陣営論による世界戦争時代―大日本帝国史識の伍―

はい、大日本帝国を振り返り、あれいかんかったよね、というためのシリーズ、その伍です。
だんだん、大日本帝国から離れて世界史の話してんじゃねえか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、その時代の日本は現代同様世界情勢のバランスの中で動いています。そしてその時代を象徴する大きなムーブメントが、戦争という国家事業だったのです。今回は、どうして帝国主義諸国がその戦争に走っていったか、それがなぜいかんのか、という話をしたいと思います。

さて、この話をしようと思うと、ヨーロッパの戦史に触れなきゃいけないんですが、これ際限なく広がっていくんですね。領土拡大の意思の有無の源流を問えば、ローマとパクスロマーナの思想は外せないでしょうし、だとしたらポエニ戦争やトロイ戦争までさかのぼる必要が出てきちゃう。ので、今回は大日本帝国存立当時にかかわるところにとどめようと思います。

ですがまず、前史として。
戦争における重要な目的の一つが、前述しましたが領土の割譲です。ヨーロッパという狭い地域に多数の国家がひしめき合う帝国主義諸国は、永い年月にわたってこの領土の取り合いを続けていました。
ですが、1600年ごろから、少しずつ戦争の目的が変化していきます。
例えば、1618年から始まる30年戦争。現在のドイツを舞台に30年の長期間にわたって行われた戦争ですが、この戦争の発端は、ルターの宗教改革から始まるカトリックとプロテスタントの対立でした。
この戦争の講和条約が、各国の主権を認め内政干渉を否定したヴェストファーレン条約です。
また、1792年から始まり、ナポレオン戦争に連なるフランス革命戦争。これは、思想敵である自由主義に対抗するため、ヨーロッパの王制諸国が第一次、第2次対仏同盟を組み、ヨーロッパ全土で戦った戦争でした。
この戦争からナポレオン戦争に発展、1815年、ナポレオンの完全失脚をもって20年にわたる一連の戦乱が終わり、ヨーロッパはウィーン体制と呼ばれる国際秩序の中に入ります。
また、1866年の普墺戦争は、ドイツ統一における主権争い。そしてそれを受けて1870年に開始される普仏戦争はウィーン体制の維持に向けたプロイセン王国とフランスの対立が原因でした。
この二つの戦争の後、ヨーロッパはプロイセン首相ビスマルクの外交努力による秩序体制に入っていきます。
明治維新後の大日本帝国建国スタッフは、このビスマルク率いる立憲君主国家、プロイセンを見本に国家づくりを始めるわけです。

そしてこのころから戦争の解決手段として成立した手法が、賠償金という制度です。冒頭で、戦争を国家事業、と言いました。戦争がはじまると、軍需産業が興り、内需を活性化することができる、という一側面があります。ですが、そのお金はあくまでも国からの負担であり、返ってこないお金です。それを、「負けた側に払ってもらおう、だって、負けたあいつらが悪かったって証明されたでしょ?」というのが賠償金というシステムなわけです。
特に大日本帝国のような物資力の弱い国では、この賠償金の有無は死活問題です。総力戦体制に入ってはなおさらですね。日露戦争の賠償金不獲得がどれだけ痛手だったか、という点はここからもわかると思います。

日露戦争の後、ヨーロッパから始まる2つの世界大戦に大日本帝国は参戦していくことになります。
一つは前項でも触れた1914年から始まる第1次世界大戦。ビスマルク体制は、時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がビスマルクを更迭し、親政を開始した当たりから崩れていきます。(黄禍論を言い出した人ですね。僕この人も好きじゃありません。)フランスの孤立は英、露、仏の同盟によって崩れ、ドイツの孤立化が進みます。
そして、バルカン半島での事件をきっかけにドイツ、オーストリア、イタリアの同盟国側と、上記の連合国が衝突したのです。
こちらの主戦場はヨーロッパでしたが、大日本帝国は日英同盟を理由に、中国国内のドイツ統治領青島(チンタオ)を攻撃します。
この講和条約がヴェルサイユ条約。この条約をもとにして連合国を中心に形成されたのが国際連盟、戦争を無くし、全てを国の代表者によるテーブルの上で解決しよう、という試みですが、20年と続きませんでした。その全てが「ドイツに賠償金を払わせ続ける」という前提から来ていたためです。
その膨大な賠償金は、理想に満ちた憲法も形無しにするほどの貧困にドイツを落とし入れました。そのドイツから現れたのがナチズムでありアドル・ヒトラーであったというのは前述したとおりです。

1939年、そのアドルフ・ヒトラーのポーランド侵攻から始まる第2次世界大戦。大日本帝国は対ソ連戦略、対米牽制の意図からドイツに接近。大日本帝国は、満州地方の強引な戦略と対米対立から国際連盟内で孤立を深めていましたが、1933年の国連脱退はその孤立を決定的なものにしました。
ドイツ、イタリアのファシズム国家にその大日本帝国を加えた、枢軸国と、国連率いる連合国との戦争がこの第2次世界大戦です。
結果はご存知の通り、ドイツ、イタリアはヨーロッパ戦線で降伏。ヒトラーの自殺、ムッソリーニの投獄でファシズム政権も崩壊します。中国の諸勢力、アメリカ、イギリス、ソ連をも敵に回した大日本帝国は度重なる本土空襲と2発の原子爆弾の投下により降伏。多数の犠牲を払った枢軸国側の敗戦により、この戦争は終結します。
そして1945年、第二次大戦の反省を踏まえた国際連合が発足。非植民地化や、平和維持、人道と文化などを監視する諸委員会を設置し、ヴェルサイユ条約以降の理想である「戦争のない世界」の実現に足を踏み出したわけです。

ですが、この後も戦争の歴史は続きますし、それに対して新しくつくられた「日本国」も無関係ではいられませんでした。「70年戦争をしていない国」はそれ故に半分不正解です。
第2次大戦後、アメリカ率いる資本主義陣営とソビエト連邦率いる共産主義陣営との勢力争いが始まります。ドイツは東西に分けられ、朝鮮半島は南北で分断、中国大陸内ではアメリカ支援の中国国民党と中国共産党との内戦が再燃、その他、ソ連が支援する共産主義勢力とアメリカが支援する資本主義陣営がアジア各国で内戦を繰り広げたのが東西冷戦と呼ばれた時代です。そのうちの一つ、朝鮮戦争は、日本はアメリカ側の後方支援国でした。この軍需の景気が、日本の急速な経済成長の一つの要因であったことは確かでしょう。

この冷戦時代に同時に行われたのが、核開発競争です。ソ連とアメリカは宇宙開発と核開発を同時に進め、核ミサイルの開発を進めていきます。
広島、長崎のグラウンド・ゼロは全世界に「あれはやばいものだ」という認識を植え付けました。その「やばいもの」を持っているという事が相手への牽制になる、と世界各国は信じて核保有と核開発を進めたのです。
核兵器の危険性を知った世界は、核拡散防止条約を制定。冷戦終了も相まって、世界は安定したかに見えます。
が、
戦争はまだまだ続きます。「この戦争といういけない行為をしようとしているやつ」、を国連平和維持軍をもって制圧する懲罰戦争が始まっていくのです。
1990年湾岸戦争、2001年アメリカ同時多発テロを受けての、2003年イラク戦争はまだ記憶に新しいものだと思います。

人類の歴史は戦争の歴史である、と言います。特に、1900年代以降の戦争において、誰かがあいつは悪い奴だ、と孤立させようとする。孤立を測られた側は仲間を集めて自分たちの仲間を作って対抗し、あいつらは人でなしだ、という。
そうやって戦争の歴史は形作られてきていると思うのです。
中国に侵略した日本人に対して中国の人たちは「東洋鬼(トンヤングィ)」と呼び蔑視しました。日本も同様に中国諸民族、朝鮮民族を「シナ、チョン」と蔑称を使って差別しました。第二次大戦が始まれば白人を「鬼畜米英」と呼び、あいつらは人でない、という教えが公教育でなされました。
相手を人だと思えば良心が痛む、だから人でないといわないと戦争ができない。

ですが当たり前のように、対岸にいるのは人です。どれだけ目をそらそうとも、人です。自分たちと主義主張を異にする、宗教を異にする、民族的対立を繰り返した結果憎み合っているとしても、人です。
その人を敵味方に区別し、敵を「殺してよいもの」とする、そこから戦争が始まりますし、その理屈の火種は今もすぐ隣にある、という事を気を付ける必要がある、と思うのです。
さて、次回は大日本帝国における民主主義の話をします。「大日本帝国の民主化運動とその敗北」です。

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