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納豆禁食人。

納豆とお別れしてもう半年が経つ。

私と3歳の娘の大好物だった納豆。

10歳の娘は「まあまあ好きな方」と主張する納豆。

3代続く完全無欠の関西人の夫にとっては、あまりにも馴染みが無くて全然興味が無いからあっても無くてもどちらでもいいらしい納豆。

偏食で名高く、12歳になった今も食べられる物自体が極端に少ない息子にとっては

「俺は生涯食べなくていい、糸引いてる豆なんて」

そう主張する納豆。息子、君はたぶん全日本納豆共同組合連合会(※1)を敵に回した。



我が家の食卓から納豆が消えたのは、今年の春のこと。それまで幸い娘は、毎月の血液検査のついでに年数回確認している特異的Ige抗体(※2)が結構高く、『各種アレルギーには注意が必要』とは言われていたものの、食物アレルギーは無し。卵や乳製品や大豆、普段からよく口にする類の食品にアレルギーがある故に毎日の食事が大変な子どもとそのママパパの苦労は一切知らないまま暮していた。

娘は、諸事情があって1歳半まで経管栄養と言って、細い管を鼻から胃に通して栄養を流し込む方法で『食事』をしていて、ちゃんとお口から食べ始めた時期が人より遅いせいか酷い偏食ではあったけれど、何を食べてはいけないということは一切無く、あと『3人兄妹の3番目』という親が最高に育児に大雑把になってしまう生まれ順と、それから先天性の心臓疾患を抱えて生まれて来たという特殊事情もあって

「手づかみでも良い、たくましく育ってほしい」(※3)

「あと、全員生きていればヨシ」

『理想とか夢とかUniversity of Oxford(※4)とかそういうのは全然どうでもいい』と言う投げやりで低い志のもと、特に食事に関してはお行儀も躾も後回し、なんでもいいから食べて大きくなってくれたらまずはそれでと、時には兄と姉のお皿に領海侵犯までしながら自由奔放に好きな物ばかり食べていた。でも3度目の心臓の手術で心臓の右側に人工血管を通した事で、私はその雑な方針に少し方向転換を迫られることになった。



「娘ちゃんの下大静脈と、肺動脈を繋ぐために入れた人工血管は、人工物ですからどうしても中に血栓、血の塊ができやすいんです、それが人工血管を塞いでしまうと娘ちゃんは循環が保てなくなりますからそれを防ぐためにこの先、ずっと抗凝固薬、娘ちゃんの場合はワーファリンというお薬を飲んでもらいます」

「ずっとと言うと…」

「ワーファリンがまた別のお薬に代わる場合もありますが、血栓を防ぐためのお薬を服用するという事については、一生です」

「いっしょう」

3度目の大きな手術が終わり、娘の病床がICUから一般病棟にお引越しをして、体調の安定とリハビリを経て「退院に向けての準備」が始まった時、この『一生抗凝固剤服用宣言』は執刀医の口から正式に言い渡された。

と言ってもこれまでも娘は、生まれてからずっとアスピリンに利尿剤に肺血管拡張薬に、あと何だっけ、とにかく毎日食後3回きっちり何種類かの薬を飲んできたので、この先も内容に変化をつけつつずっとお薬の服薬は続くし、その管理をするのはこの子が大人になるまで私か夫、そういうことは仕方がない事だと思っていた。それに先天疾患児の界隈で1回3~4包のお薬の服用は割と少ない方だ。でも先生は続けて

「このワーファリンというお薬は、ビタミンKを多く含む食品を摂取すると薬効が弱まりますから、今後は食べさせないようにしてくださいね」

笑顔でそんなことを言った。ビタミンKを多く含むものはこの先、心臓に人工血管を入れている娘には『食べるな危険』の禁忌食品ということになるらしい。人工弁なんかを入れている人もそう。そういう人は、手術の前は毎日普通に食べていたのに突然食べてはいけない物がいくつかできることになる、それはちょっと面倒かもしれないなと思った。私が生来雑な人間なので。

そうしたら更にその後、薬剤師の先生が退院後の服薬指導の為に持って来た患者用の小さな冊子には

『納豆、クロレラ、青汁などビタミンKを多く含む食品、セイヨウオトギリソウ(※5)はこの薬の作用を弱めますので、食べたり飲んだりしないでくださいねっ!』

可愛らしいイラストと共にそう書かれていた。え、セイヨウオトギリソウってなに?食べ物?それからクロレラと青汁が禁止となると一生キューサイ(※6)とは縁のない人生を送ることになるの?そういうの『しないでくださいねっ!』みたいなノリで一生禁止にするの?軽くない?

この時、いつも入院すると必ず服薬状況を聞きに来て、新しい薬が処方されれば丁寧に説明に来てくれる小児の薬剤師(※7)の先生はその冊子を私に向けて開き

「娘ちゃんはまだ3歳ですから、青汁とかケールとか、そういう健康食品を食べたり飲んだりする機会はあまりないでしょうし、普通に食卓に乗るような野菜でワーフアリンの薬効を妨げるレベルにビタミンKを摂取しようと思うとそれこそ結構な量が必要なので、そこまで神経質になる必要はないと思います。そもそも野菜もあまりお好きじゃないんですよね。でもお母さん、納豆、あれはダメです、一粒でもダメです」

納豆ダメ、ゼッタイ宣言を下した。この薬剤師さんは、米村でんじろう先生に似た温厚な笑顔の紳士なのに言う事が意外ときびしい。

でも本当に納豆は少量でもワーファリンの薬効を阻害するのに十分な力を持つらしい。そう言えば、日本酒の杜氏も納豆は食べないとか、納豆菌に日本酒の麹菌が負けてしまうそうだ。同じ理由でチーズを作る職人も作業の前日と当日は納豆を食べてはいけないらしい。もしその禁忌を破る事があれば、その人は簀巻きにされてサイロ(※8)の中の飼料の下深く埋められるとか埋められないとか。

娘の場合、杜氏とチーズ職人が恐れる納豆菌そのものが問題というよりは、もともとビタミンKの含有量の多い納豆は、更にワーファリンの薬効を阻害するビタミンKを腸内で生産してしまうから、ということらしい。すごいな納豆、でもそういうの余計な気遣いだから、別にやらなくていいから。

とにかく、娘はこれでワーファリンを服用している間は一粒でも納豆を食べてはいけないという納豆禁食人になった。納豆禁食人、私の造語だけど。なにやら必殺仕事人の響きすらある。

娘があんなに好きだった納豆。摂食リハビリでお粥にまぜこんだりして散々お世話になった納豆。完全に経口の食事だけになった頃、ちょっと目を離した隙にひきわり納豆を頭からかぶって自分の頭を洗髪さえしていた納豆、あの時はかなり焦ったし叫んだ。納豆の匂いとねばねば、あれが頭髪に付着したあの時は、娘が大好きなスライムが髪にくっついた時並みに大変だった。たまに回るお寿司のお店のお持ち帰りで頼む納豆巻きも大好きだったのに。

神様、この先娘は回転寿司で一体何を食べたらいいのですか。

尚、代替をご指定いただく場合はウニとかトロとかその手のお皿の色がやたらと華美なものを指定されると困ります。

ただ、神様もそこまで非情ではないようで、ビタミンKが禁忌食品にならない新しい抗凝固剤は既に世の中にはちゃんと存在しているらしい。でも今まだ通院の度に採血をしては薬の量を調整している段階の娘がいきなり薬の種類を変えるというのはちょっと難しい。抗凝固剤は量の調節がとても難しい類の薬品なのだそうだ。娘は当面は納豆禁食人をしながらワーファリンとのお付き合いが続く。

納豆禁止令が出された時既に3歳3ヶ月だった娘は、納豆のパックの形状も納豆巻きの名前もしっかり記憶していたので、例えばそれを冷蔵庫に密かに隠し持って、夜中こっそり食べるはちょっと難しかった。当時も今も娘は踏み台を使って勝手に冷蔵庫を開けてしまう子だし、何より子どもが病気で好物を食べられなくなったのに親の私がそれを隠れて食べるというのもなんだか気が引けるし申し訳ない。

それで私も時を同じくして納豆禁食人になった。納豆が比較的好だと言う10歳の娘には

「申し訳ないけど、娘ちゃんが『これは食べちゃダメなのよ』って言って分かるようになるまでは納豆は給食で食べると言うことでお願いします」

そう言ったら

「お母さん、給食に納豆出ないよ」

と言われてしまった。関西か、ここが関西だからなのか、それか大豆アレルギーの子ども達への配慮か。娘の通う小学校でこれまで納豆が出た事はないらしい。もう隠れて食べるしかないな。それかもう少し世界が平和になったらパパと2人でこっそりお寿司屋さんに行ってきなさい、回る方の寿司に。



ところで私は納豆は小粒派で、そこに細く切った烏賊のお刺身とアボカド、紫蘇とそれから胡麻、中央に卵の黄身をのっけて、くるくる混ぜて食べるのが大好きだった。とにかく薬味は山のように乗せる派、というより納豆の中に何でも放り込む方。

3歳の娘はひきわり派で、薬味は基本的には入れないけれど、小さく切った海苔に巻き巻きして食べるのがお気に入り。

それも暫く食べられない、永遠じゃないとは思うけど。いつだったか心臓病患者家族の団体の冊子に「死ぬ前に食べたいものは納豆ご飯」という成人した心臓疾患児の人のせつない言葉があったけれど、今、超わかる。普段から安いし、どこでも売っているし、気軽な食べ物だと思っていた物ほど

「食べてはいけませんよ」

と言われると余計食べたくなるものだなと思う。

さて、今週の通院で娘はまたいつも通り血液検査がある。ワーファリンの量を決めるPT-INR値は安定しているだろうか、納豆がまた人生に戻ってきたら、いくらでも買ってあげるから、その時にはお兄ちゃんにちょっと嫌がられながら、お姉ちゃんとお腹いっぱい食べよう娘。

【脚注】
※1)納豆にも事業組合があるのかなと思って調べたら本当にあった。所在地は意外にも東京都荒川区『納豆のことなら何でも解る』という頼もしすぎるサイトも。
※2)アレルギーを引き起こす原因物質(アレルゲン)を特定するための検査、これをお願いすると普段より多めに採血されるので、娘も普段より多めにキレる。
※3)1970~80年代の丸大ハムのCMのキャッチコピー。私も厚切りハムを焚火で焼いて食べたい人生だった。
※4)オックスフォード大学。言わずと知れたイギリスの名門大学。うちの10歳の娘にホグワーツ魔法魔術学校だと言って画像を見せたら信じた。ごめん嘘だ。
※5)平安の昔、ある鷹匠が、鷹が傷ついたときの治療薬として密かに弟切草を使っていたのを、ある日弟がうっかり他の鷹匠に秘密をバラし。これに怒った鷹匠は、弟を斬り殺したという逸話がその名の由来。止血の作用がある。抗凝固剤とはどう考えても相性が悪い。
※6)八名信夫の「まずい、もう一杯」のあの会社。そんなに不味いんだろうかあの青汁。飲んだ事ない。
※7)小児薬物療法認定薬剤師。地下の薬剤部から中学校の理科の先生みたいな人が来る。やさしい。シールをくれる。
※8)飼料など各種物資の能率的な集配と貯蔵のためバラ積み方式の容器を用いた倉庫。『動物のお医者さん』で二階堂がサイレージ(牛用の干し草)埋まりかけた事で有名。

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