事実と感情を分ける
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙2章8節
自分の中で事実と感情がごっちゃになってて、それゆえに長らく苦しんでいた。
事実と感情は分けて考えたい。事実と感情は分けて整理する必要がある。
(事実)
事実は、神の恵みにより信仰によって救われたこと。
(私の感情)
時々、過ち、罪をおかす自分がいる。いや、かなりの頻度で罪をおかす自分がいる。罪をおかしたときは、落ち込むし、罪をおかしたときは自分はダメな人間だと私の感情はなってしまう。
私の感情は、罪をおかして落ち込む。罪を繰り返しておかすときクリスチャンとして自分は情けない。恥ずかしいとも思い、自分は救われてないと勝手に思い込んでしまうときがある。自分はみんなに、「お前それでもクリスチャンか?」「それでもお前は救われたのか?」と非難されていると思い込んでしまう。
事実と感情がごっちゃになってしまっている。
事実と自分の勝手な思い込み(感情)は、分けて考えたい。
冷静になり、事実と感情をしっかり分けて考えたい。
事実であることは何か?
事実、あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙2章8節
これが揺るがない事実。
私の勝手な思い込み、感情とは関係なく揺るがない事実。
自分の感情が、勝手な思い込みが事実を上回ってしまわないようにしたい。
事実を事実として、きちんと受け止めたい。
私がたとえ、罪をおかしたからといって、救いが取り消されるわけではない。
私が何かできても、できなくても救いは取り消されるわけではない。何かできても、できなくても自分の価値が下がるわけではない。
私がうまくいかないときも、うまくいっているときも、高く評価されるときも、全人格を否定されるときも、どんな状況、どんな感情のときも、救いが取り消されるわけではない。
私の感情、私の状況、私がどんな感情や状況のときでも事実は事実。
揺るがない事実は揺るがない事実。
事実を事実として、受け止めたい。
事実と感情をごっちゃにしたくない。
うまくいかないとき、最悪な結果なとき、最悪な調子のとき、逆に最高のとき、最高の調子のとき、いつなんどきいかなるときも、いかなる感情のときも、事実は事実。
もちろん、罪を平気でおかしても良いという話ではない。罪をおかしたら、やっぱり神様にごめんなさいと素直に謝り、神様が喜ばれる方向性へと向かうことだと思う。
何がいいたいのか?
御言葉が事実。御言葉が事実。御言葉が事実。
事実である御言葉によって生きる。
事実と自分の感情をごっちゃにしない。
事実と自分の思い込みをごっちゃにしない。
事実を事実として、受け止める。御言葉が事実。
恵みにより、信仰によって救われました。という事実に感謝したい。
事実、永遠の命が与えられた。それが揺るがない事実。
移ろいやすい私の感情、私の思い込みに生きるのではなく、変わることのない事実である御言葉にいきたい。
事実である御言葉と共にいきたい。
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