娘②が2歳になる話
娘②が2歳になります。
2歳になる事ができます。
先天性のそれなりに重い心臓疾患を持って生まれた娘②。
娘②の疾患、その事が初めて分かった時はまだ娘②は20週目を少し超えた胎児でしたが
その結構な数の疾患の名前の羅列と、心臓と血液循環のそれが常人と全く異なる複雑怪奇さに、先天性の心臓疾患はどの子も複合的で複雑なものではあるのですが、眩暈がしたものでした。
「この長い病気の名前のついたこの子はこの先長く生きられるんですか」
そう医師に質問しようとして脳内が著しく混乱し
「し、死ぬの?」
と聞いたのは私です。
何ちゅう聞き方や。
その乱暴な口の利き方の妊婦に、病態説明の為に同席した小児科のドクターが
「赤ちゃんが大人になれるように尽力します」
そう告げてくださってから早2年と少し。
娘②はその脆弱そうな心臓とは裏腹に、屈強な精神と、旺盛な食欲、そして『敵となすもの全てに即時先制攻撃を辞さない』非常に攻撃て…ではなくて勇敢な娘に育っています。
これも一重に娘②を今日ここまで生かしてくれた、医師、コメディカル、福祉その他関係者の皆さまのお陰です。
出来たらもう少し大人しやかな仕上がりが良かったかもし
イエなんでもないです。
娘②の命を今日ここまで運んでくるには
本当に沢山の方々のご尽力をいただきました。
出来たらおひとりずつ
「あの時助けていただいた鶴です」
そう言って御礼と菓子折りと私の最敬礼とをお渡ししたい気持ちで一杯ではあるのですが
中にはもうお会いする事も稀な方も大勢いらっしゃるので、ここに思いつく限りの御礼を記したいと思います。
◆
お一人目、娘②の疾患を最初に見つけてくださったH病院産婦人科医T先生。
22週目の胎児の心臓の異常を見抜いてその日の内に大学病院に娘②の命をリレーしてくださった産科医。
その約2年後に婦人科検診で再会した際、あのお洒落ヒゲのイケメン医師がキュートなヒゲクマ系ドクターに変貌を遂げていたその時の驚きは忘れられません。
そして娘②の無事とそのお礼をお伝えできた時のあの輝くような笑顔も。
いつか元気な娘②の姿をお見せしたいと思っています。
お二人目、大学病院産婦人科主治医 K先生
妊娠24週目から出産まで娘②の胎内での変化と病態を漏れなく診察し、出産まで繋いで下さった医師、吉本新喜劇のスッチー似...をもう少し男前にしたドクター。
胎児娘②の状態を見て「こんなに早い発覚は本当に超ラッキー」と励ましてくださったポジティブ100%の態度と優しさは生涯忘れられません。娘②に腹越しに毎回蹴りを入れられていた娘②暴力被害者の会、会員第一号。
その節は申し訳…ありがとうございました。
三人目、大学病院新生児科医 Ⅿ先生
娘②の出産時から生後2カ月半まで主治医を担当してくださったM先生。その大柄な体躯に妖精の精神を宿す小児循環器チームの随一の癒し。
毎回エコーを嫌がって泣きわめく娘②に蹴りを入れられていた生後被害者第一号なのは重々承知しています。
申し訳ない限りです。
うっかり親がインフルエンザに罹患してNICU出入り禁止期間に実施されたCT検査の日、あの優しいが行き過ぎて消え入りそうな小さな声で「いまから検査です…僕が付き添いますから」そうお手ずから電話をくださった日の事はよく覚えています。
四人目 産科病棟助産師Sさん
娘②を取り挙げてくださった産科病棟のパワーファイター助産師Sさん。
娘②の出産当日は産科病棟が満床御礼今晩お産何件目?の千客万来の中、一人で出産から時間勝負の胎児を取りあげ、NICU搬送直前の3分間私に産まれたての娘②を抱かせてくれたあの時の
「先生3分下さい!」
「おめでとうございます、女の子ですよ」
あの言葉がとてもとても嬉しくて、それは私の大切な思い出になりました。
私自身の出産経験は3回ですが、お産の終わり「お母さん!胎盤見る?」といってステンレスの容器に入った臓器を見せに来てくれた助産師は貴方が初めてです。
いつか院内のどこかでお会いで来たらとても嬉しい。
五人目 NICUナースチームの皆さん
個人ではないけれど、新生児医療の急先鋒、精鋭集団NICUナースチームの皆さん。
チアノーゼ系心疾患児ながら低体重児ママの度肝を抜く体重と声量を誇る娘②を夜勤帯中「泣かせてはいけない」という特命の元、抱いてあやしてサマリーを作成する為のPCを操り続けた娘②第二の母達。
一度卒業してしまえば二度と入室が叶わないあの場所で2カ月半娘②を育ててくださった皆さんには今娘②が11㎏の立派な体躯に育っている事を是非お伝えしたい、
「いつも鳴き声がデカイ娘②ちゃん」は2歳になる今日も健在です。
六人目 小児病棟 長期療養棟ナースチームの皆さん
知識量、経験、俊敏さ、屈強さ、そのすべてが五階随一。戦場最前線の精鋭のナース達。
娘②のルート外し、血圧測定絶対拒否、創部の搔きむしり、CVC自己抜去未遂、数々の暴挙に臆する事なく、毎回娘②の成長をともに喜んでくださる病棟の天使達。
「何かわからないけど変なんです」
そう言う患児の母の言葉を絶対に袖にしないで、逃げようと画策するドクター、それが大御所だろうが若造だろうが兎に角ドクターの、その襟首をつかんで病室に引っ張ってきてくださるあの雄々しい姿に、何度救われたか分りません。
次にお会いできるのは予定通りなら年明けになります。
その時は覚悟し...何卒よろしくお願い致します。
七人目 小児心臓外科医 K先生
娘②の手術を全て担当して下さる、人呼んで『家に帰らない男』。
私が勝手にヤマナカ先生(iPS細胞研究第一人者・山中伸弥教授似)とお呼びする信頼と安心の実績のドクター。
11時間超のオペの後、1週間以上患児の術後安定まで帰宅せず、4階に住み着いて術後感染症と急変に備え、挙句小児病棟に移った一日目に娘②の様子を医療廃棄物のごみ箱の背後に隠れて見守っていた姿を見た時には私が白目をむいたものです。
娘②の心臓手術を執刀可能な院内唯一の医師、愛用のラパポートタイプの聴診器を片手でぎゅっと温めてから娘②の心音を聞く姿には愛しか感じませんが、是非ご自身の事も大切にして頂きたい、
と患児の母は思っています。
8人目 小児循環器医 H先生
前回入院時に娘②の主治医を務めた若き小児循環器医。
採決ルート取りその他刺したり刺したり刺したりが達者すぎて、娘②を刺しまくる羽目になり、現在超絶娘②に嫌われてはいますが、先生が「小児循環器医」として外来枠を一つ増やしてくださった事はあの大学病院にかかる私達心疾患児の母全員の喜びです。
もう絶対絶対他の病院に行かないで。
そして、次のカテーテル入院の時も病棟での主治医もH先生だそうです。
多分蹴ります。
今からお詫びします。
9人目 医療コーディネーター Kさん
新生児期から、娘②の各種補助保険手帳、地域連絡すべての手続きのパイプ役を務めてくださっている水川あさみ似のKさん。
主治医の連絡不備で初回の退院通達が退院日1日前になってしまった日のあの鬼気迫る主治医への質問確認伝達は記憶に残る所ですが、2回の手術経て娘②の医療的ケア状態が変わるごとに
「呼べばその5分後にやってくる」
その姿はもう院内の御庭番・隠密です。退院時に病棟で見送ってくれる姿がいつも凄く嬉しい
また次の入院でお会いしましょう。
その他、オペ室、麻酔科、リハビリ科、地域定型室、そして児童発達支援、支援コーディネーター、娘②が大好きな酸素ボンベ交換のおじさん。
あと、ツイッターで『私は娘②の親戚のおばちゃん、お姉さん、おじさん、お兄さん』を自称して娘②の姿言動を愛で、そして心配くださる貴方。
本当に多くの方が娘②のこの2年を支えて頂きました。
その事への感謝はいつもいつでも文字数が限度額いっぱいの私にすらもう書ききることが難しい位です。
そしてとりわけ、娘②の心臓を生後2カ月から今日までつぶさに診続けて下さっている主治医Y先生を最後の10人目として記したい
と思います。
10人目 主治医・小児循環器医Y先生
もうブッキラボーで説明が雑…じゃなくて大まかで大雑把な事がむしろ味な小児循環器医。
担当1年目の去年は恐ろしくて影も踏めない往年のハンサムに、娘②は何故か割と懐いていて心音を聞くために胸にあてがった聴診器を叩き落とさない医師二人の内のお一人。
もうお一人は執刀医のK先生。
娘②はもう誰が自分の人生に大切な人なのかを分かっているらしいです。
Y先生は、診断書予防接種採決些末な事は全て忘れがちでも急変と緊急事態には即駆けつけてくださる脊髄反射の小児科医。
もう信頼以外ない。
先生にはつい数日前の定期の循環器外来でお会いした際にこの文章の中ではなくて
私と娘②から直津お礼を伝える事ができました
診察の一番最後、先生が来月の予定を
「じゃあ次は1月のこの日と、あとこの日で」
そう仰った後、私は間伐入れずに
「先生、今度の日曜日に娘②、2歳になるんです」
「ありがとうございます。娘は無事2歳になれそうです」
そう早口で伝え
そして私はこの日の為に、月齢よりかなり言葉の遅れの目立つ娘②に密かな特訓をしてきていました
「ほら、娘②ちゃん、先生になんていうんだっけ?」
そう促すと娘②はちょっとはにかんで
「テンテー」
「アートゥ」
先生、ありがとう。
通じたでしょうか。
件の往年のイケメンは不意を突かれてほんの少し驚いて
そして
これはあくまで私見ですが
少し微笑んだように思います。
先生ありがとうございます。
娘②の心臓は、この12月8日、生まれてから無事2年目を迎える事が出来そうです。
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