すうじ。

ひとの死を、名前で述べるか、数字で数えるか。

それを分けるのは、そのひとを知っていたかどうかだろう。

ひとは勝手だ。知らないものは分からない。

名前を知るひとの死はすごく重たく受け止めるのに、名前も知らないひとの死は数字でしか見ない。

身勝手だと思う。だけど、全部に感情を通すことはできない。所詮ひとは身勝手なのだ。自分のことで精一杯なのだ。

仮に、すべてを名前で見たら、少なくない人が、精神的に参ってしまう気がする。

どんな生活があったのか、どういう背景があったのか。そういうものを見ないために、あえて数字でカウントするしかないのかもしれない。

ひとの命が、ほんとうにすべてで等しいのなら、数字で数える死と、名前で述べる死が同居するのは、いささかおかしなことだと思う。等価であるなら、含まれる情報は全く同じのはずなのだ。単位を何人から誰々さんにしたときに、情報が増えるのなら、それは等価ではない。だってイコールで結ばれないからだ。

現実はそれが同居する。それはすなわち、等しくない。

ひとは勝手だ。自分も含めて。





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