『きょうだい児』を育てるという事と娘①の話

私には、3人子供がいる。

手前味噌で大変恐縮ですが、どの子も皆可愛い(当社比)。

そのうち2人は障害者手帳持ちの障害者だ。

第一子である10歳の息子が、発達障害で精神障害者福祉手帳3級。

第三者である1歳10ヶ月の娘②が、心臓機能障害で身体障害者手帳1級。

息子は障害故なのか、本人自身の元々の性格か、山下清画伯並みに自由奔放な行動と豪放磊落な発言で周囲を翻弄し

娘②はナチュラルボーンな心臓の状態ではそもそも長期生存に全く不向きな為、ちょっと風邪を悪化させては救急車に乗ってみたり、たまに肺炎で死にかけるなど、親を精神的心不全に何度も追い込んできた。今は外付けハードの酸素ボンベを背負って生きている

これぞ

家庭内インクルーシブ。

多様性の自家発電。

ただ、こういう話を人に

「ウチの子、障害があります」

など話しても、相手は少し考えて『そんな風に見えない』と言われたりする。2人とも外見上はちょっと分かりにくい障害者だ。

そして余談だが、この手の話をすると『食事療法で障害が治る』とか『ご先祖様を祀る事で幸せが』とか『お題目を唱えろとか』あと『壺買え』とか言う人が何処からともなく現れる。

私はそんな人を、現実に目の当たりにした時

『これが噂の...!』

と全身が震えたものだ

これ!進研ゼミにあったやつだ!

みんなは気をつけようぜ。

何をや。

そんな訳で、私が産んだ子の内、健常児は中間子の娘①だけという事になる。

娘①は現在8歳の小学2年生。

『穏やかでクラスのお友達と決して諍いを起こさない』と担任に賞賛される気性と、初見の相手に一切警戒心を抱かせないこけし顔。

すみっこぐらしと、ハーゲンダッツストロベリーとチュールレースのスカートをこよなく愛し、暇があればお絵かき帳に絵を描いているか、私が買ってきたドラえもんを読む。

平日の習い事は、ピアノとそろばん教室

そしてそのピアノ練習とそろばんの宿題は大嫌い。

やりなさいよ。

超絶寝起きが悪く、8時が集団登校の集合時間のところを、7時40分にむっくり起き出し、悠然と朝食に

「カップスープと、ハチミツのトーストが食べたいの」

というオーダーを出す。

虫も殺さぬ見た目で傍若無人。

呆れるほどのマイペース。

それが我が家唯一の健常児。

娘①。

『きょうだい児』

という言葉がある。

『障害児の兄、姉、弟、妹、等のきょうだい』

を指す言葉で、障害児をきょうだいに持つが故に、幼少期は両親から構ってもらえなかった。重い疾患のあるきょうだいが度々入院しその間1人で寂しかった。介護要員の1人になった。そしてその事がその後の人生の足枷になった...

少しインターネットで検索をかけると、きょうだい児当事者達の様々な声を聞くことが出来る。

大体があまり心楽しい話では無い。

私がこの『きょうだい児』という言葉と、その意味を明確に知ったのは、心臓疾患児の娘②が誕生し、それと大体時を同じくて息子の発達障害が診断確定した後で

多分、心臓病の子供を守る会発行の『心臓病児者の幸せのために』という大判の専門書籍の『きょうだい支援』の項目で「入院中の心疾患児の兄弟への支援をどう行うか」という論文の中でだったと思う。

それを一読した私は「そう言えば娘の②の入院先にも、病棟のエントランスに日がな一日DSをしながら付き添いのママを待ってる子がいたなあ」と思い出し

ではうちの子達もきょうだい児なのかと思った。

そして

更に追加で思い至った。

娘①はちょっとやばくないか

息子と娘②は互いが障害児故に相互作用し合うきょうだい児なので、何と言うか相身互い、相殺されてお会計0円感溢れるのに対し

発達障害児の兄と、心臓疾患児の妹に挟まれている娘①はゴールドカード級でかつVIP対応、ホテルに泊まればジュニアスイートでフルーツ籠盛りワイン付きに該当してしまうのでは。

しかも、私が『きょうだい児』を認識した時、既に娘①は7歳。

と言うことは気づいたその段階で既にきょうだい児歴7年ということになる。

にわかとは違うのだよ、にわかとは。

そう思って娘①のこれまでの生育歴を思い返すと、あれもこれも『きょうだい児』事例として思いつく事ばかりで、そう思えば思うほど、私は将来大人になった娘①に

「子供の頃、お母さんには酷い扱いを受けた」

「お母さんなんか大嫌い」

恨みつらみを切々と語られても仕方ないような気がしてきた。子が7歳の段階で『育て方超間違ってますよ』という途中式の答え合わせをする羽目になるとは

私は、何やら速攻で穴を掘ってそこに埋まって暫くそこから出て来たく無い気持ちになったが

出てこい。

基本の思考回路が生真面目成分70%位で出来ている私はこの件を良く掘り返して考えようと思った。

というかそうするべきだろう。

逆に言うと精神的に凄いマゾヒスティックと言うか

兎に角嫌でも現実は直視し、明るい明日に向かわなければ、娘①に申し訳が立たない。

そして、そうでもしないと将来このマイペースながら穏やかで優しい娘に嫌われてしまう。

私は娘①をどう育てて来ただろう。

何より、この先、なにかと手のかかる障害児に挟まれた『普通の子』をどう育てたら良いのだろう。

私は

思い返してみる事にした。

そして今この文章を書いていてる。

娘①は息子と学年は3学年違い、正確な年齢差としては2歳5ヶ月差になる。

それは、あの悪名高い『魔の2歳児』が胎児期から新生児期に兄として娘①の上に君臨していたと言う事で

しかも、後にADHD児である事が判明するこの兄の当時の破天荒な暴君ぶりは凄まじく、初孫として目の中に入れても痛くないと公言していた私の母をして、

「鬼の子や...」

と言わしめた恐怖の衝動性に支配された多動児だった。

なので娘①に自身の胎児期や乳児期について本人に

「あたしが、お腹にいる時とか、赤ちゃんの時はどうだった?どんな感じだった?」

と目を輝かせて聞かれても

「娘①ちゃんの胎児エコーの時、2歳だったお兄ちゃんが、産院のエコーなどのお高い医療機器を手当たり次第しかも執拗に蹴りまくり診察室でキレたママの血圧が上がった」

とか

「娘①ちゃんを産む時、富山のばぁばの家に居たんやけど、ちょっと目を離した隙にお兄ちゃんは裏の田んぼに落ちるわ、庭の犬小屋に籠城するわで大変だった」

とか

「ついでに、ばぁばの家のキナちゃん(柴犬)に1日中粘着して付きまとい、後日キナちゃんがストレスで吐いた」

とか言う兄の恐怖の逸話ばかりで、胎内の娘①に『私がママよ』と話しかけた覚えも、胎教の為にクラッシック音楽をゆったりと鑑賞した覚えも

全くもって一切無い。

なので話すネタが無い。

娘①の出生後は出生後で、隙を見せると公道に飛び出して無自覚に死のうとするか、初対面の同年代の子に攻撃を仕掛けるかという粗暴で危険な2歳児と化した息子を追いかける為に、娘①は首もロクに座らない内から私の背中に背負われていて乳児期の思い出も霞がかかっているかの様にほぼ記憶に無い。

多分ここまで私の記憶の中から何一つ娘①のそれらしい思い出が見当たらないと言うことは、それなりに手のかからない育てやすい子だったのだと思うけれど、あまりに正直に『覚えが無い』などと言う事実をありのまま話すのも本気で申し訳なく

「か、可愛かったよ..すごく大人しくて..」

などと適当を溶かして煮詰めて固めたみたいな話しかしてあげられていない。

尚、今、この文章を書く為に引っ張り出してきた娘①の母子手帳の記載は、息子にそれ比べて相当な内容の薄さであった。

誠に申し訳ない。

それでも、当時のアルバムなどをひっくり返してみると、記憶は薄くとも写真に残っているところでは、子供達を旅行に連れて行ってみたり、お祭りに浴衣を着せて連れて行ってみたりはしていて、この時期はまだマシだった。

と、思う。

問題は、娘②が誕生してからだ。

娘②が生まれたのは、娘①が幼稚園の年長さん6歳の時。

ここまで息子に手を焼いて娘①の育児をおざなりにしてきた癖に、私は3人目の子を悩んで悩んで、そして望んで産んだ。

生来、懲りない性格なのが災いしたのか幸いしたのか。

赤ちゃんは可愛い、子どもは何だかんだで面白い、娘①も息子もあと1人妹か弟がいたらなあと言うし

兄と9学年、姉と6学年、これだけ年の差を開ければ何とかならないかと思った。

結果、

大敗。

娘②はグレードとしては『重度』の心臓疾患児として産まれ、それは勿論尊い程に可愛いかったが、とても私1人の手に負える乳児ではなかった。

『健康な子供が第三子として子育てにそこそこ慣れた母親の元にやってくる』事だけを想定していたいちいち脇の甘い我が家は、これで大混乱に陥った。

何故私の人生はこんなにドロナワ式なのか。

それでも、娘②がNICU入院中、母親の私が通いで面会だった頃はまだ良かった。

問題は、小児科病棟に転棟して完全付き添い24時になった後だ。

転棟して付き添いが開始されたのが2月26日。

そう、それは年度末。

年長児の娘①には3月上旬に卒園式が待っていた。

それ以前にも卒園に関するイベント、新入学の準備が山盛りあったが、それは夫と、実家から応援に来てくれていた母に丸投げしていたものの

卒園式は、まさに年度末決算期真っ只中で、夫は『どうにも仕事が抜けられない』と娘①の人生の一大イベントは私1人に託された

しかしその時、私は娘②共々入院中。

この『娘①の卒園式に両親欠席の危機』の事実が判明したのは、NICUで娘②の病棟引越しの引き継ぎと相談をしている真っ最中だった。

娘①は、妹の入院24時間付き添いの準備に忙殺される母親を見ていて6歳ながら思うところがあったのか、それとも卒園式をちょっとした参観日位に捉えていたのかそれはわからないが、突然

「卒園式の日は娘②ちゃんのつきそいがあるんでしょ。」

「じゃあ卒園式はあたし1人でいいよ」

そう言って、私を驚かせた。

えっ?いいの?ダメでしょ?

その発言は母親の私のみならず何故か全NICUのスタッフを、主に子持ちのマダム達を泣かせたものだった。

健気、可哀想、そんなんあかんやろと。

そして

そんなNICU主任を筆頭にしたマダム達は小児病棟に掛け合い、卒園式当日は娘②をあの1年365日24時間何時もいつでも人手が足りない戦場の小児病棟のナースステーションで預かってもらう事を確約させて来た。

話し合いは最後主任同士の龍虎の戦いになったらしいが、ここはNICUに軍配が上がった。

おかんパワー超強い。

私はこの両病棟の、マザー達の尽力により3月の吉日の娘①の卒園式出席の切符を手に入れたのだった。

娘①もとても喜んだ。

そして私は『親が卒園式に来る』という至極当然の事に喜ぶ娘①を見て申し訳なくて涙した。

あの時は皆さんありがとうございました。

私は、あらかじめ黒の卒園式用のツーピースとハイヒールを病室に持ち込み、当日は病院から幼稚園に直接向かう事にした。

そしてその頃実家から自宅に残された孫の世話をしに来てくれていた母に『卒園式の登園時間に娘①を幼稚園まで送って欲しい』と頼んだ。

その後母は式が終わったら娘①を引き取りに来るという算段で。

しかしこれがなかなかな事になる。

娘①の卒園式のその頃、生後3ヶ月だった娘②は1度目の手術を受ける直前の生まれた時そのままの心臓と血液循環ではたちまち天に召されるような状態で

ざっくり言うと、娘②の心臓とその周りの血管は静脈血と、動脈血を分けて循環させるという基本システムが成り立っていない状態で

その為、取り敢えず手術迄、肺血流の循環の為に本来は胎児期にのみ存在している肺動脈と大動脈をつなぐ『動脈管』をプロスタグランジン点滴を使ってずっと維持し続けていたが

これ、本来は長く使って良い技ではないらしい。

指導医の影響なのかいちいち、どストレートな物言いしかしない当時の若い担当医先生は

「ルートを取っている血管が詰まって、それで点滴が身体に行かなくなって動脈管が閉じたら終わりです」

と言って、毎日毎日娘②に聴診器を当て、動脈管の開存と点滴ルートを取っていた左手の確認をそれはそれは入念にしてくれていたものだった。

娘②は多分この時の執拗な、もとい丁寧な聴診器アタックのお陰というか副作用で、2歳近い今、主治医と執刀医以外に聴診器を当てられると怒りと共に叩き落す。

そして私は

「『終わり』は言いすぎや」

と、ピジョンの哺乳瓶(※プラスチック)で担当医先生の後ろ頭をパカーンとやりたい衝動に駆られていたが

まさにこの卒園式の日の早朝

本当に点滴ルートが詰まった。

というか、長く点滴を入れ続けた結果、その点滴を入れている乳児の細い細い血管が潰れた。

これでは肝心のプロスタグランジンが身体に回らない。

私が異変に気がついたのは朝6時頃だったか、普段は起きて即、大音響で泣くはずの娘②が覚醒しているのに妙に静かでおかしい

そしてナースステーションからナースが飛んできた

『娘②ちゃんのSPO2がとんでもなく低いけど、ちゃんと機械付いてますか?』

娘②はこの時、24時間心電図とSPO2即ち体内の酸素飽和度を計測されていたが、それは一定の数値を上回るか下回るかするとナースステーションのモニターのアラームが鳴るシステムになっていた。

が、入院経験のある方はお分かりだろうが、小児病棟なんて言うものはいつもいつでも患児誰かのアラームが複数鳴りっぱなしの場所で

ついでに乳児は四六時中手足をバタバタさせているので、足や手の指にテープでくるりと巻いたSPO2計測の為のコードはすぐに抜け、正確に測れていない事が多い

そのナースも、いつも足癖の悪い娘②がまた何かしたのかと来てくれたのだがこの日は違った

娘②の顔色はこの時かなり悪く赤紫色で、計測値の低くなりやすい仰臥位(仰向け)から慌てて身体を斜めに起こさせても数値は全く変わらない、何より本人が大人しすぎる。

この時のSPO2値49%

健康な人は100〜96%のこの数字、当時の娘②は平素75〜70%位だった。

手術前に薬で無理やり動脈管を開いて肺循環を保っている娘②のSPO2は普段からフラフラと上がり下がりはしてはいたが、この時は低いまま全く上がってこない。

これはおかしい。

「これ、変です絶対なんかおかしい」
「先生呼んでください」

私は医者でも看護師でもないが、この時の『おかしい』は何故だか分かった。

そしてナースも特にベテラン勢は『お母さんのおかしいは絶対』と信用してくれているフシがある、ナースは詰所に飛んで行って当直医の襟首を掴んで連れてきてくれたが

それはあの口の滑る担当医先生だった

お前かよ。

いや、彼は口が滑るだけで熱心な良いドクターだったが、研修医明け1年目で勿論、循環器の専門医ではない為

この深刻そうなフェーズでナースに呼びつけられても動脈管の残存を確認し

「..定期的な心雑音(動脈管開存の証)が微妙」

と青くなるしかなかった、頼みのベテラン小児循環器医・主治医スティング先生(あだ名、私がつけた)は今日は関連病院の外来の日の筈だ

しかも早朝。

まさか今、ここには

「娘②ちゃん、どうした?ルートの詰まりか?今すぐ処置室運んで」

いた。

なんでおるんや。

これが私が、主治医スティング先生を「説明が雑」「予防接種のオーダー忘れがち」などと小出しに文句を言いながら、その実、全幅の信頼を置いている所以だ。

土壇場に必ず現れる

そして必ず何とかしてくれる。

「レントゲン呼んで」
「エコー持ってきて」
「やっぱり血管潰れてるか」
「足からルートとり直せ」
「何?俺は入れへられへんぞこんな細い血管」
「NICUからM(娘②の最初の主治医・新生児科医)呼んで来て」
「よっしゃ入った、固定しといて」
「お母さん呼んで」

この間30分。

脊髄反射の処理速度。

超絶怒涛の現場指示。

ルート取りは弟子任せ。

私は、この間ずっと腹を空かせたヒグマの如く廊下を所在無くウロウロしていたが、やがて全てが終わって処置室からやれやれと言った風情で出てきたM先生にまずお礼を言い

当の先生は少し恥ずかしそうにニコっとし、会釈をしつつ自宅...じゃなくてNICUに戻っていった。

そして、朝食配膳前の地獄の検温血圧測定追い回しの時間にエライ目に合わせてしまった夜勤帯のナース達にもお礼を言いスティング先生にも最敬礼で御礼を

「ありがとうございま」

「す」と言い終わる前に先生は「もう大丈夫やから」と言いながら走り去ってしまった。

忙しいが過ぎる。

兎に角良かった、本当にルートって詰まるのか、早く手術日が来て新しい人工血管とやらを入れてくれないだろうか。

そう思って娘②を部屋に連れ帰って、ベッドに寝かせると、日勤のナースで当時この病棟チーム唯一のマザー看護師だったMさんが

「ママ!時間大丈夫!?」
「卒園式やんな?」

覗きに来てくれた。

時間..?

全然大丈夫じゃないですね!

私の記憶が確かなら、卒園児と保護者の登園時間は共に9時。

この時、全てが終わって気づいた時にはもう時間は8時を回っていた。

そしてこの時、あの朝の大騒ぎに忙殺された私はまだ寝巻きだった。

どうしよう、そうか、まず母に連絡を入れなければ、私は母に『朝色々あって出発が遅れそうなので、娘①を事情を話して先に教室に入れておいて』と伝え

高速で黒のスーツに着替えた。

化粧はもう眉毛くらいしか書く暇は無い、大丈夫、私の顔を見る人もそういないだろう、今日の主役は娘①だ。

そして娘②の紙おむつや着替え、身の回りの物を小さい袋に入れて

「これお願いします!」

郵便物を渡すかの如く、今朝方若干死にかけた筈の娘②を先ほどのナース、マザーMさんに渡した

娘②は思っただろう

『扱い最悪』

けど今日は仕方がない。

「ほい!任された!行っといで!」

Mさんの景気のいい返事を背に走り出したのはもう8時半を過ぎていた

この肝心の日のアクシデントの中、1つだけ私に神が味方したのは、病院と幼稚園が大人の足で15分位の立地だった事だ

ただし、走れば。

まだ通勤する人で混み合う街中を、全力疾走する礼服でほぼすっぴんの40がらみの女

怖い。

致し方ない事と言え、前日電話で娘①にあんなに「ママ遅れないで来てね」と念を押されたのに

娘①に申し訳なくて申し訳なくて、子供時代鈍足で名を馳せた私は、この日多分人生最高速度で走ったと思う。

息を切らせて幼稚園までの坂を登り最終コーナーを曲がると

娘①がばぁばを伴って、幼稚園のシンボルであるマリア様の前で待っていた。

仁王立ちで。

怖い。

聞けば、3月とはいえまだ肌寒かったこの日、ばぁばである母が『お部屋に入って待ちなさい』と何度言っても

「ここでママをまってる!」

と言って聞かなかったそうだ。

そして、ここで娘①が『ママがなかなか来てくれなかった』と言って泣き出したりしたらいたたまれなかっただろうが娘①は

「もおぉ〜!遅れないでって言ったやん!?」

超、怒っていた。

すいませんでした。

強いなお前は。

「しょおがないなぁ、行こう!」

と言って娘①は私の手を取ってくれた、母には礼を言い、私達親子は少し遅刻して教室に入る事ができた。

この日の娘①は『卒園式の髪飾りは白』という謎の伝統ドレスコードの為に私が入院前執念で手に入れた白いガーベラの花飾りを、三つ編みにした髪につけて、とても得意そうに卒業証書を受け取っていた

そして、園庭でお友達や、担任の先生と立派な装丁の卒業証書を片手に写真を撮ると

「はい、ママありがと、娘②ちゃんのとこにいっていいよ」
「娘①ちゃん、ばぁばとサイゼリヤ行くから〜」

あっさり私に帰れと言った

そして、卒園式にサイゼリヤというか何というか。

そうなの?いいの?ママもう諦められちゃったの?

驚いて、そして寂しいような気持ちになったが

実はこれが

「赤ちゃんが1人だと可哀想」

という、この当時未だ直接会ったことのなかった妹への姉としての気遣いだったという事は

「卒園式の日のこと覚えてる?」

と聞いた最近初めて知った。

当時6歳にしてこの気遣い、それは良いのか悪いのか。

それは母親として喜ぶべき事なのか。

そしてこの後、小学生となった娘①の学校行事は4月の入学式から今日まで万事この調子で、冬場インフルエンザが流行り出せば、参観日を5分で切り上げ、運動会も娘②の体調を最優先して参加しても午後には中座したし、酷い時は学校行事自体に参加しなかったりした。

何しろ急性期の医療的ケア付き疾患児、こちらの都合で預けられる施設がそう存在しないのだ。

そして無理を通せば、今度は娘②が体調を崩す。

あと、あの3月の時ほどではないにしても、娘②の緊急事態で娘①を息子共々自宅に長時間置き去りにした事もある。

娘①はその都度「そうなの?わかった〜」とは言ってくれたが、本当はどう思っていたのだろう。

『きょうだい児』は一体どうやって育てるのが正解なのか。

「私は所謂『きょうだい児』だけど普通にきょうだいとは仲良しだしハッピーに育ったよ!」

という屈託のない、明るい話はあまり世に見る事が出来ない。

と、思っていたら

いた。

失礼があるといけないので、お名前は伏せるが、この界隈で有名な、とても聡明で快活な、主に文筆を生業にされている女性だ。

失礼を承知でお嬢さんと呼んでいいだろうか。私よりずっとお若いので。

彼女は、その活動と、文章の軽妙洒脱さ、上手さ、そして彼女自身がとても魅力的な事で注目されているが、私がそんな文章と彼女自身の魅力と共に注目したのは

その彼女の弟さんが『障害者』であること。

彼女は『きょうだい児』だ、そしてその弟さんをとてもとても大切にしている。

というか仲良しが過ぎて、一緒に旅行をし、その様子をツイッターでレポートしていた。

私はこれを、楽しいやら嬉しいやら羨ましいやらでツイートされていたその日ずっとリアルタイムで拝見していた。

この素敵な、そして仲睦じい姉弟はどうやって育ったのだろう、何を食べさせて、どうしたらこうなったんですか?コツは何なんですか?是非お母様に聞いてみたいと思ったら

ご本人の記事があった。

そして、この姉弟のとても美しいお母様は記事にこのお子さんを育てるにあたってとても大切にした事を

『圧倒的な愛で包む事』

と一言で書いていた。

それも圧倒的な

凄い。

でも難しい。

それは、子ども達に黙って台所でコソコソ自分だけ好物シュークリームを食べているような母ではあかんのではないか。

私はそんな風になれるだろうか。

娘①は8歳になった今、6歳のあの頃よりずっと

わがままになった。

何でやねん。

そろばんの宿題はやり渋るし、ピアノの練習はしないし、朝は兎に角起きてくれなくて、そして起きて朝食とその日の髪型に注文をつける。

面倒な事この上ない。

でも少し安心している。

6歳のあの日の、あのまま更に聞き分けの良い娘に育ってしまったら私は今よりもっと図に乗って娘①をいいように扱っただろうし

娘①はそれで卑屈な、というか萎縮した子供になったかもしれない。

お陰様で、この娘①はまだ1歳の妹とケンカもする。

そして負ける。

弱。

先日のピアノの発表会では、娘②が生まれてから初めて、娘②を児童発達支援の施設の一時預かりにお願いして完全に娘①だけのママとして付き添いをした。

娘①は喜んで

超わがままだった。

髪型が気に入らないの、靴はこれじゃないの。

これに付き合うのも愛だろうか。

ピアノは練習嫌いがてきめんに響いて決して聞けるものではなかったが、本人は嬉しそうだった。

そして帰りにマクドナルドのハッピーセットを汚れるからやめてと私が言うのに耳を貸さず、ドレスを着たまま食べた。

ウチの障害児達の育児は、特に娘②の入院手術なんかはまだまだ続くが、間にこういう思い出を頑張って挟んでいけば、娘①は『きょうだい児』として寂しい思いをしたという思い出を楽しい思い出で上書きして

『でも楽しい事もたくさんあったよ』

そう覚えていてくれるだろうか。

それ、結構大変なんやけど、お母さん1人しかいないし。

取り敢えず次は、娘①と一緒にアナと雪の女王の新作の映画を観に行く約束をした。娘②と息子はパパとお留守番だ。

愛とか育児は難しい

うちは私の力量に対して課題が難し過ぎやしませんか神よ

と思わなくもないが

取り敢えず、生来懲りない性格の私は

もう少し頑張ってみようかなとは思っている。

でも、まあもう少しだけ。


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