理性はそう言っててもメンタルは正直だな

個人的に「これは呪いだなぁ」と言うくらいに抱えてしまった思い込みがある。
「○○を好きにならなきゃ」「○○を楽しまなきゃ」という、「好きに対する義務感」である。

悩みに悩んでいた頃の、先輩からの「楽しんでやりなよ!」を大真面目に受け取りすぎて、いつの間にかその言葉の通りに遂行しなくては……というプレッシャーに変わったものである。

人を喜ばせるのが昔から好き、人と遊ぶのが好き、と自分では思っているし間違いではないのだが、もっと根本を突くならば、人と感情を共有するのが好きだと思っている。
だから、「それわかる!」とか「やっぱりあれ楽しいよね!」というのを他人と共有できると楽しい。

逆に、違う意見でぶつかり合う議論や価値観のすり合わせはとても苦手だ。
だったら自分が譲歩して相手に合わせてしまおう、となる。

「○○が好き」で見栄を張りたい時もある。
見栄を張ると言うと大袈裟かもしれないが、私が知っていて他の人が知らないこと、を楽しげに聞いてくれることが嬉しい。
あるいは、社会的に「それが好きって素敵だね!」という雰囲気を出してもらえると安心する。

とはいえ、やはり心の奥底で「これが好き」「今はそうでもない」は明確にある。

いしかわゆき さん著「書く習慣」では、「心が動いたらインプット」と言われている。
本当に好きなものについてはびっくりするほど心が動くし、今はそうでもないな……というものについては少し冷ややかな目を向けそうになるほど感情はシーンとしている。

好きを偽ると、自分がおかしくなる。
必ず、どこかで歪みが出てくる気がする。
メンタルの健康のためにも、「好き」には正直でいたい。

好きなコンテンツに正直に「好き!」の感情を向けて、少し疲れたな?と思ったものからはほんのり距離を置く。

「推しは推せる時に推せ」
無理をするな。心が推しに向いている時、財布に余裕がある時に推せ。
少しくらい他人に任せる期間があってもいい。
個人Vに儚い存在が多いのは事実。だからこそ義務感も生まれやすい。
だが、それでリスナー側が疲れてしまっては、推しも幸せにならない。

元気な時に、また戻るよ。推したち。

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