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今はロックもかっこいいと思うよ。

わたしは子どもの頃「分かる人だけに伝わればいい」という雰囲気を醸し出すアーティストが苦手だった。伝えたい世界観があるのではないのか!それはたくさんの人に受け取ってもらわなくていいのか!ってかプロなら伝わる方法を考えるべきではないのか!と、消化不良である彼らの存在に対して、その消化不良ゆえの偉そうな不満を抱いていた。
そういう不満を抱いていたにも関わらず、哲学という、おそらく世の中的には「何でそんなに難しく言うの。伝える気ある?」の上位に置かれがちなそれを、好き好んで生活に取り入れており、人間は多面的で重層的だ。ちなみに哲学者たちはきっと全く、「分かる人だけに伝わればいい」とは思っていないんだと思う。感じて、考えて、捕まえて、取り出して、記述して、見えて分かるようにするのって、なんて凄まじい営みなんだ。

いっちょ大学院に行ってみるか、というカジュアルな雰囲気をまとって春から再び学校に舞い戻ることになっているわけだけれども、卒論の計画に戸惑ったあの日から、ひょっとしたら秋風の吹いた高校3年生のあの日から、わたしの問いは結局何なんだろう、とずっと考えている。
それについて、ひとりの心の中に留めておく範囲を超えてあちこちに説明を求められる機会が多くなってしまったことも一つの理由ではあるけれど、それよりも、全然捕まえてあげられない自分の好奇心や興味を、それを深めるためにもっとじっくり見たいのに、捕まえきれずどうしたものか、という気持ちの方が大きいような気がする。

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関係性が深まると人見知りをする、というと一笑に付されることが多いのだが、これは「こんなに仲がいいのに絶対的に他者!」という事実が迫ってくることによるのではないかなあ、と最近考えたりする。
わたしは、3年間も狭い事務所で一緒に仕事をした人たちに、泣きそうなくらいの人見知りをして、異動のご挨拶をしてクッキーを配るタイミングがわからずに15分間外を彷徨い歩いた、我ながら意味のわからない会社員だ。とても個人的(人事異動はそれほど個人的でもないのだけど)なコミュニケーションを、たとえそれが「仕事で大変お世話になりました」ということを伝えるためだったとしても、仕事をするための事務所という超公的な場に突然差し込むタイミングが分からない。ここは公的な場です!という会社の意味や在り方のルールはとても明快でわかりやすい。でも、そこにいる一人一人は何を考えているのか全然わからないし、声をかけてこちらを向いた瞬間に、もっとわからなくなる。「お仕事中すみません」と発した途端に、わたしのものではないその瞳とあなたという絶対に違う個人から、今この状況はどう見えていますか!あああ!という困惑でこころがいっぱいになる。ごめんね、ありがとうとは本当に思っていたけど。

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そういうわけで、こんなに人はひとりなはずなのに、みんなで社会ができている!という驚きとやばさを受け止めきれなくて、その「あああ!」という混乱をちゃんと眺めたくて、わたしは問うのかな、と、今は暫定的にそういうことにしている。

これまでわたしの存在や思考を揺るがしてきたいろいろな出来事が、恐らくいろいろな興味や問いのきっかけになっていたりはするのだけど、なかでも、「分かる人だけに伝わればいい」雰囲気のアーティストたち(別にアーティストに限った話ではないのだろうけれど)に抱いていた漠然とした不満は結果、「本当にみんなに伝わる言葉や方法はあるのか」という問いに形を変えて、長らく付き合うことになった。

小学1年生の日記に、「いっぱい文字を知れば世界の全部を書けますか?」と書いた記憶がある。無邪気は無敵だ。当時可愛い丸文字で連絡帳や日記にコメントを残してくれた先生に対し、わたしは「いつもリプくれる、嬉しい。だから聞いてみたい。」くらいの気持ちで聞いた気がするのだが、それから20年近く経っても、同じようなことにハテナをつけている。
言葉で世界は語りうるのですか?あなたとわたしで一緒に社会を築きたいと思った時、どうやったら同じ方向を向けますか?言葉を尽くして、一緒に話せば分かるのでしょうか?きちんと一緒に生きる人たちの声を、聞けているんでしょうか?

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