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うちの母のこと。

母は、思えば屈強なひとだった。
 
東京に育ち、丸の内に勤め、それなのに何故か北陸の寒村に嫁ぎ、さしてとりえのない3人の子を産み育て、実の母を手元に呼び寄せ看取り、近所に住む姑と小姑と良い関係を紡ぎ、フルタイム勤務の会社員として定年を4年延長して64歳でリタイア。

退職の時『お母さん長い間お疲れ様』とメールをしたら

「退職したら、長く悩まされていた肩こりも頑固な便秘もすっかり治った。やはり働くのは身体に悪い」

という機知に富んでいるのか、正直なのかよくわからない、そういう感想を返してきた人だ。この母はいつも自分を評して

「お母さんは難しい事はわからないし、なんにも出来ないから」

と言うけれど、好奇心と探求心の故にわからない事は何でも調べ、そしていちいち関心し、その勤勉さをして30過ぎて勤めた会社でパートのおばちゃんから役付きの社員に昇格、雑巾も縫えない娘の私を見かねて孫のピアノの発表会用のドレスを縫う。主婦として社会人として娘の私よりはるかに有能、そして生来の真面目な性格が行き過ぎた面白い人物だと娘の私は思っている。

そして、この母について冒頭「屈強なひとだった」と記したけれど勿論まだ死んでない。

今日も元気に存命中。1949年生まれの現在70歳、1949年生まれがどういう年代なのかわからない方は、あのハルキムラカミと同じ歳と思ってもらうと、もしかしたら余計わかりにくいかもしれない。

かいつまんで言うと日本が、かの第二次世界大戦に敗戦してから4年後の日本に生まれ、神武景気や岩戸景気などと冠される神々しい経済状況の中に育ち、大体中高生の時期に1964年の東京オリンピックをリアルタイムで観戦、青年期は高度経済成長の只中、全学連とか赤軍とか革命を夢見た若者が日本中で角材を持って暴れていて、そして結婚して子どもを持つ頃、日本経済の狂乱・バブル景気の到来、老年を迎える頃彼らの老いそれに呼応するように日本経済は夕暮れ時を迎える世代、それは『団塊の世代』と呼ばれる。母もその中の1人。今、日本の人口の中では最大のボリュームゾーンであるその世代、その後ろの轍には草も生えないと言われるらしいけれど、当の母に言わせると

「学生運動の頃、お母さんはもう高校を出て勤めに出ていたし、お給料はほとんど家に入れて、洋裁学校の夜学にいくのが楽しみだったの。本郷や三田の学生さんは何をしているのかしらと思ってた。」

あの狂乱の時代の安田講堂を横目に見ておいて、さして気に留めなかったあたりがこの母の恐ろしい所だ。

この母の父、すなわち私の祖父は19歳の長女を頭に18歳の次女これが母、そして16歳の三女と末の長男が10歳という時に4人の子を残して夭折している。

と言っても母は『父の死に際して夢の大学進学を諦めて泣く泣く就職した』という人ではなくて、

「中学で結構優等生だったものだから担任の先生が都内の進学校を勧めて来て、何も考えずにそこに進学したら毎日が勉強に次ぐ勉強でもうほとほとイヤになり、高校を出たら絶対に就職しようと思っていた。先生は都内の国立の女子大などに行き、アナタは真面目だから教師になるのはどうだろうと言ってくれたけど私は絶対に嫌だった」

という事情というか気持ちがあったらしく、娘の私からすれば国立の女子大に行けという事はそれはお茶の水の結構な学校の事なのでは、受けなさいよ、行きなさいよと思うけれど、当時はまだ男女雇用機会均等法の影も形も無い時代、女子は大学進学する事すらあまり一般的ではなかったし、大体折角大学を出たところでその身分にふさわしい職業の選択肢があまりに狭い、だからこそ高校の先生は「教師はどうか」と言ったのだろうけれど母は、それも嫌だと先生の勧めを一蹴して初心貫徹、就職することにしたらしい。

当時女子の就職と言えば花形は「銀行」。だから当時18歳だった母は某都銀を受けた。そして普通に落ちた。理由は見た目が地味で眼鏡だったから。

令和の今ならそんな事が大っぴらに行われたが最後、女子学生は匿名のSNS上でそれを告発し、その企業の採用基準はネットで拡散され大炎上した挙句、企業イメージは地に落ち、株価急落位の憂き目位には合いそうだけれど、当時、女子の就職の決めては見た目だった(母、調べ)。

それで今70歳の母が曰く

「だからお母さんは、あの銀行には絶対預金してやらないの、アンタもしちゃダメ!」

という事で母はあれから50年以上たった今もその事をとても恨んでいて、そして娘の私は今でもその教えの為に何となく、某みず…銀行に口座を作る事ができない。企業採用担当各位はゆめゆめこの母の、光届かぬ深海の如き深い遺恨を忘れないで欲しい。

それで気を取り直して、学校からの推薦を受けて就職したのは都内のああいう会社は何と言うのだろう、ゼネコンとはまた違う、水や鉄道、そして発電所やプラントの建設、ともかくそういう類のものを扱うとてもお固い企業に就職し、経理の事務の女の子として真面目に働く事になった。

その母が「会社の女の子」だった頃の1960年代の末から1970年の初頭、日本経済が飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃に、リアルタイムで東京の中枢、千代田区は丸の内とその周辺に生きていた母の思い出話を聞くことが子どもの頃から私はとても好きだった。
 
 日本史で言うとの教科書最後の項目『現代の日本と私達』、現代社会ならその導入部分位に記載されているこの時代、田中角栄とか安田講堂とか日中共同声明で上野動物園にパンダとかそういう出来事を現場のそば近くで見てきた歴史の証言者の話はミニマムなNHKの朝ドラと言ってもいい、とはいっても普通の女の子だった母の話してくれる事と言えば

「お母さん、経理課にいたんだけど、その当時はパソコンどころか電卓さえも貴重な会社備品で特別な人しか使えなくて、他は全員でそろばんをはじいてた」

会社がそろばん教室とかナニゴトだろうか、全フロア番頭さん状態。

「会議とか契約書とか大切な文書はタイプライターの置いてあるタイプ室の姉さん達の所に行って作ってもらうの」

昭和の古き良き時代、そういうの、サザエさんで見た。

当時、お勤めしている『女の子』はそのほとんどが20代半ばで結婚して退職することが一般的だった時代、タイプライターや計算機、そういう当時の『特殊な機械』を操る技能を司る部署で腕一本でやっているベテラン女性社員は、その20代半ばを大幅に飛び越えている年齢の人が多数派で、男性社員ばかりの経理や営業からは闇雲に恐れられていて、それが当時はたちそこそこの母の目にはとても恰好良く映ったことや、

「社員旅行のおやつを買っておいでというお使いの命を受けて同僚とに日本橋三越に行った時、生まれて初めて『ポテトチップス』というものを食べて、なんておいしいものなんだろうと感銘を受けた」

そういう、その時東京で働いてつつましく暮らしを立てていた20歳前後の普通の女の子が普通に見聞きして感じた事ばかり。

でも三越で何と「量り売りだった」というそのポテトチップス、日本での歴史を紐解くと、日本で初めにポテトチップスの量産を開始したのは『のりしお』が個人的に有名な湖池屋で1967年、カルビーはそれに若干遅れて1975年に販売を開始している。ということで母が18歳の当時まだ袋詰めの既製品はまだそこまで市場に出回っていなかった事がわかる。

それはまさに生きた歴史、そして量り売りのポテトチップスって陳列している間に結構湿気そうで心配です当時の三越のひと、多分余計なお世話だけれど。

そして何と言っても、最も母が歴史の証言者たる逸話は

「よど号ハイジャック事件に会社の先輩が巻き込まれた」という話。

これは母にとっても自分史上最大の衝撃の出来事だったらしくこれまで100万回くらい聞いたし聞かされた。

「よど号ハイジャック事件」は、羽田空港発、板付空港(現在の福岡空港)行きの日本航空351便「よど号」が赤軍派を名乗る9人によってハイジャックされた事件で日本犯罪史上初のハイジャック事件、今から丁度半世紀前の1970年3月31日の出来事。

因みに『よど号』は、この日本航空351便、ボーイング727-89型機の愛称。淀川の「よど号」。その当時は飛行機ひとつひとつに日本の河川に由来した名前があったのだそうだ、空路の移動とその為の旅客機がとても貴重で希少だった当時が偲ばれる逸話だと思う、というより当時のJALの偉い方々の発想が可愛い。

母の先輩であった男性社員は、某放送局の工事受注に際して何やらあってはならないミスがあったという事で、本社経理より菓子折りを持参、山陽新幹線も無かった当時、多分東京−九州間の最も迅速な移動手段であった飛行機に乗り一路福岡を目指していた時、この歴史的な事件に巻き込まれた。

そしてそのことがニュースに流れるや職場は上を下への大騒ぎだったらしい。

その渦中にあった母は曰く

「機内で、人質の持ってた食料は全部没収になったらしくて、お母さんがお使いで買ってきたお詫びの菓子折りも取り上げられちゃったのよ」

その菓子折りは一体何だったのか、母の記憶は曖昧で、今思い出してよと言っても、えー…お詫びの時は虎屋の羊羹が多かったんだけど…位の事しか思い出してもらえなかった。何しろ50年も昔の事、もし母の記憶が正しければ、かの革命家の人たちは、王道楽土を求めて旅経ったあの地で私の大好きな銘菓『夜の梅』を噛みしめたのだろうか、そしてそれはどんな味わいだったのだろう、知らんけど。

普段から机を並べて共に仕事をしてきた男性社員ひとりが、突如として国交のない近くて遠い外国に飛行機ごと連れ去られるという、衝撃の事態に際して、頭がフリーズした母は、当時まだ白黒だったテレビのニュースを眺めながらまた菓子折り買いに行かないとダメかしらやっぱり日本橋三越かしらとばかり思ってしまったらしく、無事解放後、出社した先輩の顔を見た時に少し申し訳ない気持ちになったという。

当の先輩は

「いやあ、まさかこんなことになるとは、お陰で先方には『君も大変だったね』という事でお許しいただけました!」

そう言い放っていたらしく、日本の高度経済成長の屋台骨を支えた首都東京のサラリーマンはやはりなかなか肝が太い。

そしてその先輩こそが今の母の夫、私の父ですと言えば話としては最高に素敵なのだけれど、そんな小説のような話は普通あまりその辺には転がっていない。

当時の母は、それはそれは内気で恥じらいのある乙女で、平たく言うと全然モテなかった(母・証言)らしい。

それでもそこは、猫も杓子も結婚して子を持つことが定石だった昭和のこと、毎日真面目にそして身持ちも硬く働いていたら、ある日親戚のおばさんが見合いの話を持って来た。

そして結婚した、母が24歳の時。

今でも私の実家、北陸の田舎の寒村方面には微々たる数生息していると聞くけれど、この半世紀程前の日本には、親戚中の独身・年ごろの男女をすべて把握して、あっちの次男とソコの長女を取り持つのが良いのじゃないの、という感じにある日突然写真と釣書を持って現れるお見合いおばさんというものが多数存在していたらしい。

よくわからない若い貴方には婚活マッチングアプリの擬人化だと思っていただけると良いかも。

そしてその親戚というお見合いおばさんは、確か母の父の兄弟のつれあいの親戚というほぼ他人、母の親戚筋では有名な人だったらしく、ホラホラあなた、こちらね、ちょっと口数の少ない方みたいだけど良い方よと、話が早々にまとまり見合いと相成った。

相手はまったく見も知らないしかも遠く北陸に実家のある3つ年上の人。全体的に昭和を感じる話ではあるけれど、とにかく母はやめときゃいいのに、このほぼ他人のおばさんの話をハイハイと聞き、そのまま結婚した。

父である。

このお見合いおばさんが父を評して言った「口数が少ない」

それはあっている、正解。でも「良い方」かと言われると娘としてはどうにも承服できない。大体この父は口数は確かに少ないが、この世のすべての事に否を唱える事に命を燃やしているタイプの男で、周囲の人すべてをアイツはダメだ、こいつもダメだ、ついにはもうやんごとなき上つ方すらダメ出しをして、子ども達が何をどう頑張っていても

「フーン、で?」

絶対褒めない、もしかしたら他人を褒めると死ぬ病気なのかもしれない、そんな風に一生反抗期、永遠の14歳みたいな人だ、これは実の子としては結構堪らなかった。

全て過去形で書いているが、父もまた今日も絶賛存命中。そしてこの父こそ、自宅で飼い犬相手にすら威張り散らしていても、外では超絶大人しく、ATMも使いこなすことが出来ず、スマホの扱いはラインはおろかメールも出来ない、母がいなくては夜も明けないというタイプの昭和の父で、母も「うーん…今更生活も替えられないしねえ」と言って結婚生活はずっと続いてあと数年で50年。

なんのかんの言って真面目に働き、子を成し、家を建て、今は気難しい爺さんとして田舎家に暮らしていて、破れ鍋に綴じ蓋とはまた違う、アレだ、アレ、捨てる神あれば拾う神あり。

そんな母の新妻としての生活は、神奈川県の横須賀市でスタートしている。

当時、父がその周辺の造船工場で電気工事関係の技師をしていて、そこの会社の社宅、6畳と4畳半のふすまで仕切られた和室、そこに続く小さな板の間の台所、そしてコンクリ打ちっぱなしの床に緑色のタイルの壁の薄暗い空間、そこの隅に正方形の湯船の置かれた浴室、湯沸かしのボイラーはあのまわしたらカチカチいうヤツ、と言って分かる人は今どの位いるだろう、そういう場所で始まった。

ここでの詳細な社宅の記述には若干の自信がある、だって私はここで生まれているので。

早くに亡くなった母の父、すなわち私の祖父が好人物で色々兄弟や身内の面倒を見ていたら年中手元不如意で、家族六人偶に居候がずっと狭い借家住まい、居候って何?と思うけど何か謎のおじさんが偶にいたらしい、その父も亡くしてからは母、これは私の祖母が住み込みで会社の寮のおばさんをしていて、そこから嫁いたというお家事情のあった母は

「結婚したら、是が非でも持ち家が欲しいと思っていた、だからこそ遠い地方でも『土地』が潤沢にありそうな実家がある人と結婚したのに、これには若干アテが外れた」

という事で、大人しくて清純とばかり思っていた24歳の新妻の狙いは旦那の実家の土地だったらしい。なにそれ怖い。

でも、神奈川にまずは住み着いたおかげで当時その母の母、だから私の祖母の住まいが千葉の市川で、私と私の3つ上の姉はよく電車を乗り継いで泊りがけで遊びに行けた。それに横須賀の三浦海岸の近く、海の香りのする土地での暮らしは結構楽しかったように記憶している。母もよく近所のお友達と潮干狩りに行ったとか、トラックではんぺんやお魚を売りにくるおじさんがいたとか、京浜急行の横須賀中央の駅前に出かけたらアンタが迷子になったとか余計な事も覚えていて、大体アンタは昔から落ち着きが無くて、本当にそういう所は息子君にそっくりだと思うなどと余計な所に話が飛んだりするけど、大体が穏やかで楽しい毎日だったと言う。

その横須賀での暮らしが、5年続いた時、母は突然父に宣言した。

「アナタの実家に帰りましょう」

「帰りましょう」と言ったって、それは父の実家である、けれど実は母の一族の出自は父と同じ北陸、そのご縁での父との見合いだったのだけれど、父の実家の地域とは縁もゆかりもない。そんな母が何故こんな事を言いだしたのかと言えば、この時、父の父、すなわち私の父方の祖父が亡くなり、土地を少し分けるから戻ってきたらどうかという話が出たからで、土地があれば家が建つ、そして庭も畑もついてくるというその話に乗ったからだ。

そこまでして家って欲しいものなのかと、持ち家育ち、現社宅住まいの私は思うものだけれど、人は生まれたその場所に持ちえなかったものに焦がれるものなのかもしれない。

何しろ時代は1980年代の初め、バブル景気が日本に到来する直前、皆先行きが明るい、まだまだ日本経済には伸びしろがいくらもあると思っていたそんな時代。

母は、あの時の自分を称して曰く

「お母さん人生で一番位に頑張ったと思う」

と言う。

向こうで地元のツテを頼って夫の仕事を手配し、そう、この母は持ち家欲しさに夫を転職させた、この時の母31歳、今の私より11歳も若いけれどこの判断力行動力気合どれを取ってもとても何一つかなう気がしない。

この「うーん家を買えと言われても35年ローンで3000万位するものを買って明日死んだらいやだな」とかいう後ろ向きな躊躇と逡巡をして、不動産とは一切縁がないまま42歳になった私とは全く格が違う。そして、土地の相続の為の諸手続き、父はこの手の事が一切できないし、しない。あとは引っ越しの手配。

それをすべてやり遂げて、私と姉が産まれて3歳と6歳まで育った横須賀を後にしたのは、1981年の春の事だった、と、思う、そこは記憶が定かではないのだけれど。その引っ越しの時、荷物は先にトラックが運んで行って、人間は夜行の寝台特急に乗った。

その時乗車したのは、今自分の記憶を頼りに調べたら多分『北陸』で、もう無くなってしまったその上野から金沢を走る夜行の寝台列車は、最近の寝台特急の煌々しい豪華さとは程遠いものだった。

ブルートレインと称されるその名の通り当時の私の目からはほんのり古ぼけた青い車体、その中には昔の電車らしく毛足のすり切れた青い生地に若干金気の匂いのする二段ベッド、その座席に乗り込んだ時、私は二段目が良い言ってと頑張ったのに、母が

「あんたは寝相が悪くてあぶないから」

と一段目に一緒に寝る事になったあのがっかりした気持ちと、夜なのにこの電車はずっと走っているんだねえと不思議に思った事は、あの日母が珍しく買ってくれた紙パックのりんごジュースの味と一緒に結構鮮明に覚えている。

そうして移り住んだ北陸・富山は、春と夏と秋はまだいいけれど

冬がとんでもなかった

温暖化の進んできた最近はそうでもないかもしれないけれど、私達一家がそこに越してきた昭和の末の時代は、毎年の冬、まだ子どもだった私の背丈程の量の積雪があって、それが母を泣かせた。

何しろ冬も温暖で雪なんかまず降らない横須賀から越してきた若い母は、その雪の量に驚き、次に雪かき作業にに泣いたという。北陸の、石川や福井の事まではよく知らないけれど、富山の雪は水分を多分に含んでいてとにかく固くて重い。

スコップで掬い上げると、そのひと掻きが滅法重くて、少しの面積の雪を避けるだけでも相当の時間と労力を要するし、そうやって目の前の雪を懸命に掘り起こしているといつの間にか背後に雪が積もってしまっている。

無限雪かき、賽の河原、シジフォスの岩。

この冬の雪こそが、北陸の人間のあの果てしなく忍耐強いメンタリティを育んでいると私は睨んでいる、そして母もまたその遺伝子を引き継いでいるのかとても忍耐強い人だった、というか根性が座っていると言うか。

1人も知り合いのいない土地に乗り込んで、親戚縁者とそつなく付き合い、専業主婦が希少種の土地で子どもの保育園入園を目途にパートで仕事を始めた。この時の母の働く母の姿は、今の私をはるかに凌ぐ程現代的で、会社に入って即、その職種に有利な資格を取り、数年後勤務態度を評価されて社員になり、新事業立ち上げに奔走している時はあれは確か小学3年生の時、その時なんか風邪で発熱した私を

「また昼に帰って来るから!」

と言い残し、私を自宅に置いて出社してしまった。

アバンギャルド子育て。

あの時私は38度位まで上がった熱の中、お母さん酷いと思っていたけど、今、あの時と同じくらいの歳、いや当時の母の方が少し若い、そういう年になって同じく子どもを3人持ってわかるのは、まあ私も相手が健康な9歳児ならそうするかもなという事。

あの母は人様に「できません」とか「すみません」とか言いたくないタイプの人で、そしてそれは実は私にも若干遺伝している、仕事で評価されたくてオーバーヒートするタイプ。

そして私は今、それが恐ろしくて会社に雇用されるという形態で仕事をしていないけれど、母はそのまま田舎の零細とは言え、ひとつの会社でちょっとした役付きになり、20年以上のサラリーマン生活を全うした。

お陰で、母が最高に忙しかった頃、あまり構われた記憶がない、この母も私について

「特に育てた覚えがない」

という、酷い。

母との密な思い出はどちらかというと、私が子どもを産んでからの方が沢山ある、私の子、すなわち母には孫だけれど、息子がおなかにいる頃、当時京都にあった私の自宅を訪ねて母が来た時、私のせり出したお腹を見て、遠くからもわかる位の満面の笑顔で走ってきた事とか、娘①を産むときに切迫気味だと言うと歩く事すら禁止してきた時の事とか、娘②を産むとき、この子は心臓に疾患があるのだけれど、無事に生まれるのかどうかが心配すぎて夫より先に病院にやって来た事とか。

そして私は、母の半生みたいのものを勝手に振り返った上に、本人の許諾も取らずに好き勝手に書き綴って今、初めて気づいたのだけれど

母親というものは、自分も含めて、子ども時代があって、若い娘だった頃があって、結婚したり、しなかったりする場合もあるけど、それで子どもを産んで、悩んだり、怒ったり、楽しい事があって、辛い事があって、大体に失敗して、偶に成功して、子どもとうまく関係を作り上げたり、そうでもなかったりする、そういう普通の不完全な女の名前の事だ。

もしかしたら中には完全完璧な母もいるのかもしれないけれど、少なくとも母と、その娘で今、3児の母でもある私は。

今、改めてそう思う。

その不完全な女である母の今の心配事は、5人いる孫の中で1番小さなウチの末娘の心臓の手術の事と、それで真ん中の娘が寂しい思いをしていないかという事、息子はもうしっかりしているから大丈夫よという評価だけれど、そこは息子の母である私とは意見が分かれるところ。

先週ラインのvideo通話をしたので、きっとそろそろ今日あたりにまた電話が来るだろう。

孫達の成長と健康をよすがに暮らす不完全な女である母は今70歳、そしてもっと不完全な女である私は42歳、彼女がこの先出来るだけ元気にいてくれる事だけを不肖の娘は祈っている。

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