ジャニーズ的なもの
BBCが「J-POPの捕食者」なるセンセーショナルなタイトルで事件を世界に配信したのは3月だったが、9月現在でニュースアプリを弄っているといまだその続報や検証記事が出てくる。
まだやってんの感が否めないがそれだけ衝撃が大きかったということか、それとも事件を下火にしたくない人達がいるのか、何にせよプレビューが稼げる内は類似の記事が出続けるんだろう。
ジャニーズのアレの記事にいくつか目を通したけれど、テレビ局の責任がどうたらマスコミの報道姿勢がどうたらと大体同じような論調が繰り返されている。BBCが配信する30年前くらいから告発はあったが握りつぶされた、無視された、無かったことにされたという記載が散見されたが、今現在の十分にリベラル化されたホワイトでクリーンな価値観を画一的に押し付けることに躊躇のない世間から見ればそうなるんだろう。
しかし今まで裁かれてなかった問題が俎上に載せられるというのは、その背景に価値観や状況の変動が生じていると見るべきではなかろうか。隠蔽であれ黙殺であれそれを駆動させているものが何だったのかを明らかにせず対象を裁くのはいかがなものだろう。
ジャニーズのアレを知ったのはyoutube経由だったが、問題の土台を形成しているのはそういうネット社会そのものだ。
SNSが流行って以降は影響力を行使するのがタレントや有識者の特権ではなくなり、youtubeが流行って以降は映像による情報発信がテレビ局の特権ではなくなってしまった。
スマホで常時インターネットが持ち運べる環境はマスメディアを第四の権力の座から引きずり降ろしつつあるわけで、そういう時代の変化が永きに渡って市井の人々から隔絶され君臨していたシステムを「裁き得る」「語り得る」対象にしてしまっているのだと思う。
これはこれでマスメディアの脱権威化、民主化が達成されたようで喜ばしいような気もするけれど、ここ数年陰謀論とか反ワクチンとかフェイクニュースが大量発生したのはマスメディアの求心力の低下が起因していたことを思えば無条件に肯定するのは難しい。
ネット上では昔から何かと悪く言われることが多いマスコミではあるが、良くも悪くも大衆に自己像や出来事の「確からしさ」、最大公約数的な真実のようなものを提示するという役割は果たしていたように思う。
旧Twitter上でリアルタイムにそれが虚像に過ぎないと看破されるようになるまでは機能していた、気がする。
マスメディアが鏡像を写せなくなり、大衆が大衆足りえなくなっている、大衆が自己像を喪失し続けているのが令和の世間の状況ではないか。
ジャニーズ含めアイドル的なものはそれが指す言葉の通り偶像であって、大きな資本に支えられた出来の良い嘘そのものなのだが、それを「嘘だ」「そこにいるのは人です」と言ってしまうのは何とも無粋というか、身も蓋もない話である。幻想や粋の為に性暴力に晒される人間からしたらたまったものではない、という話は確かにその通りなのだが。
しかしそういう話はインターネットの暗く湿った界隈でやれば良い話題であったのだけれどこれから先はそうもいかないんだろう。
ジャニーズのアレが象徴しているのはフィクションの投影装置としてのマスメディアの終わりなのではないか。そのように思えてならない。
今後は消費者が気兼ねなく、一切の罪悪感を抱くことなく一人の人間を消費していくための様々な工夫が凝らされてくるのではなかろうか、と考えるとちょっとワクワクする部分はある。フェアトレードのコーヒーやカカオみたく罪悪感フリーな消費を促進すべく、アイドルは自らがこれまで以上に自由意志でやっていることを強調するようになり、かつ事務所は所属アイドルの意志を尊重しかつ人道的に扱っていることをアピールする、そういう茶番が各所でダラダラと繰り広げられることになるのではないか。それ自体は今現在の支配的な価値観を補強するものなので「良いもの」というしかないが、旧来のフィクションの型を当世風の消費形態に合うようにブラッシュアップする以上のものにはなりようがないだろう。
ところで私は世相を斬りたくてこんな駄文を書いているわけではない。もう少し文化的な話をしたくて上記を前景として語っているのだ。
例えば人の容姿を形容する際に「ジャニーズ系」と言われたら何となくイメージがついてしまうけれど、その程度には我々の文化的コードにジャニーズ的なものというのは組み込まれてしまっている。
今後ここに少年愛を抱えた老人の性暴力という強すぎる文脈が不随してくる事態をみんなどう受け止めていくのかが気になる。うまく切断処理が出来るものなのか。
ジャニーズ的なものがその実少年愛を抱えたおっさんの欲望の眼差しで構成されていたとして、それを「良い」と見なす人々は既にそのジャニー喜多川の眼差しを内面化していると言えるし、具現化された欲望に魅せられ感染させられているとも言える。そして世の人は政治的に正しいかどうかで欲望の対象を易々と切り替えられるほど器用に出来ていない者がほとんどだろう。
事は国内の文化だけに留まるものではない。ジャニーズ的なものは韓国に渡り韓国から世界的に発信されてしまっているわけで、老人が少年達に向けた艶めかしい眼差しはもはや世界的なものになってしまっているといえる。
元々中性的な顔立ちの少年を愛でる文化というのはアラブ圏であれ欧州圏であれ世界的に類似はあるが、これは美しい少年を集めて歌って踊らせるという老人の企てが受け入れられる土台がある程度整っているということでもあるだろう。潜在的な需要は十分にあるのだから、この先蔓延ることはあっても下火になるとは考えにくい。
美少年のエロティシズムを愛でるコンテンツは需要がある以上これからも作られ続けるのだろうが、その陰でジャニー喜多川の亡霊が徘徊し増殖を続けていくのだろう。かなり悪趣味な想像ではあるが。
文化に手製のミームを刻み込むことがクリエイターとしての勝利だとしたら、ジャニー喜多川はヒッチコックや手塚治虫並みの大勝利を収めていると言ってよい。
この先ジャニーズ的なものの文化コードを解してしまっている我々はどこか気まずさを感じながらコンテンツに触れていくしかないんだろうな。
これはクリーンでホワイトであるべきとされるこれからの世の中とどこかの一点で、いつか鋭く対立しそうな気もするが。
お金ほしい。お金ください。