帝国議会と天皇大権―大日本帝国史識の陸―

大日本帝国を振り返って、あれダメだったよね、というためのシリーズ、その陸です。
いままで、軍部の暴走、戦争の状況等をつらつら述べてまいりましたが、政治家や政府は何をしてたんだ、寝てたのか!というあたり、疑問ですよね。
この疑問の解消の前に、認識が必要になる部分があります。
前述の予告とは異なりますが、今回はそもそもの帝国議会とは、という話と天皇大権について書いていきたいと思います。

大日本帝国における立法府、帝国議会は1889年、大日本帝国憲法の発布とともに設置されました。
これを現在の日本国の国会と同じイメージで考えてしまうと後々いろいろな齟齬が起きます。
まず、衆議院における選挙は普通選挙でなく制限選挙であったという事。当初の権限は直接国税15円以上、25歳以上の男子に制限されていました。1925年普通選挙法においても、女性の参政権は認められていません。女性の参政権獲得は日本国憲法の発布を待つ必要があります。25歳が20歳に引き下げられるのも日本国憲法からです。

そして、現在の参議院にあたる貴族院に至っては勅選、天皇の指名になるため選挙は行われず、基本的には終身任官です。
構成員は皇族、西洋の貴族階級にあたる華族の人々、それ以外の天皇がこの人!と認めた人たちで構成されているので、貴族院は民意のまったく届かないところであったわけです。

さらに、天皇の諮問機関、枢密院という機関が存在しました。日本国憲法草案の策定のために設置され、大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられました。緊急勅令、緊急財政の判断の権利を内閣同等に持っていました。自ら発議を行うことができない、大臣以外との公務上の交渉を禁じられ、施政への直接関与は禁じられていましたが、1927年には台湾銀行救済のための第1次若槻内閣による緊急勅令案を19対11で否決。実際に内閣を総辞職に追い込んだ事例も存在します。

まだあります。元老です。薩長閥の元総理大臣を中心に構成され、天皇に対して次期首相の推薦を行いました。実質、戦前の総理大臣の選定は彼らが行っていたと言っていいと思います。
最後の元老と呼ばれた西園寺公望の死後は、これが枢密院議長と内閣総理大臣経験者を含めた重臣会議に役割を映します。

ここまでで重要なのは、現日本国の議院内閣制に比べ、議会、内閣への民意は大変通りにくくなっているということ。民意の現れである、衆議院は様々な抑圧のもとに制限されていた、という事です。
大日本帝国の歴史の中で、「内閣は世論や政党に左右されずに国策を実行すべし」という、民意も議会も素無視した考えが幾度も顔を出します。これを超然主義と言います。

この超然主義に対して戦ったのが、国会設立、自由民権を訴えて戦っていた自由党、立憲改進党その他の民党と呼ばれる面々です。その自由党の後継政党である立憲政友会は普通選挙を実現し、300議席を上回る衆院議席を獲得しますが、幾度も組閣に失敗。最終、総力戦体制下の大政翼賛会に飲み込まれ消滅します。その当時は、どれだけの民意が集まろうと、天皇と元老ら重臣の推挙がなければ組閣に至らなかったからです。

結果、大日本帝国の全ての国事行為には天皇の承認が必要となりますが、そのタガを外れて暴走しだしたのが昭和陸軍閥であることは前述のとおりです。初期メンバーが作った立憲君主制は、内地に関しては穏やかな統治を行う天皇のもとで機能しましたが、外地を天皇の名をカサに着た暴力にさらしました。そしてその暴力はファシズム体制下、帝国臣民と呼ばれた一般市民に降りかかるのです。

現在のわれわれの憲法観から考えると、なぜそうなるのか、と疑問がわくと思います。っていうか沸いてほしいと思います。
この考えの大元には、お手本としたドイツ流の立憲君主制が存在しています。絶対君主制とフランスから始まる自由主義との妥協で生まれ、憲法を制定しつつ君主の主権を制限しない、というスタイルだからです。憲法は君主を制限するものである、という基本を骨抜きにしたものなんですよね。
勿論、この人治主義の失敗は、ビスマルクからヴィルヘルム2世に船頭を変えた瞬間一気にヨーロッパの敵となっていったドイツを見れば明らかだろう、と思います。
絶対王政の人治主義は、名君と暗君で天国と地獄を見せる。そのために、法治の観点から権力者を制限する憲法ができたのですから、当たり前と言えば当たり前の結果なのです。

Twitter等でネトウヨさんが、大日本帝国憲法は「天皇に主権がある」という明記がない、主権は国家にあったのだ、という珍意見を見ましたが、もちろん、明記がないだけで統治権、軍事権、国家代表権などなど、主権者が持つべきすべての権利を天皇に集中させているのが大日本帝国憲法です。あくまでも大日本帝国の主権者は天皇なんです。
また、某地方市議が「大日本帝国憲法の復活を」みたいなことを書いていましたが、大日本帝国憲法が上記の方針で立てられていることを鑑みれば、言わずもがな憲法の規定にのっとって選出された議員が言っていい事でないことは明白です。

現行憲法は国を法の下に治め、国民をその主権者と頂く。主権者の代表として選挙を受け、議会に出た代議士が「国民は臣民www」とか言い出したら投票者に対する背信以外の何物でもないのです。

話が少しそれましたが、上記の性格の帝国議会の下で、俗に自由民権運動、護憲運動と言われた民主化運動は行われたのです。
次回、その民主化運動の経緯とその敗北についてです。

最後になりますが、73回目の終戦記念日を迎え、戦争の惨禍で命を落とされた全ての方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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