#3「マティーニ・オン・ザ・ロック」
「◯◯さん...ですか?」
急に聞こえてきた自分の苗字に驚いて顔を上げる。確かにそれは私の苗字だった。
カウンター越しにいるのは杖をついた初老の男性。しかし全く記憶にない。初対面のはず...。
『もしかして...父のお知り合いですか?』
男性は笑顔で大きく頷いた。
そういえば先日父から連絡が来たんだった。
「新年会で同期に◯◯(私)の働いているお店を紹介したら、友人の一人が行きたいとの事で、...(略)来店したら対応をお願いします🙇♂️」
謎に業務的な構文に似合わない絵文字を付けてそう送られてきたんだった、とギリギリ思い出した。
父の友人に会うことなど滅多にないので不思議な気分だった。
どうやらその男性はウイスキーも、バーで飲むことも好きで若い頃はよく飲み歩いていたらしい。
「ローランドの...あれはなんだったかな、すごく好きなウイスキーがあって...」
記憶を辿るように話す男性に、マスターがすぐさまいくつか候補を出す。
「ああ、それ!キンチー、グレンキンチーだ。懐かしいなあ、それをロックで。それとチェイサーをお願いします。」
丁寧に注文した後はウイスキーを飲みながら、少しずつ思い出してきたよ、と笑って色々な話をしてくれた。
脳梗塞で眠っていた期間があったらしく、苦手そうに記憶を辿り、たどたどしく話すのだが、言葉と表現はとても綺麗だった。
「まだ若い頃、福岡のバーで色々と教えてもらったんだ。その頃はまだ何も飲み方も分かっていなくて、ペースも考えずお酒を注文して、カウンターで寝そうになってしまってね。
そうするとマスターが『あなたにはこの飲み方が合っているかもしれませんよ』と、飲みかけのマティーニに、あの三角形のグラスの中にね、氷を一つ、落としてくれて。
そこからウイスキーも、バーでの飲み方も少しずつ教えてもらったんだよ。懐かしい、懐かしいなあ。」
ショートカクテルは三口で飲むもの。
バーのカウンターで寝るのはご法度。
乾杯はグラスを当てない。
ボトルは勝手に触らない。
そんなバーでの常識は、=暗黙のルールでもある。最初から知っている人なんて誰もいない。
しかし、中には嫌な顔をしたり、冷たい態度をとる人も、中には店から追い出すような人もいるだろう。男性が出会ったマスターはそういったことをせずに、若かりし頃の男性に優しく教えた。そういう人がいないと、そういう文化が残らないと、繋げて紡いでいかないと、きっとこのバーという古風で体育会系で面倒でなによりも美しい文化は消え去ってしまうのだろう。
「ゆっくり、のんびり」
店の外まで見送りに出て、門が近づいたところで男性はそう言った。
そして一呼吸おいてから、
「自分のペースでね。そうやって仕事するんだよ。」
と言葉を続けた。
少し前から身体を悪くしている父への不安、加速していく将来への焦り、さらにそこに消し去りたい記憶が脚を引っ掴んできて飲み込まれそうになる日々。
父から何か聞いているのか聞いていないのか(いやきっと父はそういうことは人には言わないので聞いていないのだろうが)、ふいに核心を突かれて反応が遅れてしまった私に笑顔を向けて帰って行った。
ゆっくり、のんびりか。
確かに最近焦り過ぎていた気がする。
自分が今できる範囲でやればいいもんな、と考えるとなんだかちょっと気持ちが軽くなった。
人と違っていようが邪道だろうが誰かに何かを言われようが、それが自分に合ってるならそれが自分にとっての最適解だ。進む速度は人それぞれ違うから自分のペースで進まなきゃね。
例えるなら、マティーニに氷を落として、オンザロックで飲むように。
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