弘法ほど筆を選ぶ…のかもしれない
「弘法筆を選ばず」ということわざがある。『ウィクショナリー日本語版』によれば、次のような意味だ。
ちなみにこの認識は万国共通のようで、外国語でも「a bad workman always blames his tools(英語:下手な職人は、いつも道具に文句をつける)」や「неча на зеркало пенять, коли рожа крива (ロシア語:顔がゆがんでるからと言って、鏡に文句を言ってはいけない)」といったようなことわざがあるらしい。
ところで、僕はプロ野球が好きだ。3月末から10月までは毎日のようにスポーツナビの野球速報アプリを前に一喜一憂しているほか、パワプロで様々な選手を作成したり、球団ホームページやWikipediaなどで情報収集したりしている。それを見ていると、そんな二つ名は聞いたことないが「球界の弘法大師」と称されてもおかしくない選手ほど、自身が使う道具、特に得意分野における道具には並々ならぬこだわりを持っているように感じられる。そしてそれは、野球に限った話ではなく多くのスポーツで同じように感じられる。
例えば、「アライバコンビ」の"イバ"として遊撃手部門で7度のゴールデングラブ賞を獲得した名手・井端弘和氏(元 中日、巨人)は「グローブは一貫してMIZUNO社製」「ポケットを深くすることで確実な捕球のできる設計」「手元に届いてからキャッチボールやノックといった練習を通して自らの好みの型に仕上げていく」というこだわりを持つ。同じく遊撃守備の名手として名を馳せた鳥谷敬氏(元 阪神、ロッテ)のこだわりは「捕球面の革の部分は標準より薄く作られている」という井端氏と異なるものなのが面白い(ちなみに、井端氏の著書『内野守備の新常識 4ポジションの鉄則・逆説&バッテリー・外野・攻撃との関係』(廣済堂出版、2019年)にて行われた鳥谷氏との対談でもそのことについて触れられていた)。同じ"守備の名手"でもポジションなどによってグラブの重視するポイントは異なるようで、2023年現在プロ野球史上唯一となる「先発登板0でのゴールデングラブ賞(投手部門)選出」を2011年に成し遂げた浅尾拓也氏(元 中日)は「グローブの軽さ」を重視しつつも「グローブのサイズ、特に親指と小指部分の幅を大きくしていることで、ボールの握りを隠す」という投手ならではのこだわりを見せる。
バットに目を向けると、今年春に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で主軸として大活躍した吉田正尚選手(MLB ボストン・レッドソックス所属)は「小学生時代からバットへのこだわりが強い」「『湿気によってバットの重さが変わるだけで(バッティングの)結果も微妙に変わる』とのことで、バットケースには乾燥剤を必ず入れている」という徹底ぶりだ。
例に挙げた選手が2000年以降に活躍した選手ばかりなので、「"良い道具"へのアクセス」という面においても現代のスポーツがかつてより進化しているからというのはあるかもしれない(昭和の選手でもそういった話は聞いたことがあるが)。
とはいえ、「選手がより良い道具を用いて結果を向上させる」ことは何らルール違反ではない。個人的にはむしろ、グローブのポケット部分やバットの含水量にミリ単位までこだわり、結果に繋げようとするその姿勢には"求道者"的なものを感じ、尊敬の念を覚える。
何より"本人の高い実力"に"実力を最大限生かせる道具"が加われば「鬼に金棒」「虎に翼」だ。そうやって競技内の平均レベルないし最高水準を上昇させることこそ、競技を発展させる動力源だと思う。
一方で、「弘法筆を選ばず」にはこのような意味もある。
この意味で考えたら、このことわざはスポーツにも当てはまると言える。
スポーツに限った話ではないが、自分が上手くいかないことを周りの所為にする場面はそれなりに目にする。仮に「周囲が至らない所為で、本人の技量ほどの結果が出せない」状態であれば多少の同情はされるだろう。それでも、本人がそれをしてしまったら"ゲームセット"、少なくとも"大幅な減点"だと思う。本人の与り知らぬところでその"周囲"に助けられた経験だってあるかもしれない。何より、いささか厳しい言葉になるが「苦境の中で黙々と努力を続ける人間と、ウダウダ言い訳する人間、どちらがより応援されるか。さらに言えば、より"機会"に恵まれやすいか」という話である。
よりよい道具を使ったり環境を変えたりすることで、より良い結果を出そうとするのは大歓迎だ。しかし、どんなに周りがお膳立てしようと最終的な決め手は自分。そう肝に銘じておきたい。
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