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字は『描く』時代でいいじゃない

ヘッダーは遊びついでに調べたご祝儀袋にまつわる文字をミリペンで描いたものです。読める人は多分『こっち側』の人です、よろしく!


Twitterランドに5年以上も住んでいると、「これ前にもバズってた話題だな」なんてツイートを見かけることが増える。さらに、それがもっと進んだもの——そのトピックが『バズを集める特殊な話題』という看板すら外れて、『常識』としてこの世界の人々に根付き、当たり前のようにその価値観で話をしている場面に出会うことも増えた。
その一つに、『体育と運動』の関係性がある。体育の授業で嫌な思いばかりを受けてきたので運動と名のつくものは一体全体苦手だったが、大人になって運動が苦手な人向けの講座なんかに行ってみたら身体を動かすことの楽しさを知った、というもの。個人的には、リングフィットアドベンチャーの発売あたりから、自分のレベルに合わせた運動をやることが肝で、誰かに定められたり誰かと競ったりするような体育的な運動は運動の十分条件だが、必要十分条件ではないという考えが当たり前になったように感じている。

私は『書写と書道』もこれだよなあ、と思う。

たとえば生来左利きの友人は、もともと左利きには不利である構造の文字を書くことに加え、毛筆に関しては「きれいに書けるようになれ」という祖母の熱心な指導も受けたことで、書写の類に苦い思い出ばかりが残っていると言っていた。
どうしても向いていないのに、席に着けと命じられ低評価をされれば誰だって嫌になる。体育で逆上がりが出来ず、後転も出来ず、しかし親兄弟は出来る側なので悩みを吐露しても学校に行きたくないと駄々をこねても「できないのは己の努力が足りないせいだ」と言われ、結果マットと鉄棒の授業を心の底から憎んだ私にも、その感情は覚えがある。

私は根本的に腕力握力がなく、その上で身体を動かすセンスがなかった。筋肉の動かし方や骨の仕組みに興味を持ったのが最近なので、その辺りからもお察しなのだが。

私にとって書写の授業は「先生の話を聞かずに好き勝手していいボーナスタイム」だったため、振り返ってみても授業を舐めきって遊んでいた記憶しかなく、嫌な思い出もない。が、 字を書くことに対してある種の「ただしさ」を植え付けるもので、ちょっと窮屈だったなとは思っている。
手本があり、題字が決まっていて、高い評価を受ける作品は手本に「似ている」もので、指導として直されるのは「似ていない部分」。レベル別に技術指導はあっても講評の時間は当然なくて、ただ書き写す技術を磨く時間。年に一度の書写競技会は字を精巧にコピー出来る技術を問い順位をつけるから競“技”会。そういう認識だった。

書写というのは、学習指導要領によれば「文字を正しく整えて速く書けるようになる」ための訓練として存在するようだ(参考:光村図書)。そして毛筆と硬筆という二つのアプローチを用いるのは、硬筆と毛筆の線を比較することでより点画や字形への理解を深め、適切な筆圧で字を書けるようにする訓練でもあるらしい。私はてっきり“毛筆技術の習得”に意味があるから筆を取らされるのだと思っていたが、指導要領を読む限り、それは理由としては副次的と見るべきだろう。なんたって、毛筆をやる理由に社会的な毛筆の立ち位置については書かれていないし、明文化されている理由である点画の比較観察だったり筆圧コントロールだったりは、毛筆に限らずサインペンやカリグラフペンでだって出来るのだ。毛筆はその中から誰でも知っている一手段を選んだ、くらいのものだろう。
だが、指導要領に毛筆の二文字が書かれているなら目標がとか理由がどうたらと考える前に毛筆を教えて児童生徒に不利益を与えないようにするのが責務であるし、現実の教育現場は多忙そのものなので、「正しく整えた字を早く書く」という目標に立ち返った評定などという、時間だけが溶けていきそうなことをする暇もないだろう。となれば体育の評価よろしく、技術習得レベルの基準線をいくつか引いて、どのラインまで届いたのかで見るくらいしかやりようがない。美文字コピーは分かりやすく技術が出るから、環境因子をなるべく排除した合理的な評定が可能だ。だから人々はそれを、筆による字形のコピー技術を「書道」だと思い込んだまま大人になる。

先日、私は書道が苦手だという姉に祝儀袋の表書きを代筆してくれと頼まれた。勘のいい人は察しているだろうが、私は書道教室にそこそこ通っており、小学校の6年間すべてで県下席上揮毫大会の学年代表をやった(だから先生の指示に従わずに遊んでいても不問)。そして大人になってもかわいい硯を父に買ってもらってニッコニコするような娘なので、毛筆自体にはなんの抵抗もない。

おキャワな硯


だが、姉の名前など当然ながら書き慣れていないし、普段から筆を持っているとか、師範代の資格が取れるくらい筆の技術があるかと言えばそれは否なので、調べて書くというアプローチを取った。納品した祝儀袋は「さすがだね」と言われたが、私はそれを聞いて「何もさすがではないぞ、姉にも簡単に出来ることだぞ?」という感覚、喉に魚の骨がつっかえたような心持ちになった。

だって、調べて書いただけなので。

書道の入り口をかじった人間や物好きな人間は、字典なる書物を知っている。それは世界に遺された書の作品から世の中にある漢字や仮名をだいたい全部コレクションしたもので、文字の始まりである象形文字から楷書までの姿がまるっと載っている。文字のアルバムと呼べばイメージがしやすいだろうか。私は図書館に置いてあったそれで姉の名前やら何やらを調べ、資料として紙に書き写し持ち帰り、5回ほど練習してしたためただけなのだ。資料が素晴らしいのであって、私はほとんど何もしていない。

私がお世話になったのは大書源。推しです。

さて。

ここで『5回ほど練習してしたためただけ』という文言に対して、「筆の技術がなければ手本があろうとそのコピーができないんだよ、それは習ってた人のチョットデキル構文じゃねえか」と思った人、いると思います。

それが書写による書道の誤解だと私は思う。

書道には、双鉤塡墨(そうこうてんぼく)という技法がある。これはいわゆる輪郭のトレースとバケツ塗りのことで、カーボンコピーも活版印刷もない時代、書の神と言われた人々の作品を後世に残すのに欠かせなかった手法だ。書の神がなぜ神かといえば、字の組み立てや筆遣いの技術が人並み外れていたからなのだが、書の生まれ故郷こと現在の中国あたりの国々では、その神の書いた作品を持つことが権力者のステータスだった。よって作品は権力者の元に集められ、さらに本人の意思で手放したりクーデターで持ち主が滅ぼされたり盗難被害に遭ったりしない限り、作品は奪われないために共に埋葬された。

作品がそのまま権威の箔だからとはいえ「死後まで俺のもん!」するの、ヤンデレ力が高い

権力者に独占所有されるだけでもなかなか書が人の目に触れないので世界の損失なのだけれど、こと埋葬においては後世で神の書が二度と読めないということでもあるので、人々はやがて作品の複製を試み始めた。ただ、書写の授業で習った作法のような『神の作品を手本として観察しながらその通り書く』というような複製が出来るような人はその人自身もまた神であることが常で、大体新作を書くという仕事でスケジュールが埋まる。誰しもが字を書けたわけではない時代において、ただ字を書くだけでなく美文字さえ生み出せる人物が暇になることなどないのだ。
そこで、人々はどんな一般人でもコピー機になれる双鉤塡墨というやり方で神の書を複製することにした。双鉤塡墨はトレスと色塗りなので、字の仕組みが分からなくても、自分が今何をなぞっているか分からなくとも、紙に線を引くということさえできれば誰でもできるし、『完璧なコピー』が可能だ。さらにその謄本が今度は原本としてトレースされる側になれば、作品をコピーする速度は速くなり、広く普及させることも可能になる。こうして双鉤塡墨は結果として数々の名作を現代に繋いだ。実際、真筆(神本人が書いたもの)が遺っていない作品もままあり、書道を普遍的芸術にのし上げた書聖と呼ばれる人物の真筆作品に至っては、現代に一つも遺されていないという。

書写の授業を受けるとき、最初の練習として手本を筆でなぞるという経験を多くの人がしたと思う。私の朧げな記憶の中にも、そういう副教材が教科書にセットになっていて、コピー紙書きにくいなー、なんて思いながらなぞった一幕は保存されている。
だがあれは、字の骨こそ簡単にコピーできても、字の表情までコピーするにはそれなりの筆の技術を要する。紙と筆の滑りや紙に対する墨の浸透速度を感覚から計算出来ないと滲み掠れといつまで経っても腐れ縁だし、線の強弱の制御が上手くなければ手本通りの表情の線にはならない。そして、この練習は既に技術を持っている人や勘のいい人と、技術もないし感覚が分からないという人の差がもろに出るが、担任の先生がそれを埋められる指導技術を持ち合わせていることは稀である。体育の授業と構造が同じなのだ、苦手になるなという方が無茶だ。
実際小学生の私はそれで無自覚にクラスメイト何人かのプライドを折ったようで、それはやがて年に一回車酔いと戦いながら春日井にドナドナされる未来に着いた。

ちなみに、それでも筆を持つことに嫌悪感を示さないようなセンスのある人は、大抵手練手管でスカウトされて遠からずこっち側にきます

話が逸れた。まとめると、手本をなぞるとか横に置いて書くとかのいわゆる習字は、筆の基礎技術があって初めて整形や表現という次の段階へ向かうことができる、という性質を含んでいる。そして、書写の授業というわずかな期間で積める毛筆技術には大きな個人差と限界があり、出鼻をくじかれた人ほど技術をきちんと積めないまま習字道具とも別れる。だから書道が苦手、筆文字を書くのが苦手、という認識に落ち着き、「自分にはどうせ書けない」と思い込む。

しかしそんなことはないのだ。手本を入手し、筆記具を筆に限定せずに双鉤塡墨をすれば誰だって綺麗な字は書けるし、『なぞったから』書道でなくなる、なんてことにはならない。手本を入手するにも図書館に行くのが面倒なら、スマホで調べるとかデジタル端末画面に筆っぽいフォントでこれから書こうとする文字を表示するとかするのでもいい。画面表示方法はすでにインターネットにお役立ちライフハックとして転がってもいる。
筆記具はある程度細い線が引ければなんでもいい。このnoteのヘッダー写真、『金参萬圓』の草書だって0.1のミリペンで双鉤塡墨したもので、だからこそ私は「姉にも出来るのに」と思ったのだ。(この姉は絵心がある)(呪術廻戦の絵を練習するって言ってたのでいつ見れるのかソワソワしている)

書道の基礎練習は『臨書』であり、臨書の手法の一つには書写作法の「手本を横に置いて書く」というものもある。その点で書写は書道の一部だけれど、それは一部でしかないわけだ。

書道の懐は広い。双鉤塡墨のように字を『なぞり描く』ことも書道。
書道とは字にひたすら向き合い表現することであり、字をどう書くかについての手技によって縛られるものでもない。

どうか、書写が嫌いだった人に、この自由さが届いてほしい。

そして、手書きでものを書くことが少なくなったからこそ、字を『描いて』ほしいと思う。



蛇足あとがき:筆文字を書きたくないけど書かなきゃいけない時に使う筆記具は筆ペンだという人は多いと思いますが、正直言うと、「日頃から筆ペンを使っているのでクセをよく知っています!」とかでもない限りは筆ペンで筆文字書くのがいちばん難しいと思います。筆ペンはナイロン毛100%でできてるという特性上『筆ペン』という一つの筆記具ジャンルなので。
(書道筆を手頃な価格で買おうとするとだいたい動物毛100%かナイロン混合のものにあたります。習字道具セットなんかも書きやすさ重視で動物毛のものを入れてるところが多そうだし、ナイロン100%の筆はおそらくわざわざ買う必要がある)
だから、書写の技術を使うなら墨と硯引っ張り出して細筆で書いた方がまだ書きやすいんだけど、そんな暇も手間もかけられない人は多いと思うし、そもそも道具なんてとっくに捨てましたという人も多い気はするので、いっそのこと『描けば』ええやん?という記事でした。

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