陸軍将校とクーデター―大日本帝国史識の参―
引き続き、大日本帝国を振り返り、あれダメだったよね、というためのシリーズ第4弾です。駆け抜けます、どんどん駆け抜けます。だってこんな怖いネタ。足を止めたらもう書けなくなっちゃいますもの。中身的にはその弐の続編、というよりも弐と今回の参を合わせて一つのお話と考えてもらった方がいいかと思います。今回は昭和という時代における陸軍の国を巻き込んだ内紛とその顛末のお話です。
正直、この辺のお話って、ごく最近のある時期まで触れることがタブーとされていました。何故か、と言われると僕も正直わかりません。あまりにもひどい戦争の惨禍をくぐった後、「あいつらが悪かった」で済ませてしまいたい気持ちに皆がなったのかもしれません。特に太平洋戦争の責任者として象徴的な存在である東条英機を始め、A級戦犯として処刑された人間は、皆陸軍側です。
ですが、歴史とは、史料とはその詳細を知り、過去から学ぶために残されています。彼らがどういった存在だったのかは、皆が知ってなければならないと思うのです。
前置きもぼちぼちと、本題に入ろうかと思います。
軍隊というところはどこまでも序列の世界です。これが翻ってしまうと戦線の維持なんざできません。
その基準の一つがもちろん階級。そして、将校たちの間で重要な基準であったのが、陸軍士官学校の卒業年次です。先輩後輩の上下関係はもちろん、同期の絆も強いものでした。
ちなみに陸軍士官学校の卒業年次で有名どころを並べてみます。
1期:宇垣一成(流産内閣)、
5期:金谷範三(満州事変時参謀総長)、
6期:南次郎(満州事変時陸軍大臣)、
8期:渡辺錠太郎(2.26事件時教育総監)・林銑十郎(首相、斎藤、岡田内閣陸軍大臣)
9期:阿部信行(首相)・真崎甚三郎(2.26事件主要人物)・本庄繁・松井石根・荒木貞夫(陸軍大臣)
10期:川島義之(2.26事件時陸軍大臣)
12期:杉山元(陸軍大臣)、畑俊六(陸軍大臣)、香椎浩平(2.26事件時戒厳司令官)
ここくらいまでが日露の英雄になりえた人たち、そしてここから下、
15期:梅津美治郎
16期:※岡村寧次・※土肥原賢二・※板垣征四郎、※小畑敏四郎、※永田鉄山
17期:※東條英機
18期:※山下奉文
20期:木村兵太郎
21期:※石原莞爾、
22期:※村上啓作、※鈴木率道、※鈴木貞一、※牟田口廉也、相沢三郎
23期:橋本 欣五郎
24期:甘粕正彦
25期:※武藤章、※田中新一、※富永恭次
この人たちが、今回の話の主役たる昭和理軍閥を作り上げた、「日露に遅れた」人たちです。
うち、※のついた人たちが「一夕会」のメンバーになります。えっと覚えなくてもいいです。名前がわかんなくなったら戻って、ああ、と思っていただく程度で大丈夫です。
彼らの当初の目的は、
1.陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める
2.満蒙問題の解決に重点を置く
3.非長州閥の荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を盛りたてる
この3点でした。彼らは軍内部の課長級クラス役職をメンバーで抑え、陸軍内の人事を掌握します。
掌握したものの、一夕会の中でも派閥争いが発生します。
長く続く対中国戦にけりをつけたい永田鉄山の対支一撃論と、来る対ソ連戦に準備をするべきだという小畑敏四郎の対ソ戦準備論が戦略上の対立を起こしたためです。
小畑周辺の人間は、荒木貞夫の、「皇軍」による「天皇親政」の実現を目指す思想に寄っていくことから皇道派と呼ばれようになります。
また、それに対して永田、東条らを中心とした陸軍の統制を重視したメンバーは今日「統制派」の名前で知られています。
そのどちらにも属していない一派が、外地部隊「関東軍」一派である、石原、板垣らです。
これらのメンバーは、時に協力し、反目しながら軍部によるクーデターを画策していきます。
1931年3月、一つのクーデター計画が軍内部で明るみに出ます。橋本欣五郎率いる桜会が、民間右翼と共謀し議会を占拠、武力を背景に当時の陸軍のドン、宇垣一成を首相に据える、という作戦でした。三月事件と呼ばれます。準備不足から不発に終わったもののこの計画は軍内部で秘匿されました。
同年9月、陸軍は満蒙問題の解決に対して実力行使に出ます。板垣征四郎と石原莞爾は関東軍の保護する南満州鉄道を爆破し、中国側の犯行として喧伝します。柳条湖事件、後に連なる満州事変の端緒です。
これに対し、政府は不拡大・局地解決の方針を発表。同年10月、それを不服とした橋本桜会と民間右翼は再び軍事クーデターを計画します。この計画も実行前に実行犯を検挙、事態収拾にあたりましたが、政権に対する軍部の優位を強める結果になりました。
これらの事件を通じて統制派は力を増していき、同時に皇道派への弾圧を強めていきます。
皇道派は、急進的な行動思想をもつ青年将校運動と結びついて、その過激さを増していきました。
1934年11月、陸軍士官学校において、皇道派の士官候補生がクーデター未遂で検挙される事件が起きます。陸軍士官学校事件と呼ばれます。
統制派はこの事件をクーデター計画を未然に防ぐのに成功したのものだとし、その一方で皇道派は、統制派による陰謀であると主張しました。
ここから2派閥間の抗争は血なまぐささを増していきます。
1935年8月、外地への左遷を命じられた皇道派将校、相沢三郎中佐が白昼、軍務局長室で永田鉄山を惨殺する、という事件が起きます。相沢事件です。
そして、1936年2月26日、青年将校らが決起し、首相ほか重臣の殺害や重要省庁の武力制圧を計画、実行に移します。この事件で財政のプロである高橋是清や、斎藤実元首相が軍部の銃弾によって倒れました。
日本陸軍の銃口は、この時自国民に向けられたのです。
事件発生を知った石原は、その朝に陸軍省に辞表を提出した、と言われています。
「あなた一人が身を潔くしてもどうにもならないでしょう」
と電話での慰留を行う鈴木貞一に対して石原は
「俺一人が身を潔くするのではない、こうなったら佐官以上は皆辞めるべきなのだ」という趣旨のことを言ったといいます。
軍内部の武力衝突という最悪の事態を引き起こしたのは、自分たちだという認識があったのでしょう。
石原をはじめとする統制派によって乱は鎮圧。皇道派将校も連座して処分を受け、小畑は予備役に編入され陸軍を去ります。
この事件の鎮圧で活躍した石原は、永田に代わる陸軍統制派のリーダーになっていくのです。
その石原も1937年7月、盧溝橋事件への派兵の責任を取り、失脚。太平洋戦争開戦前には予備役に編入され陸軍を去っています。
太平洋戦争開戦時には、陸軍には総力戦体制を研究し持ち込んだ永田鉄山は鬼籍に入ってもういません。小畑は予備役、岡村は前線にいます。そのあと頭脳を担った石原も陸軍を去りました。
戦略を動かす頭脳がない状態の巨大で強権的な組織、それが昭和陸軍閥であったのだと思います。
「世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り」
その彼らの内部抗争の結果が、責任者不在の軍部独走であった、とすれば、悪いのは東条一人ではありません、A級戦犯死刑囚を入れても足りません。戦争という陣取りゲームに熱狂し、世の中を高い所から見下ろし、人の命を数字のように扱った当時の幕僚たち、政治家たち全員です。
この反省から、大日本帝国滅亡後の日本国は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」たのだという事を述べて、本稿の結びとします。
と、結んだところで、次は、そもそもなんで侵略するんよ、という話と、侵略がなんでいけないのかという話、帝国主義的版図と民族自決の矛盾です。
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