演劇は何でもできる、か…?~演劇人あるある~

演劇人あるあるの第4.5弾、って感じです。昨日の記事がね、なんか自分でももやもやしましたので。
「演劇は何でもできる」って表現、ほかの表現やってらっしゃる方からしたら、それこそモヤっとなるよな、と思いまして。
そこのところをもうちょっと掘り下げてみようと思います。

昨日の記事にも書きましたが、演劇という表現には規定のツールがありません。この構成要素があるから演劇だって、ならないんですよ。
歌が入ったっていいし、楽器演奏は生で入れるし。ダンスも普通に入るし、映像だって使います。舞台美術さんは背景に絵画を書きますし、衣装さんは服をデザインします。

じゃあ、演劇としての最小限のマストは何でしょうか?
台詞をしゃべっている事?オペラも演劇ですよね。あれ、全部歌です。無言劇っていうのもあります。そう考えると、台詞は芝居のマストではないんです。

台本があること?インプロビゼーションがありますよね。完全即興劇もあります。脚本の人間が言うのもなんですが、その意味では台本も演劇のマストではありません。

劇場でやること?いえ、路上パフォーマンスもあります。野外劇もテント芝居もあります。カフェでもやります。役者がいるところすなわち劇場です。つまり、「劇場」という場所の縛りは消えてしまいましたね。

後残るはなんでしょう。役者がいること、そしてお客様がいる事。おそらくこれが「演劇」」を構成する最小限のマストです。
でもこれって、音楽のライブだって、ライブペイントだって、ダンスパフォーマンスだってそうですよね。

昨日も書きましたが、「芝居」の語源は芝に座ること、お客様の行為から来ています。英語のdramaの語源は「行為」。ActもPlayも「する」です。

表現方法に縛りがない事、それ故に「演劇」はこういうものだと断定できない。それが演劇という表現の弱みでもある、という事なのです。

では、飲み屋さんで「兄ちゃん、役者?なんかやってよ。」と言われて、すぐに役者とお客様になれるか。
なれないんです。悲しい事に。いや、出来る人もいるのかもしれないです。
でも僕はやっぱり相手役が欲しくなり、台本が欲しくなり、衣装が欲しくなり、なにより稽古が欲しくなります。
ひとりで、即興でお客様にお出しできるものって言ったら、外郎を売る(演劇の発声練習で歌舞伎の一演目)くらいです。

これが、ほかの表現にたいして僕が感じてしまう「演劇人」としてのコンプレックスなんですよね。

言い訳を連ねましたが、
そして、上記の内容に反するかもしれませんが、
相手役と台本を与えられ、劇場に立った役者は本当にいい仕事をします。ぜひ見に来てください。小さな小屋でやってます。地元の地名と演劇で調べたら、大小いっぱい出てきます。
是非見にいってみてください。

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