軍人のコンプレックスと臥薪嘗胆―大日本帝国史識の弐―

さて、大日本帝国の歴史を振り返り、あれダメだったよね、というためのシリーズ第3弾です。
駆け抜けてゆきます。ええ、駆け抜けてゆきます。
今回は、そもそも軍部って、軍人って何なんですか、って話をしたいと思います。

大日本帝国憲法により制定された、大日本帝国の陸海軍は、内閣から独立し、直接天皇の指揮下にあるもの、とされました。これを天皇による統帥権と呼びます。
その始まりから、大日本帝国における陸海軍は内閣と同等の地位に置かれていた、といえます。
もう一つ、陸海軍に大きな下駄をはかせたのは、1900年、第2次山県有朋内閣が制定した軍部大臣現役武官制です。その名の通り、陸海軍の大臣は、現役軍人じゃないとだめ、という法律です。
上記に統帥権の話が出ましたが、大日本帝国における現役の軍人は天皇の直轄です。軍部からの推薦を受けなければ軍部大臣を任命できない、つまり、軍部の承認がなければ組閣できないという事態に陥ったわけです。
もう一つ、統帥権を利用した軍部の政治行動に、帷幄上奏(いあくじょうそう)があります。内閣の政策に軍部が反対した場合、軍部大臣は「天皇の部下」として天皇に直接辞任を申し出ることができたのです。すると、軍部に新しい大臣を出してもらわなければなりませんが、そも軍部の意向を受けて辞任しているのですから、新しい大臣など出すはずもありません。
このような形で軍部に内閣のコントロールや、ひいては倒閣を許していたという事になります。
当時の陸軍は山県有朋率いる長州閥の天下でした。政党政治が隆盛する中、上記の法令を出すことに、対抗しようとしたともいえます。

軍人勅諭においては、「世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り」とあります。政治の動向に惑わず、お国のために働きなさい、というのが軍人に課せられた思想だったのです。
これはそもそも「軍人に課せられた」ものなのですが、ファシズム体制下で国民全体に課せられてしまいます。そういう風に育ってきた人たちがトップに立って世論をコントロールしたのだから当たり前と言えば当たり前なのですが。一般市民としちゃたまったもんじゃありません。

話を戻すと、この軍人と呼ばれる人たちに冷遇の時代が来ます。日清戦争後、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉で遼東半島を手に入れられませんでした。その恨みはらさでおくべきかとはやるのが「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」のキャッチコピーです。巻きに寝て、苦い肝をなめて、復讐を準備する、という言葉で、特にロシアに対する復讐心を燃やしていたのです。
そして、日露戦争です。三国干渉で取れなかった遼東半島を含む関東州の租借権、南満州の鉄道敷設権等を手に入れますが、賠償金をとれなかったことから、「軍人は役立たず」の烙印を押されます。日露戦争以降、大きな戦果を出せる戦争もなく、軍人は冬の時代を迎えていたのです。
戦果がなければ序列を抜いての出世もありません。
陸軍においては日露戦争以前と日露戦争後には大きな隔たりと溝があり、平時の序列で優位なのはもちろん、上記の長州閥であったわけです。

その長州閥の打破のため、横断的なつながりによる団結が試みられます。長野出身の永田鉄山、高知出身の小畑敏四郎、東京出身の岡村寧次を中心に、佐官級の将校たちが集まる「二葉会」、さらに拡大した組織である「一夕会」が成立し、軍内部を改革し、戦争計画の実施に向かっていくのです。

彼らは、高級幕僚と呼ばれるエリートたちでした。彼らの掲げたコピーは「昭和維新」。彼らの改革の目標はもちろん軍内部ですが、上記の通り、軍を掌握すれば、国権の掌握が可能になる、そういうシステムが大日本帝国には出来上がっているのです。
そして彼らが国権を掌握することに大変な問題点があります。彼らは、「世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り」が基本なのです。一般市民のいう事なんざ知らないのです。ただ戦争の事のみを考えているのが仕事の人たちなんです。

NHKのインパール作戦特集、司令部の方の証言が大変印象に残っています。後何千人死んだらインパールをとれる、というような話を聞いたという体験を語った後、「日本の軍人がこれだけ死ねば陣地が取れる、自分たちが計画した戦が成功した、日本の軍隊の上層部が。
悔しいけれど兵隊に対する考えはそんなものです。
知っちゃったら辛いです。」
そう慟哭しました。

少なくとも、その時のインパールの指揮官にとっては、兵の命は数字だったのです。

勿論、全ての高級幕僚がそうであったとは思いません。一兵卒に至るまで家族のように接した将校もきっといたでしょう。
ちなみに、インパールやガナルカナルを指揮するころの大日本帝国陸軍中枢には、前述の永田、小畑、岡村はいません。少なくともいたらこんなことにはなってないと思うんです。
彼らは内部抗争の末に中枢からはじかれてしまったからです。

次回その参は、彼らがどのような運動をし、それがこんがらがった結果上記の一夕会がどうなったのかを書こうと思います。次回、陸軍の将校たちのクーデターです。

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