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センタクノレンゾク


洗濯機の修理を依頼した。

2ヶ月前に買ったばかりの洗濯機の脱水機能が壊れたのか、はたまた何か詰まっているのか、とにかく元気よく洗い出したと思ったら急に脱水になると拗ねる。うんともすんとも言わない。

「とんでもないものが詰まっていました。」

まるで映画カリオストロの城の銭形警部のあの有名なシーンのように修理に来てくれたおじ様が言った。なに?私の心ですか?

これです、と見せられたものは真っ白い粉の塊。
...?なんだこれ。そんなものに手を出した覚えはないぞ...。

『な、なんですかそれは...?』
「洗剤です。」
『洗剤!?』
「固まってしまったのでしょう、これが排水にいくまでのところに詰まっていました。」
『液体石鹸なんですけど詰まるもんなんですか....』

最初は合成洗剤を使っていたが、すすぎを2回以上おこなったり色々試したが何度も肌が荒れてしまったので、肌に優しい石鹸に変えたのだ。粉の石鹸は溶けにくく詰まりやすいと聞いたので、液体石鹸にしたのだがまさかそうなるとは...。

「人に優しく、地球に優しいものは洗濯機には優しくないんです。」

悲しそうな顔でおじ様は言った。なんだかとんでもなく悪いことをしてしまったような気がして、申し訳ない気持ちになり、謝った。

別にナチュラル派だとかそういう訳でもない。合成洗剤は悪!とか一ミリも思ってません。ただ乾燥しやすい冬も、花粉がよく飛ぶ時期も、ダメージを受けやすい夏も、なにかしら肌トラブルが起きるから少しでもダメージを抑えようと色んなことを試してみてるだけなんですよ...。

人に優しく、地球に優しく、では
洗濯機に優しく、は叶えられない。
きっと洗濯機を仲間に入れると今度は人か地球が外れてしまうのだろう。困った。
私は何も救えないのか...。多分シャボンディ諸島でのルフィもこんな感情だったんだろうな。

「どうしても(この洗剤を)使い続けたいならお湯で溶かしたりしてもらった方が〜〜〜〜」

どうしても使いたい訳ではない。ただ、選び直すのが面倒なだけなのだ。使い回されて擦り減った名言のひとつに「人生は選択の連続だ」なんてものがあるけれど、本当にひっきりなしに選択させられるのが面倒で面倒で仕方がない。それが自由を与えられているということなんだろうけど、時々あまりにも広くて深い自由に溺れてしまいそうになる。敬愛する日食なつこが描いている曲のタイトルにある通り、まさに「致死量の自由」だ。人は過度に自由を求める傾向にある。もちろん人が人らしく生きる権利を脅かすほどに少なすぎるのは良くない。それによって争いが起きるのも最もだと思うし、人道的に許せないだろう。ただ、完全な自由の先にあるのはきっと破滅だ。

「〜〜〜ということです。」

全然聞いていなかった。とにかくあれだ、洗剤そのものを変えるか洗剤の使い方を変える(お湯で溶かしたり)か洗濯板に変えるか、何かしらの選択をしろということだろ、たぶん。

『分かりました!色々考えてみます!』

全然わかっていない人の返事をすると、おじ様は丁寧にお辞儀をして帰っていった。

...また選択をしなければならない。できるだけ肌に優しく、地球に優しく、洗濯機に優しい洗剤を探すか。あー面倒くせえ。面倒臭いけど人間らしく生活していくことを選択した限り、日々洗濯物は溜まっていく。

結局、逃げられない選択と洗濯に悩まされて生きていくしかないのだ。

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