帝国主義的版図と民族自決の矛盾―大日本帝国史識の肆―

引き続きに引き続きまして、大日本帝国を振り返り、あれいかんよね、というためのシリーズのその4です。今回は、帝国主義がなぜ領土を求めるのか、そしてそれが何を破壊するのか、という話をします。

領土問題として現在の日本国に残っているのは、韓国との間の竹島問題、中華人民共和国、台湾政府、中華民国との間にある尖閣諸島問題。そして、ロシア連邦との間にある北方4島の問題だと思います。
外国に目を移せば、東南アジア諸国と中華人民共和国との間にある南シナ海諸島域の問題、「九段線」の問題も耳に新しいかと思います。

対中、対韓における現在の領有権の問題は、周辺を含む排他的経済水域における漁業権、地下資源の権利が重要なファクターになっていますが、大日本帝国存立当時はどうだったのか。
1860年代、大日本帝国が生まれたての頃は、帝国主義全盛の時代。つまり大植民地時代です。ヨーロッパ各国がアフリカ、アジア、ラテンアメリカに求めて出たものはまず第一に、現地の特産品。お肉の保存に必要な香辛料、美味しいお茶、金属器に比べお茶が「あちちっ」てならずに飲めるボーンチャイナなどなど、ヨーロッパ圏内になかったものを求めて飛び出したのが大航海時代でした。特にラテンアメリカから持ち帰ったトウモロコシとジャガイモは人類史上有数の発見でした。低い降水量でも土地を選ばずよく育つこの2種の流通は、世界の人口増加に大いに貢献します。
そして、もう一つ。労働力の確保です。未開拓な地域の教化、文明化を建前に、ヨーロッパ諸国はアフリカ、アジア、ラテンアメリカを征服、支配し、現地の人間を安価な労働力として活用するのです。アメリカにおける黒人奴隷の事例はその典型ともいえるでしょう。

では、大日本帝国の場合は?上記のどちらも目的ではありません。そもそも文化形態のほぼ同じ地域間で特産品の違いが生まれるほど没交渉でもありませんし、朝鮮半島からの動員もあったでしょうが主目的はそこじゃありません。
ではなにか。防衛ラインの設定目標がその理由であった、と考えます。
日本列島という横幅の狭い島国、そして隔てているのは日本海という狭い内海です。その先に鼻先を突き付けているのが、アジア文化圏の覇者漢民族の帝国と、ロシアです。
これに対する防衛のため、台湾諸島はほしい、朝鮮半島は必須、できればその先、中国北東部までは手に入れたい。これが、建国当時の首脳部の考えでした。
明治の政変のもととなった征韓論、あれ朝鮮半島への侵攻に賛成か反対かの議論じゃないんです。今すぐか先送りか、の議論なんです。上層部にその領有に対する反対意見なんてなかったんです。相手の国では伊藤博文が蛇蝎の如く嫌われていますが、内地派の大久保も木戸もそういう意味ではみんな同罪です。

この防衛ラインの設定はいつから行われていたか。秀吉の時代でしょうか?朝鮮出兵を行った秀吉はいまだに蛇蝎の如く嫌われています。
または、いやいや中大兄皇子の時代ですよ、という方。同盟国への援軍という体ですが、確かにこの時代、出兵を断行しぼろ負けしています。
ですが、朝鮮侵攻の史料として一番古いのは399年の事績を残した高句麗好太王碑文、そして478年、遣使し上表文を遣わした倭王武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」とした、と記される宋書倭国伝であろう、とおもいます。
(神功皇后の三韓制圧は反証が少ないためカウントしません。)少なくとも、東北地方がまだ領地でなかったくらいの時代から、朝鮮半島は欲しくて仕方のない地域だったという事だったのでしょう。

中国分割が始まり、福沢諭吉「脱亜細亜論」の掛け声も華々しく、大日本帝国は中国北東部、満州と呼ばれる地域へと進んでいきます。(この過程のせいで個人的には福沢諭吉の事もあまり好きじゃありません。)
そこで、ロシア帝国との利権にぶつかるのです。

ちなみにロシア帝国の時代から、ロシアの拡大政策の基本は「南下」です。北方にあるロシアの海は冬は凍ってしまいます。貿易はもちろん、軍事行動にも大変な差支えがあります。ので、凍らない港を手に入れる事が当時の(もしかしたら今にも続く)ロシアの目標なのです。

この戦争の辛勝に英米の2国の協力があったことはすでに述べましたが、これも単なる親切ではもちろんありません。イギリスはそもそもこのロシアを抑えるため、栄光ある孤立を捨ててまで大陸の反対側にあるアジアの小国と手を結びました。自身が持つ中国大陸利権の保護のためです。
アメリカも同時期、中国大陸における門戸開放を打ち出し、中国大陸分割への参加に意欲を燃やしていました。この利権への目的であったのではないか、という根拠として、日露戦争後、アメリカでの反日感情が高まったことを上げておきます。

この日露戦争の勝利に、後に伊藤博文を暗殺する活動家、安重根(あんじゅんぐん)が喝采を上げて喜んだといわれています。アジア有色人種がヨーロッパ白色人種を打ち破ったという事実は、未開後進国<欧州先進国という規定概念を覆したといえます。

これに対して異を唱えていたのが時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世です。彼は日清戦争後に、モンゴル帝国の襲来などを例に挙げ、「僕らずっと黄色いのにえらい目逢わされてきたやん。ちょっと黄色いの調子のらしたあかんのちゃうの。」というようなことを言います。黄禍論です。これが、日露戦争後にはさらに広がります。

これこそ、当時列強と呼ばれた帝国主義白人国家の本音であったのでは、と思うのです。
植民地という利益媒体は、現地民を半開、未開として自分たちの支配下に置くことを基礎としています。ですが、もちろん、そこには現地の文化があり、宗教があり、言語があり、何より人権があります。
勿論の如く、これは1789年フランス人権宣言の発令された後の話です。
そこから100年もたっているにも関わらずそんなことを言うヴィルヘルム2世のように、植民地における人権に目をつぶることでしか、植民地主義は成立しえなかったのです。
特にファシズム専制時代、大日本帝国統治下の植民地では「皇民化政策」と称し、宗教、言語の破壊を徹底されました。その上で民族を二等国民、3等国民にランク付けをして、自分たちを一等国民としました。上記と同じことを、大日本帝国も例にもれず行ったという事は忘れてはいけないことだと思います。

第一次大戦の後、民族自決の動きが広がりますが、それでも列強諸国は植民地を手放しませんでした。ブラックマンデーから始まる世界恐慌に対しては植民地を中心にした閉じた経済にして危機を回避する、というブロック経済を始めます。植民地の是非が国としての生き残りを左右する、その状態から、植民地後進国が再分割に乗り出す、というのも第二次世界対戦開始の一要因です。

フランスのアナトール・フランスは小説『白い試金石』の中で、ヨーロッパの「白禍」こそが「黄禍」を生み出したのだと主張したといいます。
確かに、白人の帝国主義的拡大主義が世界を混乱させ、有色人種のアイデンティティを毀損したのは事実だと思いますし、旧宗主国による精神的支配はいまだ解かれているわけでない、と考えます。
それだけ深い爪痕を残した帝国主義に乗っかって、同じアジア民族を蹂躙した大日本帝国ってやっぱりだめだよね、というのを本稿の結びとします。

次は、世界の対立と戦争というもののシステムの変化について。陣営論による世界戦争時代です。

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