりに、外国語など大学では常に教室の隅に気配を消してやり過ごしてきた上に、大学院の試験のドイツ語と英語があれでどうやって合格基準に達したのかいまだに人生の七不思議に数えられる私は

「コーヒー?紅茶?どっち?(早く決めろ)」

という聞き方をしていたに違いない、語感が怖い、軽く恐喝風味、申し訳ねえあの時期あのホテルで私のサービスのもと朝食を食べる羽目になった外国のひとびとよ。

それでお客様のお好みをお聞きし、朝食を取りに行っている間に、コーヒーないしはお紅茶をポットで用意、ご着席の後温かい飲み物は温かいうちに、もちろん冷たいものは冷たいように、そして偶に朝から

「ビールある?おねえちゃん!」

という肝臓の屈強なおじさま方にはビールを小瓶でお出ししていた。これは朝からそんなに飲むなという従業員の心遣いかどうかはわからないが、ホテルの朝食会場でビールをお召しになるあのおじさま方は2020年の今現在も生息しているのだろうか。

あの20代当時は若さゆえの低血圧、40代の現在は妊娠高血圧症候群以来微妙に高血圧、そのどちらの私にも、朝からビールで盛り上がるというのはちょっと真似できない、元気な御大たちよ。

そして早朝から飲まず食わずで昼まで下手したら夕方まで走り続ける私は仲間達数人とよく会場からゆで卵とかクロワッサンをちょろまかして食べていたがアレはもう時効になるのだろうか。

3・春の日のクマ

その日の朝食の終盤に入り、ビールで盛り上がった御大たちも引き上げた時間、ほんの少し静寂が訪れた会場に現れた40歳前後、思えば今の私とそう変わらない年齢のご夫婦がひときわ私の目を引いたのは、そのご夫婦が団体のお客様方と違うとても静かなたたずまいで窓際に着席したからでも、その奥様のカシミアらしき薄手のセーターとシフォンのスカートの品の良い感じが際立っていた、いや今記憶にある位だからとても素敵だったのだけど、そういう事でもなく、その奥様の腕に明るい茶色のテディベアが、まるで乳児を抱くように大切そうに収まっていたからだった。

新品ではなさそうな、それでもキレイに手入れされて、多分手編みかなと思しきピンクのモヘアのセーターを着たクマは、耳につけられたタグからシュタイフのものだとすぐわかった。

ドイツ製の可愛いこどものお友達。

窓際の席、サービス員は『小丸』と呼んでいた小さめの丸テーブルに、旦那様、奥様とクマちゃんは奥様のお膝の上に、静かに着席した2人と1匹は、窓の外を眺めてはクマちゃんを中心になにやら話しをしていて、その日同じ朝食会場に入っていた大学7年生ベテランはそれを見てかなり不思議そうな顔をしていたが、私は、うんクマと旅行することも、モノに話しかける事もあるよな、私も昨日通帳と部屋に勝手に入ってくる黒猫に話しかけてたしな

「オイ、明日この残高が1億円位にならないのかね」
「お前向こうの寺から小判とか掘ってきてよ…」

とか。

まあその残高と通帳と猫と私については置いておいて、私にはその2人と1匹はそんな奇異なモノに映らなかった。

何故だろう。

その2人と1匹がとても自然な感じでそこに居たからなのか、それは分からない。

それで私は、その不思議な家族旅行中のテーブルにお水を3つ運んだ

ママとパパとクマちゃんの分。

それをテーブルの上に置いた時の奥様の、クマちゃんのママの顔は、ちょっと忘れられない、細面のキレイな奥様だったと記憶しているその方は、3つの6オンスタンブラーを見て

「あら、あらあら良かったわね、アヤカちゃん、ありがとうございます」

もちろんアヤカちゃんは仮名だ、クマとは言えお客様の個人情報は20年を経過した今でも明かさない、それが朝食の残り物と従業員食堂で散々タダ飯を頂いてきたあのホテルへの私の礼節で矜持だ、でもそれはそんな外国製のテディベアにつける名前ではない、リリー・ローズちゃんとか、セザリーヌちゃんとか、ペネロペちゃんとかそういうのではなくて、日本語の女の子の名前を呼んで、ちょっと驚いた顔をしてから私に丁寧に頭を下げてくれた。

そしてその奥様は私と

「あそこに見えるのが船岡山かしら」

とか

「今日は蹴上の方に行くんですよ、京都市動物園と平安神宮と」

と関西なまりの無い上品な言葉遣いで少しだけ話をした、旦那様は寡黙な方のようで、この会話には入ってこなかったが、ニコニコと膝にクマを抱く奥様が、相当うらぶれた素顔を白襟の制服に包み隠して

「蹴上でしたら東西線が便利ですよ」

「平安神宮は本日が満開のようですね」

と世間話に応じる学生バイトの様子を穏やかに見守っていた。

クマのあやかちゃん(仮名)もママの言葉を静かに座って聞いていたと思う。

4・クマとママとパパの謎

「え、何なんあのクマ、あの人たち」

バックヤードで盗んだ…ではなくこの日は余ったパンと卵とフルーツグラノーラを立ったままもりもり食べながら、朝食学生チーム数名にあの客は何だ、そしてなんでオマエはクマにまで水を出しているんだと聞かれた。

あたたかな京都の春の日差しの中、窓際の席に着席した品の良いご夫婦と、クマと、ホテルのサービス員が会話しているのは他のスタッフの目にはかなり奇異に映っていたらしい。

「さあ、クマちゃんと旅行することもあるんじゃないですかね」
「すごく大切なぬいぐるみなのかも、だって特に変な感じはしないし、パパとママとお嬢さんと旅行中みたいな感じでしたよ」

「え、なんで『お嬢さん』なんどこが?クマやろ」

「だって女の子の名前で呼んでましたから」

そう答えると、オマエも変わってんな、やっぱり進路がアレ、変わってるもんなと言われたが、オイ俺の大学と学部と進学先をバカにすると明日神罰が下るぞ、許さんこのこのR館どもが。

当時の現場は京都の洛中の大学のアルバイト学生が多かったが、何故かその中でも衣笠にキャンパスのある某大学が隆盛を極めていて、他大学在学中の私は微妙に肩身が狭かった。

とは言え、そんなお客様の噂をして油を売っている暇は無い、昼にはもう会議流れの松花堂弁当の会場を作ってサービスに入らないといけない、会場一旦全部バラして作り変え、それを午後10時まで、その話はそこで沙汰止みになった。

そして、そのままそのクマちゃんとご夫婦の事も、偶にシュタイフのクマを見たりすると、あ、そんな人いたなと思いだす程度ですっかり記憶の隅の方に小さくしまい込まれて、そのまま社会人になり、結婚し母親になり、それはすっかり忘れ去られた。

ように思っていた。

5・入院の日はきみを連れて

突然だが、

年中入退院を繰り返している疾患児の生活にぬいぐるみはつきものだ。

あのアルバイトに次ぐアルバイトの大学院生活から十数年後、私が人生3度目に挑んだ出産でこの世に生を受けた我が家の3番目の次女、ここでは娘②と呼ぶ彼女は重度の心臓疾患児で、長期生存の為に2歳の現在も鋭意治療の道半ば、今年は予定しているだけでも3回以上の入院が既に決まっている、そしてちょっとの匙かげんでそれは増える、多分減らない、値切っても無駄。

そんな彼女の入院の時は必ず『おともだち』のぬいぐるみたちが一緒だ。

ママが常に24時間ぴったり付き添う親子付き添い入院とは言え、自宅とは違う少々殺風景な病室には毎回1匹以上のお友達が娘②に付きそうことになる。

生まれて即、搬送入院したNICUではこぐま社『しろくまちゃんのホットケーキ』のこぐまちゃん。

0歳児時代の手術入院中は兄である息子のお下がりのしまじろう。

1歳児時代は新しく買い与えらえたピカピカのしまじろう。

そして2歳の今は、フランスのコアラの女の子ペネロペちゃん。

特に2歳になってから、普通の子より少し遅れて言葉を覚え、たどたどしいながらペネロペちゃんを

「ペネしゃん、ペッペタン!」

そう言って、可愛い可愛いどこでもいっしょと市中引き回しよろしく障害児発達支援施設にも循環器外来にも外科外来にも連れて行き、いつも優しい小児心臓外科医のヤマナカ先生(仮名)に

「おっ!これは何かな、先生コレ見たことあるぞ!え~と『おしりたんてい』だ!」

これ、本気でこう仰って、横に付き添う母の私は笑いを口腔内でかみ殺すのに本気で往生したのだが、多分もうご自身のお子さんは大きくて子供向けのキャラクターなんか知る由も無い先生にEテレしかつながりの無い間違いをされ

「ちやう!ペッペタン!!!」

軽くキレ散らかす位いつもいつでも一緒、多分最後になる大きな手術のその日も一緒に手術室に入場する、その位大切…にしているにしては偶にその辺に落としたりして扱いが雑だが心の支えにしていて、前述の手術のその日も娘②を待つ間は私が膝に抱いて預かる事になるだろうと、もう今から思っている。

そして同じように、長い入院生活を送る娘②と同じ疾患の、もしくは疾患自体は違えど長く入院し手術しそして命をつないでいる、そんな娘②の小さなお友達も、結構自分のお気に入りのひとつがあったりして、入院中に娘②のお気に入りとコンニチハをしたり、SNSの繋がりの中のお友達だと偶に流れてくるその子の入院中の画像の隅っこにちょこんと映り込んでいたりする。

それは例えばわんわんだったり、アンパンマンだったり、うーたんだったりそれ以外にも色々な可愛い動物だったりするのだけれど、その相棒と長い入院生活を乗り越える。

そして晴れて退院の日には、その病棟の出口を共に潜って我が家に帰るのだ。

ただ、中には、おうちにひとり残される、そういうぬいぐるみもある。

大事に大事にしてくれた小さなお友達と別れて、その子のパパとママと帰宅する。

それは、持ち主が天国に行ってしまった時。

6・形代としてあるもの

私は、娘②の母親になって、これまで数人、娘②のお友達を天国に見送っている。

哀しい。

私は娘②を産むまで、本気で知らなかったのだが、娘②のように長期生存に全く不向きな心臓の造りをしていたり、心臓以外にも各器官、臓器に何かしらのトラブルを抱えて生まれ、明日生きるために今日を戦う子のいのちは

時にとても脆くて崩れやすい。

そんな、前々から覚悟の上のお別れをした、もしくは突然のお別れを迎える事になったママとパパ達の手元には、その子が生前愛用していたいくつかの日用品やお気に入りが残される。

その中には、天国に行ってしまった我が子の形見としてあのお気に入りだったぬいぐるみが手元に残っている事が多いと思う。

私が知る人たちは皆それを手元に残している。

『遺品』

そう言ってしまうと果てしなく寂しいが、ぬいぐるみたちはその子の形代として、その子が天国に行ってしまった後、ママとパパのお供をして暮らしている。

ママの職場、ばぁばのおうち、パパとママが食事に出かけるその先、お墓参りの日。

ぬいぐるみというのは、亡き我が子が大切にしていたという思い出と共に、あの可愛らしい顔がある分、我が子の名代としてどこにでも連れて行ってあげたくなるものなのだろうか。

ぬいぐるみに姿を借りた我が子は、もうどこも苦しくなければ、痛くも無い、大仰な医療機器をつけないと出かけられないという事も無い、感染症の心配も無い、電車でも飛行機でも何でも乗って、京都ににもディズニーランドにも何処にでも行ける。

それを思った時

急に、20年近く前、シュタイフのクマを連れて京都旅行に来ていたあのご夫婦を思い出したのだ。

あの時あの奥様は京都市動物園に行くと言っていた。

大人2人の旅行にどうして動物園なのか、あの時少しだけ不思議に思っていた。

そして、あのクマちゃんの正体。

それはまるで、ぼんやりと輪郭しか見えていなかった映像に突然ピントが合うように。

あれは『3人家族の家族旅行』だ。

それを知るのに22歳の春から20年近くかかってしまった。

あの頃必死で覚えた、英語もドイツ語も古代ギリシャ語もすべては忘却の彼方、忘れすぎもいいところで、ドイツ語なんか何故か今はっきり覚えていてここに記述できるものが『SauerKraut』酢キャベツのみというお粗末さの中

大切な事を忘れないでいられてよかった。


あの親子は今どうしているだろう。


桜の季節、また花を見るために各地を旅行しているのなら


あの日6オンスタンブラーで水を出した元貧乏学生もとても嬉しい。

サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!