しかし子どもがそこにあるということ・1

3人目はしんどいというとじゃあなんで産んだんやという言葉が当然のごとくどこかからやってきてそれはどうどうめぐりの平行線の議論になるのだけれど、でもだいたいの世のおかあさん達が毎日純度100%混じりっけのない気持ちで

ああ子どもって、かわいいなあ、幸せだなあ。

とだけ思いながら暮らすのはとても難しいことで、少なくとも私には不可能だと思う。それは空に雨模様の日や嵐のある日があるのと同じこと。昼間なにを言っても、例えば「おやつの時間やし帰ろう」と言っても公園のブランコからすべり台から降りてくれなかった2つか3つくらいの子が、夕方気が付くとソファでぐうぐう寝コケて夜も更けてからからもぞもぞと起き出す。そんな時の子どもはだいたいオニかのごとく不機嫌で、親がなだめようが叱ろうがお風呂はイヤだしメシなぞ食わんと身をよじってわんわん泣き叫ぶのだけれど、そうなると親は時が過ぎ去るまでそれをただ茫然と眺めることしかできないし、もう「こっちが泣きてえよ」と言いたくなる日だって当然あるのだから。

その上で大変だなんて初めからわかっていたことだろうと言われると、その難易度の高低をあらかじめ100%知っておくこともまた難しくて、例えば子どもを考えている時にそれって本当に自分にはできることなのかと、身近にいる経産婦に「ねえ、子どもってどうですか?大変ですか、やっぱり」なんて訪ねても

「うーん、そうだねえ、大変だけれども、かわいいのはかわいいよ、やっぱり」

というお抹茶を茶筅でぐるぐると濁しまくるようなことしか言わない。でもそれは別に経産婦が何も知らない貴方を騙して悲惨な目にあわせてやろうなど不穏なことを思っているのではないのです。確かに育児には「ここが地獄の1丁目」みたいな所があるけれど、だからと言って自分に「子どもっていいものですかねえ、迷っているんです」とごく個人的なことを打ち明けてくれたひとにわざわざ地獄の蓋をあけてホラここはこんな恐ろしい所ですよなんて語るのは何か違うし、真夏の太陽に照らされてできる影がうんと濃いように、困難の影にはかけがえのない尊いことも楽しいこともちゃんと用意されているのだから、まあ100回に1回くらいの割合で。それにこれはとても個人差のある世界で、ひとりやふたりの体験談では全体像は全くわからない。だから結局皆その真相をよく知らないまま、いったいこの装備でいいのかしら、この登山口で正しいかしら、赤ちゃんはいいものかしらと、期待と希望と不安と懐疑を全部まとめてよいしょと背負ってみんな山に登るし、その山が一体剣岳レベルの難関なのか、ハイキングに最適な高尾山なのかも行ってみないと皆目分からない。

それで3人目のことですが、わたしは12年前に1人目の男の子を、その2年半後に2人の目の女の子を産んでいて、3学年差で実質2歳差の乳児と幼児相手に嵐のような数年間を駆け抜け、その2人の子達がそれぞれ小学生と幼稚園児になった時、すなわち自分の腕の中にすっぽりと納まる小さな乳児というものが家の中から跡形もなく消えて朝に娘を幼稚園バスに乗せてつかの間、ほんのすこしだけ空の色やそこを流れて消えていく雲の様子を見て、ああ今日は透明なよいお天気の日だなあ、世界は本当にうつくしいなあとまた思えるようになった頃にふと

「あの2人が赤ちゃんの頃はたいへんだったなあ、本当に辛かったなあ、でもあの柔らかくて優しい生き物は本来もっと楽しくてよいものだったのじゃないのかなあ、どうして私はそう思えなかったんだろう」

そんな後悔に似た疑問が頭の中にやってきて消えなくなってしまって困る事になるのだった。実際2人が幼児と乳児であった頃のことは、元々扱いの易しくない当時3歳の息子が夕方に疲れと眠気で半目の前後不覚になりぎゃんぎゃん泣きだしたのをなだめるのに仕方なく抱き、その横でお腹が空いたとふにゃふにゃと泣きはじめた生後半年の娘をおんぶ紐で背中に背負って、そうして食事をとることもお風呂にはいることも、進むことも退く事も、何もできずに一緒にさめざめと泣いていたことしか覚えていない。それは世の中の多くのママ達と同じように孤軍奮闘を余儀なくされる育児環境だったことがそうさせたのかもしれないし、ただ単に私の根性とか要領の問題だったのかもしれない。

それでなんというのか、私はその夕方の怪獣達がひとまずおトイレとか食事とか着替えとかその手のことをだいたい1人で出来るようになった頃、ふと

(もしやあの熾烈な数年間をほとんどひとりで耐えた自分はあとひとりいけるのではないか)

という前向きなんだかそうじゃないんだか良く分からない考えに至ることになった。

何故だ。

もしかしたら何かに負けたような気がしていたのかもしれない。

だとしたらいったい何に。

そしてこういう時、私は完全に思考が天邪鬼というか逆方向と言うか、例えば昔、頂き物のピーナツのお菓子を食べたら急に体が痒くなり、いったい原因は何だろう、わからないことは確かめねばとよせばいいのにもう一度その疑わしきお菓子を口の中に放り込んで結果大変なことになり、駆けこんだ皮膚科の先生に「アンタは一体何をしとるんや」と怒られたことがあって、まあとにかくそういう性格をしているのだった。

それであの本来はたいへんに可愛い赤ちゃんにもういちどだけ私の人生にお出まし願えないものだろうかと、もう1人産み育てる事を許してはもらえないだろうかと考えた時、私は1人目を考えたときよりも2人目を考えたときよりも、いやたぶん産んでいたからこそ『産むことと、生まれること』について、そう簡単ではない色々を考えるようになっていて、赤ちゃんにおかれましては完全にこちらの都合で、親自身がそう素晴らしくて良いところでもないと知って分かっている世の中に頼んでもいないのに生み出されることになるのだから、私の経験とかIQとかEQとかそういうものを総動員してうんと可愛いがらなくては、大切に守り育てなくては、贅沢はさせてあげられないけど最低限不自由はさせてはいけない、それがこちらの都合で世界に登場させられるひとへの礼儀であり誠意だろうと、人生3回目の妊娠にこれまででいちばん身構えていて、身構えすぎてその当時は割とどこの施設でも受けられるようになっていた出生前診断、私が妊娠10週目の段階で

「必要を感じるのであれば検査とカウンセリングを受けられるこういう施設をご紹介できますよ」

そんな風に、大阪の有名な施設を紹介できますが受けますかと産科の主治医に聞かれたのはクアトロテストというやつだけれど、それを受ける事ができなかった。

もし検査を受けて、仮に明確な異常が見つかったら、その時に妊娠をそのまま継続するかもしくは終結させるか、私はそのどちらかを決断できるんだろうかと考えて煮詰まってしまった末のことで、例えばもしこの子には障害がありますよと言われたら、いまこの世の中自体がそういう人を認めて共に暮らそうといってくれていないのだからと2次的な産まない理由を一生懸命に探したり、いやそもそもこちらの都合で胎児側に相談もなしに欲しいからと妊娠しておいて問題があるならいないよってそんな傲慢な理屈は通らないのでは、それに仲の良い従姉妹が早くに産んだ子が21トリソミー、ダウン症の男の子で、家族や親族に大切にされてダウン症に併発する心臓や血液の病気を乗り越え成人した今も元気に暮らしているのだけれど、もし何かしらの異常が確定して胎内の子を産まないと決めたとしたら私は従姉妹とあの子にどんな顔で会うつもりなんだろう、いやもう会う資格を失うんじゃないのとか、既にエコー写真の中にある豆でしかない胎児を「ちいさいな、かわいいな」といとしく思ってしまっている自分のこととか、そういう現実ときれいごとみたいなものと感情、それぞれをぐるぐると逡巡している間に検査を受けられる期間があっという間に過ぎ去ってしまったのだった。

結果、中の人のことは『元気に成長しとります』以外のことは何も分からないまま妊娠は継続され、胎児が21週目と6日目に定期健診の胎児エコーで心臓に異常が見つかり、しかし意外にも順調な妊娠期間を経て39週目に赤ちゃんは生まれた、健康とは言い難いけれどそれでも思いのほか元気な産声を上げて。

既に2人の子を育てているのだから、上の2人とは結構年も離したのだから、ちょっとは楽にのぼれるのやろと、育てることについてほんの少し安直に思っていた山は高尾山でもなく剣岳でもなく予定外のK2だったということで、私は心臓の病気の子なんてこれまで見た事も触った事もない、雨ガッパにスニーカー程度の装備で病児育児の山に登ることとあいなり、どのみち妊娠10週目のあの時に悩み抜いてクアトロテストをうけたところで心臓の疾患はそれでは分からなかったことでもあり、妊娠と出産と育児、出たとこ勝負感半端ねえなと改めて思ったことだった。

結局はそういうものなのだ。

ただ鋭意「うんと可愛がるのだ、きみに会えて嬉しいと伝えながら育てるのだ」と思い詰める程思いつつも、予想外の状態で生まれることになった子を私はかわいいと思えなかったのか、そこはどうなんだと聞かれると、これがまた思った以上に可愛らしかったのだった。それは既に2人の子を産んである程度の大きさまで育てた経験から

『一般にガッツだとかおサルと言われがちな新生児とはここがたいそう可愛いものなのだぞ』

という各所のツボを既におさえていたということもあるけれど、生まれて5分後にNICUに運び込まれ、間を置いて小児病棟に引っ越して過ごした4ヶ月、小さく生まれた赤ちゃんが多勢のそこで生まれた時から3kg越えの娘は異様にでかく、でかさゆえに声もとんでもなくでかく、それすらドクターやナース達にかわいいかわいい、エライエライと誉めそやされていて、そう言われると親もぜんぜん悪い気はしなくて

「そうなんですよ3番目だからですかね、わたしもすごく可愛いと思います、もう孫です」

などと言って目を細めていて、生まれてからの4ヶ月間は、健康な赤ちゃんが「元気で無事な成長」を目標にお家ですくすく育っている時間の代わりに「長期生存の可能性」という冷たささえ感じる言葉に賭けて入院しているのだという不安はべったりと背中に張り付いてはいたものの、そして実際、娘は肺炎や血管の目詰まりでそこそこ危ない目にもあったものの、この頃の娘のことは大変さと同じかそれ以上に

「たいそう可愛い赤ちゃんであったことよ」

という思い出が多くて、この先いろいろの困難を抱えている赤ちゃんを愛して大切に育てられるのだろうかという生まれる前からの心配はただの杞憂だったのだ、多少これまでの育児とは勝手が違っていてもこの子を家に連れて帰って家族で大切に愛してそれなりに平穏に育てられるのだろうと思っていた。

まあ、思っていただけだった。

この子の初回の手術が無事終わり、家に連れて帰った生後4ヶ月から大体1年半ほどの間、この娘が2歳になる頃まで、私と私の育児のパートナーである夫は地獄を見る事になる。私は一番近しい他人である夫からすると「少しかわってるよ」という評価ではあるもののごく平凡な人間で、我が子以外で命を投げ出したい程誰かを好きになったとかそういうことがない代わりに、誰かを殺したい程憎んだこともない静かな人生を送って来たはずだった。でも3番目の娘が退院して自宅ですごして数か月後のある時、私は本気で夫に殺意を抱くに至るのだった。

その時の殺意というか憎しみの中身を今よくよく検分してみると、それは産後の夫婦にありがちな育児配分の不均衡さとか不透明さとか私のホルモンバランスの乱れとかそういうものに起因する部分が大きいのだけれど、それに加えて、これまでの社会通念が母親に求めて来たものの理不尽さとか、そういうものから全然自由では無かった自分自身とか、病気を抱えた子の「母親ありき」のケアの日々の重たさとか、そういうさまざまの、一部陰鬱な要素が絡み合ってぐちゃくちゃになったものであって、ただただ

『この小さいひとの命を、上の2人の子も含めて私達が守らなければいけないのだぞ』

という現実が私達には予想外に重たかったと言う事なのだと思う。それも今になって思えばということだけれど。

すこし長いので2に続きます。↓


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