大日本帝国の民主化運動とその敗北―大日本帝国史識の漆―

七の漢数字の大字って、「漆」なんですね。調べてみて初めて知りました。さて、そんなこんなの大日本帝国を振り返ってあれいかんかったよねっていうためのシリーズその漆です。
今回は前回からの疑問テーマ、その時政党や内閣は寝ていたのか、についてです。もちろん寝てはいません。苛烈な争いと、妥協の末に沈んでいったのです。その経緯を書いていこうと思います。

まず、大日本帝国内閣制成立後から、民主化運動敗北の象徴である大政翼賛会成立までの内閣総理大臣を一覧にします。陸軍の人物名簿同様、覚えてなくても差し支えないです。気になったらあとで戻ってきてもらえれば。

まず明治期。
1:伊藤博文(長州閥)、2:黒田清隆(薩摩閥)※大日本帝国憲法発布 
3:山県有朋(長州閥、陸軍) 4:松方正義(薩摩閥) 5:第2次伊藤博文(長州閥)6:第2次松方正義(薩摩閥) 7:第3次伊藤博文(長州閥)
8:大隈重信(憲政党)※隈板内閣
9:第2次山県有朋(長州閥、貴族院、陸軍)
10:第4次伊藤博文(長州閥、立憲政友会)
11:桂太郎(長州閥、陸軍)12:西園寺公望(立憲政友会)
13:第2次桂太郎(長州閥、陸軍)14:第2次西園寺公望(立憲政友会)※桂園時代

そして大正期。
15:第3次桂太郎(長州閥、陸軍)※第1次護憲運動
16:山本権兵衛(薩摩、海軍)17:第二次大隈重信(立憲同志会・中正会)
18:寺内正毅(陸軍)※超然内閣 
19:原敬(衆議院、立憲政友会)※平民宰相
20:高橋是清(貴族院、立憲政友会)21:加藤友三郎(海軍、非薩摩閥)
22:第2次山本権兵衛(薩摩、海軍)※関東大震災
23:清浦圭吾(枢密院)※超然内閣、第2次護憲運動
24:加藤高明(貴族院、憲政会)※護憲3派内閣
25:若槻禮次郎(貴族院、憲政会)※昭和恐慌 満州事変

そしてこれ以降か昭和開始から大政翼賛会まで。
26:田中義一(貴族院、立憲政友会、陸軍)
27:浜口雄幸(衆議院、立憲民政党)※ライオン宰相、幣原外交
28:第2次若槻禮次郎(貴族院、立憲民政党)※満州事変
29:犬養毅(衆議院、立憲政友会)※5.15事件
30:斎藤実(海軍、非薩摩閥)※満州国承認、国連脱退
31:岡田啓介(海軍、非薩摩閥)※天皇機関説問題、2.26事件
32:広田弘毅(外務官僚)33:林銑十郎(陸軍) 
34:近衛文麿(貴族院議長)※盧溝橋事件、国家総動員法
35:平沼騏一郎(貴族院、枢密院議長) 
36:阿部信行(陸軍)※第二次世界大戦勃発、ノモンハン事件
37:米内光政(海軍) 38:第2次近衛文麿(貴族院)※日独伊三国同盟、大政翼賛会

一応、高校の教科書に載っているやつですね。高校の日本史ってこういうところまでやってくれなかったって人もたくさんいると思います。戦国や幕末で時間を使いすぎて明治以降やってないってところも多いみたいですし。

明治内閣制度成立以降、首相のポストは薩摩閥と長州閥の綱引きになりました。そこに対して戦ったのが、穏健派、立憲改進党、民権急進派の自由党などの自由民権運動の諸政党です。これを政府は集会条例等を用いて弾圧しますが、運動の高まりの中、穏健派、急進派は大同団結運動の末、憲政党を結成。第3次伊藤内閣倒閣の後、1898年6月、穏健派大隈重信を首相、急進派板垣退助を内相とした初の政党内閣「隈板内閣」を組閣します。
ですが、憲政党の分裂騒ぎの混乱や、強硬外交姿勢による対外関係悪化の中、大隈内閣はわずか4か月で倒れます。
その後、山県有朋が山県閥と呼ばれる自派藩閥人材、官僚を起用した超然内閣を組閣。その裏で、伊藤博文は藩閥主導による超然内閣の限界を感じ、自ら「立憲政友会」の設立に動きます。
政党に対する敵対心の強い山県は政友会を潰そうと企図しますが、失敗に終わり、
1900年10月、自由党系民権派を組み込んだ政党、立憲政友会を与党とした政党内閣「第4次伊藤内閣」が成立。これが大日本帝国史を通して帝国議会を進めていった巨大政党、立憲政友会の始まりです。

1913年、この立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅を中心にした憲政擁護会が、時の超然内閣、第3次桂内閣に内閣不信任案をたたきつけます。

「彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

尾崎行雄による桂内閣不信任演説です。
桂はこの不信任決議を避けるために国会を5日停会。これに不満を爆発させた民衆の集会運動へと発展します。日本各地での集会の中、桂内閣は総辞職。大日本帝国建国以来、初めて大衆運動が内閣を倒した例となります。これが、第1次護憲運動、またの名を大正政変です。

憲政党から分裂した大隈派は憲政本党を名乗り、分裂と改名を繰り返しながら、第3次桂内閣倒閣後に山県系官僚、政治家たちと合流、立憲同志会を設立します。

この後、半政党内閣である山本権兵衛内閣が疑獄で倒れ、立憲同志会による第2次大隈内閣が成立。しかし、第1次大戦の隙をついた対華21箇条要求などの強硬外交が国内外の不満を招いて倒れ、超然内閣である寺内内閣成立。米騒動による民衆暴動がこの寺内内閣を倒す結果になります。こののち、原敬、高橋是清が政党内閣を成立させますが、立憲政友会内の内部分裂のため、4年足らずで終わります。
立憲同志会は、政友会の離反組等を加えながら、1916年、憲政会を結成。

加藤友三郎内閣、山本権兵衛内閣における関東大震災を経て、枢密院議長清浦圭吾による、貴族院議員で構成された清浦内閣が成立します。
高橋是清率いる立憲政友会、加藤高明率いる憲政会、前述の犬養毅率いる革新倶楽部の3政党が護憲3派を結成。清浦の議会対策に不満が高まっていた民衆が総選挙でこれに答え、護憲三派が衆議院の圧倒的多数を占めました。その末、憲政会加藤高明に組閣の大命が降下。普通選挙法の実現を実行する護憲3派内閣が成立します。これを第2次護憲運動と呼びます。

ここまでが大正デモクラシーの隆盛期。こののち、政党政治は下り坂に向かっていきます。
大正デモクラシーの隆盛は、第一次世界大戦後の好景気に支えられたものでした。前述しましたが、荒廃した欧州に代わって、アメリカ、日本がその受注を引き受けたためです。
ですが、荒廃した欧州の復活に伴い、好調だったアメリカが赤字に陥ります。世界恐慌の始まりです。
この世界恐慌から端を発した昭和恐慌のあおりを受けたのが、憲政会の後継政党、立憲民政党を与党とする第2次若槻内閣です。若槻ら昭和恐慌に対処できないまま、農村、中小企業が窮乏化。この間に為替のレートで利益を得た財閥に国民の恨みの目が向きます。そして、軍部は独断で満州事変を決行。足並みのそろわないまま若槻内閣は総辞職します。

その頃の立憲政友会にはさらなる変化が。分裂と内紛を栗化した政友会は、有力者の離脱と決別を繰り返した結果、高橋是清の後継者を選定できない事態に陥ります。そこで後継総裁に白羽の矢が立ったのが、元陸軍大将田中義一です。田中は総裁就任後、強硬派の人材を多数政友会に招き、政友会を親軍的政党に変質させます。
別側面から見れば、民主化サイドからの支持を民政党が集める以上、政友会は反対側である軍国化サイドを取りに行くしかなかった、というとらえ方もできますが…。いやほんとどこかで見たことのある話です。
田中政友会は民政党への攻撃色を強め、政友会、民政党の二大政党は対立を深めていきます。その結果、お互いの汚職を暴き合う泥仕合に突入していくのです。
この泥仕合の結果、三井財閥団琢磨、民政党井上準之助元蔵相が暗殺された血盟団事件、犬養毅が殺害された5.15事件、高橋是清らが殺された2.26事件が発生した、と言えるのではないでしょうか。世間を渦巻く不安は凶弾となって彼らに降り注いだのです。

もう一つ、この大正デモクラシーにおける民主化運動の一つに、美濃部達吉の提唱した天皇機関説があります。天皇は国家の機関の一つであり、議会、軍などを含めた国家を一つの法人として主権者としてとらえる、という考え方です。
1912年の発表以降、政党政治を支えましたが、これが軍部の大きな反発を招きます。田中政友会や軍部の力が強くなった1935年、天皇機関説を不敬として美濃部達吉が告訴される事件が起きます。これ以降、政府は国体明徴声明を発し、天皇の絶対主権に傾いていくのです。

しかし、まだこれがとどめではありません。大日本帝国の民主化運動に最終のとどめを刺したのは第2次近衛文麿内閣だと思っています。何をもってか。もちろん、大政翼賛会の完成をもってしてです。
いかな泥仕合を演じていようとも、この2大政党による政権交代には大きな意味がありました。政権に対する民衆の批判を反映する装置としての意味です。近衛は総動員体制完成のためにそれを壊し、ファシズムの完成に大手をかけたのです。以降、帝国議会は軍部専横の追認機関として、太平洋戦争を行うのです。

先ほど大日本帝国の民主化にとどめを刺したのは近衛だ、と言いました。この近衛文麿は第1次組閣時から国民の絶大な期待を受けて登場します。かれは大政翼賛会成立のほかにも、蒋介石との交渉決裂「第1次近衛声明」、企画院、大本営の設置、太平洋戦争の引き金となる東亜新秩序の発表など多くの事をその人気の下で行います。
その様々な失策を、そのポピュリズムのもとで承認した国民たちがいた、という事です。

藩閥打破、民主政党による政治の実現の折に触れて、民衆の直接行動が重要なキーになっているのは上記で確認いただけると思います。その結果見せつけられた腐敗と、押し付けられた貧困、そして横行するテロリズム。
その退廃に飽いた民衆が強いリーダーを求め、そのリーダーのもとの結束を要求していく。
その結果が第2次世界大戦の惨禍です。
大日本帝国の民主化は何に敗北したのか。それは、無力感から近衛というポピュリズム的リーダーに思考を預け、自らの頭を使って考えることを放棄した国民たちだったのではないのか、と思うのです。

次回、結、大日本帝国とは何だったのか、です。

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