インスピレーションと約款号1

「Saw」(2004)

生々しく人が生きたいとあがくさまが訴えかけてくるものは、やはり無視できない衝動を秘めており、それは精神的・肉体的に実感しうるところがある。

「デスゲーム」というお題目は昨今ではもうメジャーなジャンルとして使いまわされるようになったが、自分が若かりし折にこの作品を観た時のインパクトたるや、いまだにありありと映像が呼び起こされるほどである

シリーズで続けて制作されるうちにスプラッター色を看板として知名度を上げてはいたが、1作目は「キューブ」に並ぶソリッドシチュエーションスリラー、どんでん返しの結末が評価を受け話題となったもの。


作中でシリアルキラーとして描かれる「ジグソウ」ことジョン・クレイマーの原点的思想『自身の生に感謝しない人間に生きる価値は無い。生死を試される試練において人はようやく生きる意味を見出すのだ』はコンセプトそのものでゲームに登場する人物たちは我欲を貪り、他人を食い物にし自堕落に生きる等の性格を抱えた者たちばかりだ

ここで生死を試すとはまさしく血肉を削ることを指しており、時間の猶予も許されず優柔不断は文字通り命取りになる。ゲームから生還し、代償を払い、痛みを知ることで「ジグソウ」の治療ともいえる救済は完了したことになるのだ。


言うまでもないが、痛覚とは生物的に忌避すべきものでありその刺激はそのまま生存本能に直結するものである。生命機能の停止を避けることが生き物として課せられたひとつのプログラム上、そこを回避することはカタルシスを得ることも同じである

いたみを被ることは生を潜在的に呼び起こし、瞳孔を開かせ、まざまざと自分が置かれている現実を認識させる。生きるため、生きていくために血潮をフル回転させる、そう、我々は死ねないからこそ生きるしかないのだ。

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