詩編23編を生きる

主は私の羊飼い。

私は乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ

いこいのみぎわに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ

御名のゆえに私を義の道に導かれます。

たとえ、死の陰の谷を歩むとしても

わたしはわざわいを恐れません。

あなたが、ともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖

それが私の慰めです。

私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え

頭に香油を注いでくださいます。

私の杯はあふれています。

まことに私のいのちの日の限り

いつくしみと恵みが、わたしを追って来るでしょう。

わたしはいつまでも、主の家に住まいます。

詩編23編

不安な気持ちになるとき、恐れるとき、心配するとき、この詩編23編の御言葉に私自身、何度勇気づけられ、励まされてきたことか。今一度、詩編23編を読み、味わい、賛美する中で神様からの恵みに気づきたい。

自分が信じている神様、自分が礼拝ささげている神様、自分が賛美ささげている神様ってどんな方かと考えてみる。

ときどき、神様をこのように考えてしまうときがある。100円入れたら、100円分の飲み物を与えてくださる方。1500円のピザを注文したら、1500円分のピザを届けてくれる方。

自分の要求を忠実に応えてくれる方だと思ってしまうときがある。自分の要求に忠実に応えてくれないと、不平不満を言っている自分がいる。

勝手に神様の能力を制限している自分もいる。

神様その程度なんですね。と、神様に応えてもらえないときは思ってしまう、自分がいる。

神様を勝手に制限してしまっている。勝手に制限をかけてしまっている。

自分の信じている神様、自分が礼拝をささげている神様、自分が賛美をささげている神様、自分が祈りをささげている神様ってどんな方なんだろうか?

やはり、神様がどのような方を知って、ささげる礼拝と知らないでささげる礼拝では、違ってくるのではないだろうか?

自分のちっぽけな脳みそで、神様を制限せず、ありのままの神様、自分の感情ではなく、教会の伝統の中でつくられた神イメージでもなく、聖書に書いてある神をそのまま黙想したい。誰かにつくられた神イメージではなく、自分が勝手につくりあげた神イメージでもなく、本当にありのままの神様を聖書に書いてある通りの神様を黙想したい。

主は羊飼い。わたしは乏しいことがありません。

とダビデは告白している。

私の信じている神様は、全宇宙を造られた神、歴史を支配され、すべてを治めておられる偉大なお方。

すべてを治めておられる方が共におられる。

その方が羊飼いとして、迷える羊を導かれる。

すべてを持っているお方が、共におられる。

だから、わたしは乏しいことがありません。と告白できる。

羊飼いがおられる。

それは、ものすごい安心感と安定感を与えてくださる。

毎日、詩編23編を生きたい。

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