進撃の娘②と後退する私の話


『グレン循環になったら、今より身体がだいぶ楽になると思います』

そう説明を受けたのは、②が2回目の心臓の手術である『両方向性グレン手術』の時。

違う、正確には『両側両方向性グレン手術』だ。

毎度、これは医学部の講義なのでは..位の熱量でアタマが理系と真逆の方向にある私には若干辛めの、密度のある術前説明をして下さる、iPS細胞研究の第一人者山中伸弥教授似の小児心臓外科医のヤマナカ先生(仮名)がニコニコしながら

「娘②ちゃんは、普通は1本しかない上大静脈が2本あるので、その2本ともを使います、だから『両側・両方向』です」

そう説明して、足りないものが多い心臓とその血管周りの心臓奇形持ちの娘②にしては一本多いなんて『なんかお得な感じ』と私は思ったものだった。

「上大静脈が二本ある人は結構いますよ、僕も過去に何人かお会いしました」

そんな先生が言うには、特にコレによる実害はないらしく、あるなら新しく作る循環に使っちゃえという事らしい

関西ナイズされた外科手術。

因みに私は、ヤマナカ先生がICの際にちょこっと挟んでくる「僕が研修医の時にね〜」系のお話がとても好きだ、学校の理科の先生のようで

イヤ、ほんまに大学教授なんやけど。

そんな『両側両方向性グレン手術』は娘②には二本ある上大静脈と肺動脈を直接つなぎ、上半身の静脈血が直接肺動脈に流れる循環を作り上げるもので

本来なら、生後6ヶ月頃にやりましょうかと言われていたのに、娘②の左側の上大静脈の吻合先の左肺動脈のあまりの『たまに袋の中で2個繋がっているアルトバイエルンのつなぎ目』を思わせる狭窄具合とその他諸々が、地味に主治医と執刀医を翻弄し

月日は流れまくって

この時、1歳5ヶ月体重9Kg。

取り敢えず、1度目の手術で2度目のこの手術までの繋ぎの肺血流循環にと右肺動脈と大動脈を繋いだ4mm の人工血管の太さが

「体重的にこの太さの人工血管で循環を支えられるギリギリ」
「よく持ってると思います」
と評されるような時期に来てしまい、私は焦っていた。

ついでに言うと、最後に予定されている3回目・大一番の手術は、下大静脈を人工血管経由で肺動脈につなぐ大工事だがその手術だって諸般の事情により

「3歳..4歳になるかも」

と言われていて、うちの娘②は何故かKAT-TUNよりもいつもギリギリで生きている。

別に希望はしていない。

前置きが長くなったが、そんな両側両方向グレン手術を終えれば、特に身体機能に問題はないのに、1歳5ヶ月を迎えてもこの当時まだ歩くことも覚束なかった娘②が

そして、生まれてからその日まで、ミルクを口から飲む事が出来ず、鼻から入れたチューブで流し入れる経管栄養だった娘②が

もう少し『普通』に歩み寄る事が出来るはず。

私はとても期待をしてこの手術の日を前述の通りずっと待っていた。

その『両側両方向グレン手術』から少し時間は遡って4月上旬、娘②は突然高熱を出した。

それで慌てて自宅から普段一般診療をお願いしている近所の総合病院へ行ったら、娘②のBNPとSPO2の数値に驚愕したその病院の若いドクターが

「この子はウチでは扱えません!」

と娘②を大学病院に病院間救急搬送した、その日の診察室で

「あ、お母さん、次の手術5月のこの日になったから」

そう主治医先生が

「明日雨降るよ」

位に普通のトーンで伝えてくれた。

その時私は

「今なんと仰いました?」
「本当に?」
「もう変更無しですね?」

3回くらい聞き直した上に

「この日で大丈夫?」

と先生に聞かれ

大丈夫も何も!この日にしましょうそうしましょう!て言うかもう延期なしね!

そう思いながら

「ハイ!その日で!絶対風邪引かせないで連れて行きます!」

今、まさに風邪をこじらせ高熱で救急車にすら乗ってきた娘②を抱きつつ首をブンブン縦に振り二つ返事の了解をした。

説得力0。

今めっちゃ風邪引かせとるがな。

そして、救急搬送されていたこの日、主治医先生は手術日を私に伝えて、そして次にこう言われた

「あ、お母さん、解熱剤処方するから帰っていいよ」
「娘②ちゃん強いから大丈夫」

スパルタか。

そんな訳でこの直後、私はやって来た春の10連休に

「娘②ちゃんは、風邪を絶対絶対絶対ひけないから、ウチから一歩も出せません」

「だから、連休はパパと息子君と娘①ちゃんで、遊んできてね!」

そう宣言し、

せっせと三人分のお弁当を拵えては、夫に上の子供たちが退屈しないように外に連れ出してもらい自分は娘②と自宅に籠城した。

もし万が一風邪を引かせた挙句術前入院が延期になったりしたら、手術その他施設はあっても、小児の心臓手術を執刀できる医師が1名、そして術後管理の陣頭指揮をとる医師が1名しか居ない娘②の入院先では、次がいつになるかわからない。

元来肝が小さく、度を越した心配性の私は、娘②の顔色が悪くはないか、息が切れているんじゃないか、更にそれは人工血管が詰まった所為なのではと気を揉む日々がこれ以上延長されるなんて勘弁してくれと思っていて

「水族館に行くの!」
「オオサンショウウオきもい」
「ぬいぐるみ買う?」

とはしゃぐ娘①と息子と、なぜか一緒にはしゃいでいる夫を

「ええなあ..」

と羨ましく眺めつつも

娘②と狭い自宅で『おかあさんといっしょ』の楽曲をヤケクソ気味に歌い踊り、レゴブロック1歳児用を繋ぎまくって連休中の時間をやり過ごし

見事、あの意外に風邪と胃腸炎が蔓延する連休時期を無傷で乗り切り、連休明けの5月、月曜日の手術1週間前、入院の日に漕ぎ着けた。

「体調良好!ハイ、小児病棟に上がっていいですよ」

小児外来のドクターに太鼓判を押してもらい、週明けで大混雑の入院受付を通過してたどり着いた5階の小児病棟で私は軽く感無量だった。

入院生活は楽しい。

と言うと少々語弊があるかもしれない。

「我が子が障害や疾患を持って生まれた」という事実は

その発覚の際、後ろ頭を鈍器で殴られるかの如き衝撃の後に、割とすんなりというか

「何でもええねん、今はこの子を生かさないと!」

そう思って踏ん張る日々の激闘の中、意外と日常に溶けていって「この子の在り方はこう」そう病院や家庭の中にあっては受け入れていけるものだが

いざ自宅や病院の外の世界に出ると、外界との軋轢と言うか、まずマーゲンチューブとか、在宅酸素とかそう言う外付けの医療機器は、お外を遊びまわる『普通の子』には着いていないし

「それ何ついてんの?」
「まあ...かわいそうねぇ」
「えっ、全然普通に見えるけど」

そういう各方面からのご質問にも答えなければいけない。

皆悪気なんかない。それは純粋な興味だったり、目の前の疾患や障害のある子への理解を示した態度の顕れだと言うことは私にもよく分かっているが

あまり頻繁だと、だんだんと答える事自体に疲弊してくる。

一方

入院患児とその母として病棟の住人になってしまえば、その現場から受ける質問は

「普段ラコールとかエネーボとか入れてた?」
「いつもSPO2とBNPどれ位?」
「酸素使ってた?何ℓ?」

全部、私には滑舌明瞭に答えられる質問ばかり、対して「何の病気なの?」「なんでこんなんつけてんの?」「外で合わないけど何で?」という娑婆で出会う質問はお答えしにくい。大体質問してくる皆さんとの間に『共通の前提知識』というものが無いし

何より、何を一体何処まで伝えたものか、惨めすぎる伝わり方も辛いし、軽く受け止められすぎるのも辛い。

いつもうまく答えられないまま曖昧に笑って誤魔化してしまう。

まだまだ、外の世界で『疾患児障害児の母として生きる』という覚悟とステージの低い私にとって

この疾患児で障害児で医療的ケア児である事こそがスタンダードでマジョリティの病棟の世界は呼吸がしやすい。

なんか楽。

一般の社会の中で少数派で居続けるということは、『存在』するそれだけでもう胆力がいる。

と思う。

私はこの、心臓機能障害で身体障害者手帳持ちではあっても

見た目は『普通』の子どもに見える娘②について

この先、予定される手術を上手くクリアしていけば、そしてその間に突発的なイベントが起きて何らかの障害が追加されなければ『普通の子』として普通の世の中で生きていけるようになる。

その事を心から希求しながらも

一方で、結局一生は根治しない、不自由で不完全な心臓を抱えて完全には普通になりきれない娘②と、普通の社会、普通の学校に切り込んでいかないといけない自分とその現実に、スタート前からもうへこたれていた。

娘②は境界線上の子だ。

私はこの子をこの先、普通の世の中でどう育てたらいいのか。

娘②が2歳にもならない今からそんな根性でどうすると言われそうだが

そんな事言われても

不惑を超えた人間は、そんなに急に変わったりは出来ない。

と思う。

そんなヘタレが過ぎる母を傍らに娘②はこの入院中

もう『患児』という枠をはみ出して本当にお元気だった。

正直勘弁してほしい。

まずは病室に挨拶に来てくれたチームドクターで、この入院時に普段の主治医Y先生に代わって主治医を務めたH先生に対しての態度は酷かった。

「今回、娘②ちゃんの入院中の主治医のHです!」
「おっ!起きたか?」

このH先生は上背もデカイが、声もデカイ

その声に入眠を阻害され

(『起きた』じゃねえ『起こした』んだよ...)

そんな鬼の形相で覚醒した娘②を、先生は採血するぞ〜とそのまま連行したが、その時の暴れっぷりと言ったらなかった。

労災申請レベル。

多分。

先生は被害の詳細を母の私には語らなかったが、絶対エライ目にあっている筈。

この入院以来、今日までH先生と娘②は、というか娘②が一方的にH先生を嫌っていてH先生を泣かせている。

和解の日はまだ遠い。

私もこの時のこの『娘②の寝入り端を起こされた』事については、その時手に持っていた愛読書『こどもの心臓病と手術・立石実著』で反射的にH先生の頭をスパーンと行きそうにはなった。

寝付きの悪い我が子の寝入り端を起こされた母親の内面は凶暴だ。

医師各位

注意されたし。

更に、相手に何一つ非が無い場合にも

「こんにちは!明日の手術の麻酔を担当します」
「去年の手術でもお会いしましが、娘②ちゃん、大きくなりましたねぇ」

和かに術前説明にやって来てくれた麻酔科医の先生には、点滴のルート固定されていない方の右手でカウンターパンチをかました。

『お前、誰やねん』的な

アレは母の私から見ても良い右ストレートだった

じゃなくて。

普段小児よりも確実に成人を扱っているであろう麻酔科医は、病児は皆小さくていたいけだとばかり思っていただろうに、この凶暴な幼児の突然の攻撃に本気で慄いていた

オペの影の立役者になんということを。

先生申し訳ねえ。

そして今回は入院中限定で主治医から外れてみたといえども度々

「娘②ちゃん、どう?」

と言って病棟のあちこちを徘徊したり、大体はプレイルームで遊び転げている娘②の様子を見に来てくれるY先生の顔を見ると

(ああ!わたち、いまちょっとようじをおもいだちまちた!)

位の勢いでさかさかと我先に逃げていくようになり

「俺、何もしてへんのに何で逃げるんや...」

この私より十程歳上の、余計な事は語らないクールなベテラン医師の心を無駄に傷つけたりしていた。

攻撃を仕掛けないだけマシと言えばマシか。

失礼と狼藉を働かないのは顔をよく見知っていて、何も嫌なことをしない執刀医のヤマナカ先生位で

そんなヤマナカ先生こそが、お前の前胸部をメスでスパッとやっている張本人だと言うのに。

兎に角、医師という医師に張り手をかまし、蹴りを入れ、病棟のプレイルームとそこにあるテレビを我が物顏で陣取り、やりたい放題だった。

あの敵に対して先制攻撃を辞さない、自分の要求を通す事に躊躇の無い我の強さは我が子ながら刮目すべき点がある。

かもしれない

娘②担当の訪問看護師のヤマダさん(仮名)も以前

「心臓疾患の子は皆なんでだか凄い気が強い」

と言っていたが、何ですかそれは心臓機能の不足を補う為に該当者に付与される永久不滅ポイントか何かですか。

もう、とにかく大変だった。

そしてそんな健常な身体に内包した精神に脆弱性が著しい母にも

問題だらけの心臓その他身体機能に相反して苛烈な気性の娘②にも

手術の日はやってくる。

手術の術前説明では、毎回執刀を担当して下さる小児心臓外科医のヤマナカ先生が

「手術時間は大体6〜7時間をみています」
「とは言え、前回の手術から一年以上経っていますから、心臓とその周りの組織に癒着がどの位起きているのか..」
「こればっかりは開けてみないとわかりません」

普段、説明は懇切丁寧、穏やかで高慢てソレなんですか見たことないですが、というおおよそ体育会系の香り漂う『外科医』というイメージからはかけ離れたヤマナカ先生は、術前説明で唯一外科医らしい事を言う

それが

「患部の本当の状態は開けてみないとわからない」

手術時間を7時間と予定していても、何かが起これば幾らでも時間は超過するし、術前説明通りの術式を全て遂行できないま予定時間を待たず手術終了という事もあり得る。

あとは、不測の事態が起こることも。

2回目の手術のこの時、私はその 点を重々心得ているつもりで、最後

「では、最後に何かご質問はありますか?お父さん、お母さん」

という先生からの問いかけに

「先生の事を信頼して全てお任せしますのでどうぞ宜しくお願いします。」

そう一息で言い切って返した。

何しろ、前回の手術を経て、娘②が唯一の乱暴狼藉を発動させない名医を私が信頼しない理由はないし、手術室にあっては、母親とて手も足も出ないのだ。

そう思って、一度目の手術とはかなり違う落ち着いた心持ちで迎えた当日

「お母さん、麻酔が効くまで娘②ちゃんと一緒にいてあげてくださいね」

手術室の扉の前で親子が別れた前回と違い、手術部のナースに娘②共々招き入れられた手術室は、手術台を中央に、無機質で神経質そうな機材が壁に天井にずらりと並べられ、全体が業務用冷蔵庫のようにしんと冷えた場所で

ここに娘②を置いていくのかと思うと、少し哀しい気持ちになったが

昨日娘②が右ストレートをかました麻酔科医先生を先頭にした数名の麻酔科医チームが

「あかん!見えない所にいてないと俺達嫌われる!」
「死角に入れ!死角に!」
「先生、僕達、多分もう嫌われてます!」

と言って、360度どう見ても見通しの良い手術室で、いい大人が塊になって娘②から隠れようとしている様に大変和んだ。

かわいいかよ。

娘②は手術台に置かれると、当時唯一はっきりと発音できた

「ママー!ママ!」

を連呼して、降ろすな!抱っこして!とせがんだが、抹消ラインから鎮静を少しずつ入れられて、うとうとと微睡んだ所で

「うん、もういいかな」
「ではお母さん、このままお預かりします」

あとは待合室でお待ちくださいねと促され、宜しくお願いします。とその場にいるスタッフ全員に頭を下げて、一人で退出した。

2回目でもあのいっときのお別れの瞬間は少し辛い。

あんな知らない大人だらけの場所に娘②を置いていくのだから。

そして辛いながらも、この日、娘②の手術に携わる全員にお願いしますと頭を下げて回りたかった。

あの『総監督小児心臓外科医』しかお名前が分からず執刀医にしか直接感謝を伝えられないシステムは何とかならないものだろうか。

手術終了後エンドロールを流してほしい

キャスト

患者:娘②

執刀医
外科チーム
麻酔科医チーム
手術部看護師内回り
同外回り
ME
医学生(見学)

とかそういうやつ。

私は娘②の手術は2度目であらかたのことは分かっているし落ち着いて娘②の手術室からの生還を待てる筈、と思っていたが

なまじ2度目で、前回の記憶と、その1年の間にあちこちで見聞きした知識

突然の心停止とか
血管の損傷による出血とか
兎に角不測の事態全般

が脳内を駆け巡って、全然落ち着いていなかった。

落ち着かなさすぎて、小児病棟の病室の荷物を一旦持ち帰ってくれていた夫が自宅からまた病院に戻ってくるのを待たずにフラフラと階下に降りた。

「信頼してお任せします」

ヤマナカ先生に偉そうに言い切ったあの時の私は何処に行ったのか。

ところで、この手術の頃、私は娘②を自宅で育て始めてから1年と少しの期間、娘②から本気で24時間片時も離れた事が無かった。

それは、娘②を一時でも預かってもらえるような、頼みにできる身内が近くに居ないという事と

そして、何より居住地域の保育の制度の中で娘②のような子は隙間の存在だった為で

保育園は、障害児としての入園制度はあるにはあったが、看護師が常駐していて空きがあって..となると、入園の実現には相当な力業と時間を要す事になり。

児童発達支援施設は、看護師がいる所だと重心の子の専門の施設が殆どでかつ空きも無く

娘②のように動ける子の受け入れ先となると今度は発達障害等の専門の施設が多く専従の看護師が居ない

疾患持ちで扱いとしては障害児で、ついでに医療的ケア児の一歳児、そして運動発達に遅れはあっても動き回ることが出来る娘②を預かる所が無い。

これを市役所で並べ立てられた時の

「え?じゃあ先々保育園とか幼稚園はどうすんですかこの子」

と思ったあの瞬間あの脱力感は忘れがたい。

それで娘②と私は二人一緒でずっと一秒も離れる事なく暮らし、哀しいかなこの手術とその後のICU預かりの時だけが『一時預かり』期間という事になり

私はこの手術終了待ちの数時間に一つだけ夢を持っていた

「ドトールのミラノサンドが食べたい」
「アボカドとエビが入ってるやつ」

ささやかすぎか。

大学病院にはドトールのコーヒーショップが入っていたので、私は外来の時、入院で夫と入れ替わり自宅に帰宅する時、それぞれに毎回あの店の前でパンをトーストする香りを嗅ぎつつ、あのお店でゆっくりサンドイッチを食べたいなあと思っていた。

しかし

娘②が傍に居る時には、娘②は直ぐにベビーカーや抱っこに飽きて暴れる上、当時の娘②は時間毎に鼻のマーゲンチューブからミルクを注入しなくてはいけない為に立ち寄る事が叶わず

入院の付き添い交代時には、家でママの帰りを今や遅しと待っている息子と娘①が気がかりで呑気にサンドイッチを食べている時間など無く

だったら今日食べよう、朝ごはんもまだだし、それくらいは良いよねと思っていたのに

いざ現場まで行くと

なんだか食べられなかった

娘②どうしているかな大丈夫なのかなと思うと。

お母さんの私が一人で美味しいものを食べているのが後ろめたいような気持ちになった。

仕方なくコーヒーSサイズ260円だけを購入して四階の手術室前の待合室に戻ったそこには夫が

『カツサンド』
『エビカツサンド』
『ハムカツサンド』

カツサンド三連発を抱えて私を待っていた。

この夫は1度目の手術の際、食パン2斤を買ってくるという行動で私の度肝を抜いた人で、私の顔を見るとニコニコとコンビニ袋を差し出してくれた。

「コンビニで買ってきたよ!ママの分もあるよ!」

これが1度目の『術中食パン2斤事件』に続いて2度目の術中発生した『カツサンド事件』である。

カツサンド以外の選択肢はなかったのですか夫よ。

そんな夫の奇行..じゃなくて心づくしのカツサンドをありがとうと半分ほどもそもそと食べ、あとはぼんやりと待合室に付けっ放しになっているテレビを眺めた。

手術終了を待っていると、そこでの時間は、経てば経つほど心もとない気持ちが募ってくる。

手術室から代わる代わるやって来る看護師や医師からの手術終了の知らせを受けて、ひとり、またひとりと人も少なになっていく手術室待合室で私は

照明が落とされて暗くなった廊下を眺めながら

「こんな事には一生慣れたりできないだろうな」

と思った。

相当気が小さい。

手術は結局、予定を4時間超過して11時間を要し、娘②と対面できたのは夜21時をすぎてからだった。

手術終了後、そのままICUの住人となった娘②は

先ず、手術当日の未明、喉に挿管されている人工呼吸器を自ら引き抜こうと試み、ICUナース達を騒然とさせた。

向こうもまだ1歳半にもならない赤子と思って油断したのかもしれないが、この娘②は病棟でも点滴用に確保されているルートを、頑丈に何重にもテーピングされた上シーネで固定されているアレを自ら引き抜いて1年目の新人ナースを泣かせた女だ。

娘②の人工呼吸器は翌日には、4階ICUでは主治医となる執刀医の指示で抜去され

そのまた翌日には意識を取り戻し、面会に来た私に

(何故こんなところにおいていくのか母よ...)

という呪詛にも似た唸り声を喉の奥から捻り出していた。

怖い。

そして更にその翌々日には、執刀医のヤマナカ先生から

「もう何か食べさせて良いですよ!」

という指示が出て、そうですか!ではやはり重湯か何かからでしょうか?と思ったら

『幼児食A』

ほぼ子供用の普通の食事が普通に出てきて、そしてそれを両手を抑制されているので完全食事介助付きではあるが、モリモリ食べた。

この当時、この娘②はまだ口からの食事と、鼻から胃に通したチューブからと半々位の食事の仕方をしていたが、この術後、突然そして猛然と口から食事をし始めて

その様子は、私にジブリ映画のキャラクターのあの食べっぷりを思い起こさせた。

カリオストロの城のルパンとか

天空の城のラピュタのドーラとか

ハウルの動く城のマルクルとか

ついでに言うと、この娘②は『崖の上のポニョ』ヒロインのポニョに本当によく似ている、髪のくせ毛の跳ね具合、言い出したらきかない性格、ハムが大好きなところ、ポニョは魚だから多分心臓の心房と心室は多分一つしかない、その点も単心室症の娘②ときっと似ていると思う。

とにかくあの海を飛び出して、丘に暮らす為に大冒険をしたあの女の子によく似ている。

そのポニョ..じゃなくて娘②はもう生きる気力と

「こんなところにいつまでもいてられないわ!」

そんな気迫に溢れていて、ICUを当初の予定を度外視して4日で離脱し、とっととさっさと小児病棟に戻った。

勿論感染症などのイベントの発生を避けられたのは一重に運だが、それを含めても強かった。

ヤマナカ先生は娘②のこの回復速度に

「いやー早かったですねぇ..」

嘆息を漏らして見送ってくれた。

そして予定を大幅に早めて戻った5階小児病棟のPICUでも、首に刺さるCVCカテーテルを引き抜こうと画策し、創部が痒いとガーゼを引っ張り、三度三度の食事を楽しみにしすぎて配膳のカートを見ては咆哮を上げ、その度にCVP値が爆上がりしてアラートがピーピー鳴った。

臨時の主治医のH先生と、元々の主治医のY先生それぞれに

「すげぇな娘②ちゃん...」
「いや、この子は強いわ...」

半ば関心、半ば呆れられ

『入院期間は1ヶ月を見てほしい』と言っていた執刀医、入院中の主治医、普段の主治医3人の予想と予定を悠々と覆し、約半月で退院した。

娘②は私とは正反対で、あのサカナの子のように安楽な海を出て丘を、病院の外の世界を求めた。

私は

娘②は病院の中に閉じこもるような子ではないのだと悟った。

なにしろ強い。

娘②は、この『両側両方向性グレン手術』の無事終了と共に、経管栄養を卒業することが出来た。

産まれてから1歳5ヶ月、ずっと娘②の鼻にプラーンと垂れ下がり、そしてしょっちゅう引き抜いてしまうが為に、入れ直しで何度も泣いてきたあのマーゲンチューブとお別れし

今度は自宅に在宅酸素が付いてきた。

一難去ってまた一難。

自宅には某医療機関メーカーからやって来たほぼファンヒーターな見た目の酸素発生器『ハイ サンソ』君が設置され、お出かけの際には酸素ボンベをご用意、娘②は24時間風呂の時以外、酸素をカニュラという細いチューブを顔に装着して酸素を吸入する子になった。

医療機器や製薬のメーカーの薬品や機材のネーミングセンスについては、もうベタさがここまで突き抜けてくれると寧ろ爽快感さえある。

そして在宅酸素は、以前の経管栄養の管理より私にとっては格段に楽だった。

経管栄養を離脱するのためのリハビリが無くなったというのも理由の一つではある。

そして更に娘②は、新しい血行動態を手に入れて、覚束ないながらもよちよちと歩くようになり、私は肺循環が変わるって、呼吸が楽になるって本当にすごい事なんだと感心した。

1歳5ヶ月児でようやく歩み始めたというのは健常児からするとかなり遅めだが、家中を縦横無尽に歩き回り、あちこちを荒らす娘②は、もう一日中家に置いておく事が出来ない、家が破壊されてしまう上に私が参ってしまう。

進撃の娘②

身長が78cmの巨人。

仕方なく、全く気は進まなかったが、ポータブルの酸素ボンベをよいしょと背負って、地域の子育て支援センターという小さい子の遊び場に娘②を連れて行ってみた

『気が進まなかった』のはいくら超人的に回復が早かったとは言え、術後間もない疾患児は感染症が心配だったし

小さい子が所狭しと遊び回る施設にあっては、娘②の顔に装着されたカニュラと酸素ボンベを繋ぐ1.5mほどのホースが他所のお子さんの足をひっかけそうで怖かったからだ。

それにあの外付け医療機器の酸素ボンベはファッショナブルが過ぎるショッキングピンクのボンベケースと相まってマーゲンチューブより格段に目立ってしまう。

案の定、かの酸素ボンベについて支援センターでは3歳位のおしゃまなおしゃべりさん達に

「それなに?」
「なんでそんなんつけてんの?」
「その子のお顔のソレなに?」

代わる代わる質問を受けたが、私は答えられなかった。

それは私のメンタルがどうとか、3歳児位の子に『酸素』の概念をまず説明する事が難しいとかそういう事ではなく

娘②が、室内の珍しい玩具や遊具に大興奮して、あっちへ行こう、いや、やっぱりあっち!と私を引っ張って行くからで

娘②のポータブル酸素ボンベをケースに入れて斜めがけにしている私は、娘②の後ろを常に付いて歩かなければ、娘②が引っ張られてコケるか、もしくはゴールテープよろしくピンと張った酸素ボンベ接続のホースに足を取られてちびっ子が転んでしまうから。

必死になって娘②の背中を追いかける私にちびっ子達からのご質問にお答えしている隙は無かった。

そして娘②は、家では見た事が無いプラレールの多分あれは『ゆふいんの森号』がお気に召したようで立ち止まり、手にとって遊び出した

すると

娘②より頭一つ大きい3歳くらいの男の子が、そのゆふいんの森号を娘②の手からひったくり、そしてしたたかに突き飛ばした。

多分彼は彼で「これは自分の!」という強い気持ちがあったんだろう。

かつて『学研 のりもの図鑑』を寝る前に死ぬ程朗読させられた鉄道好き男児だった息子を育てた私には分かる。

私は驚いたが、もっと驚いていたのはその子のママで

我が子が、小さな、しかもなにやら謎の医療機器を下げたどう見ても疾患児か障害児かの女の子を突き飛ばしているのだからそれは驚いただろう

「こらっ!やめなさい!」

そのママが男の子を叱責しつつ駆け寄ろうとしたその時

娘②はその男の子の手からゆふいんの森号を奪い返し、あろう事か

体当たりをかました。

あれはいいタックルだった。

じゃなくて

なにしてんねんお前は。

男の子は突然のタックルに尻餅をついき、ポカーンとしていた。

そうだろう、まさか自分より頭一つ小さな女の子が反撃してくるとは流石に思うまい。

しかもどう見ても弱そうだし。

男の子のママはすいませんすいませんとしきりに謝ってくださったが、タックルかましたのはうちの娘②なのだから、いえこちらこそすみません本当に。と双方頭を下げまくった。

そして、この日の帰路、はしゃぎ過ぎてベビーカーでうとうとし出した娘②を見て、私はなんだか笑いがこみ上げてきた。

そうか、お前は健常児の、しかも年上の男の子にも負けない気でいるんだな、実際今日は負けていなかったし。

術後の身体で普通の世の中の、普通の子の中に、生まれて初めて切り込んで行ったというのに

ウチのポニョこと娘②は、丘にあっても相当強い。

可笑しい。

私は、娘②が乗った上に酸素ボンベもぶら下がったそこそこ重いベビーカーを押して、その日はバスに乗らずに歩いて帰った。

たまに、私は人様から『前向きに頑張っている』と評される事がある。

大変に恐縮です。

そして、それは嘘です。

まやかしです。

それは私が、ちょっとした文章を認める時、140字の中で我が家の事を面白おかしくツイートする時、日常や自分の内面を上手くというか狡猾にトリミングしているからで

ここで長々と書き連ねた通り、私は前向きとは真逆の方向のメンタルを持った人間なので

『前向き』と言われるたびに

「それは、貴方の言うその人は、私ではありません!」

と言って森に帰りたくなる。

森ってどこやねん。

私は毎日基本へこたれているし、本来この手の疾患や障害のある子の母たるもの

「気力体力十分」
「タフな交渉が三度の飯より好き」
「道無き道を行く」

くらいの気迫で、毎日暮らしているんでしょう?と世間の皆さんはそう言うイメージをお持ちかもしれないが

私が知っている、疾患や障害を持った子ども達を懸命に育てるママ達、そして今日、今まさに我が子の手術や、術後回復に一喜一憂するママ達も

大変失礼を承知で言うと

毎日、割とへこたれている

と思う。

私ほどヘタレでは無いにしても。

そもそも大体

我が子が聞いて理解するのも難解な手術に最中にいたり、術後やその予後、予期せぬ感染症で、もともとそう強く無い我が子の身体が痛めつけられていては、ママ達が前向きになって状況を笑い飛ばしている方が変だ。

実際、私たちをいつも牽引して、さあ前を向け、頑張れと鼓舞してくれているのは子ども本人だと思う。

私は当事者側の人間として、障害や疾患を持った子を、極端に哀れみもしないし、美化もしないが

彼らが、その常人とは異なるちょっとというか大分不便な身体を持ってそれをちょくちょく病院で切ったり繋いだり刺されたりしながらも、彼らの持っている

あの病床にあって担当医を蹴りつける脚力とか

ICUでご飯を口いっぱい頬張ってみせる食欲とか

ああ、もう駄目なのかと思わせる瞬間があって、それでもERから舞い戻ってくる生命力とか

医師から出来ないと言われていたはずの事を時間をかけて出来るようになってしまうあの可能性とか

それらを存分に発揮して、

結果親である私たちを

検査結果は思わしく無いし、
手術の予後は良く無いし、
将来的には完治はしないし、
え?この子就園は修学はどうしたらいいんですか?

そう言って毎回、子どもの状態と、そして我が子を育てて行く世の中の設備も制度も全然整わない中で戸惑ってへこたれる私たちを引っ張ってくれているような気がする。

子ども達は、今日も明日もとりあえず生きているし、この先も生きていくのだから。

そうある筈なのだから。

ウチの娘②も

今日も普通の子達に運動発達も情緒発達も遅ればせつつ生きていて、それでも我儘放題やり放題で、私を翻弄し、

あの子育て支援センターの一件の後、主治医の診断書、支援コーディネーターさんのお力を持って、娘②は色々な障害あるのお友達のいる児童発達支援施設に週に数時間だけだが遊びに行っている。

いずれは、健常児の中でも揉まれるべきなのかもしれないが

今はこれでいいやと思っている。

この手配だけでもお母さん相当頑張った。

そして、月に何回か行く病院では、主治医のY先生以外には相変わらず愛想が悪く凶暴かつ奔放、診察や処置が終わると、広い院内をあっち!こっち!次はこっち!とお散歩して回る。

息が切れているから、もう抱っこだよと言っても歩みを止めないのがまた恐ろしい。

お陰様で、私は未だに病院でミラノサンドを食べられていない。

エビとアボカドのやつ。


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